第3話 笹野屋邸にて

 堅苦しいのもなんだから、と、永徳は佐和子を縁側へと連れ出した。先ほど見た日本庭園が一望できる場所で、一瞬景色に目を奪われた佐和子だったが。それよりもなによりも今起きている事態への混乱が強く、表情をこわばらせたまま、ただ黙っていた。


「俺の見た目が気になるか。年齢とだいぶ違うじゃないかと」


「いや、まあ、若く見える方もいらっしゃいますし……」


 佐和子にとっては信じ難い話だったが、永徳は自分の母親が連れてきた人間だと納得したのか、顔を合わせた当初のいぶかしむような雰囲気は消え、今度は好奇の目をこちらに向けている。


「この見た目がなかなかネックでね。いい加減身を固めようと、結婚相談所などに登録しようと試みたこともあったんだが。本人確認で引っかかるのだよ。どう見ても五十代というのは嘘だろうと」


「でしょうね……」


 なんだか想定外のこと続きで、ドッと疲れが来ていた。そもそも、単にお見合い話を断りに来ただけで、こんなに長居するつもりはなかったのだ。


 そんな佐和子の様子に気づいたのか、永徳は彼女の顔を覗き込んでくる。


「うわの空だな。顔の色艶も悪い。これでは見合いも進まないなあ」


「ですから、その話は無かったことに。私、そろそろ帰らないと」


 急に目の前にやってきた綺麗な顔に動揺し、思わず距離をとる。近くで見ても肌のキメが細かくて、これで五十代は詐欺だと思った。


「そうか。だが、その顔色のまま返すわけにはいかないな。途中で倒れられては敵わん」


 顎に手を当て、考えるような素振りをしたあと。


「そこの客間で待っていなさい」


 そう言って、彼は奥へ引っ込んでしまった。


 一刻も早くこの場を離れたいと思っていた佐和子だったが、屋敷の主人に待っていろと言われては、勝手に帰ることもできない。しぶしぶ、もといた客間の座布団に、遠慮がちに正座をした。


「イタタ……やっぱ、頭痛いなあ」


 仕事を辞める少し前から、ずっと安眠できていなかった。まるで頭の上に岩でも積まれているような重さがあるし、思考もまとまらない。若干だが吐き気もする。


 こめかみを押さえて深いため息をつくと、甘い柚子の香りが鼻をくすぐった。


 顔を上げ障子の方へ向くと、永徳が盆に乗せた茶を運んでくるところだった。目の前に差し出された白磁の湯呑みから、湯気が上がっている。


「疲れを取るお茶だ。飲んでいくといい」


「……ありがとうございます。柚子茶ですか?」


「ちょっと効果の高い薬湯だと思って飲んでみなさい。きっと今晩はぐっすり眠れるはずだ」


 なんだか自信ありげにそう言う永徳は、子どもにありもしない魔法の話をするような、ちょっとした胡散臭さがあったが。素直に厚意は嬉しかった。


「ありがとうございます。では、いただきます……」


 湯呑みを両手で包み、ゆっくりと中身を口に含む。まろやかな甘みが口の中いっぱいに広がり、柑橘系の香りが鼻を抜けると、不思議なことに先ほどまでの頭の痛みはすっかり消えてしまった。


 モヤのかかっていたようだった思考も、くっきりとしてきた気がする。


「このお茶……すごいですね。魔法みたいです」


「まあ、魔法みたいなものかもな。ちょっとだけまじないが仕掛けられているから」


 クック、と笑う永徳の横顔は、障子を透ける日の光を帯びて、白磁のような肌の美しさを増しているようだった。この浮世離れした容姿の人が「魔法」だなんていうと、うっかり信じてしまいそうになる。


「さて、葵さんと言ったかな。これで少し頭がスッキリしただろう。君と少し話がしたい。安心してほしい、見合いの話ではない。君は今、仕事をしているかい?」


「仕事……?」


 唐突な話の流れに、佐和子は目をしばたたかせた。


「いえ、実は三ヶ月前に辞めていまして……今は働いてはいませんね」


「なるほど。退職の理由を伺っても?」


 なぜだか、面接を受けているような雰囲気になってきた。


「まあ、働きすぎと言いますか……」


「なぜそんなになるまで仕事を?」


 そう問われて、胸がずきりと痛む。


「私が……優秀じゃなかったから……。仕事がどんどん溜まってしまって」


「そう」


「憧れていた仕事ではあったんですけど。実績も上げられなくて。精神的にも、体力的にも追い詰められちゃった感じで」


 自分で言っていて、惨めになってきた。


 ––––なんで初対面の人に、こんなこと話してるんだろう。


 同期の社員と食事をしていても、みんなそれなりに今の部署で活躍しているようで、暗い顔をしているのは佐和子だけだった。


 大学の同級生だって、それぞれ自分の仕事を楽しんでいる様子で。


 ––––みんなができていることが、私にはできない。


 前を向いているのも辛くなって、佐和子の視線は柚子茶の上を撫ぜていた。


「で、今後はどうするんだ。どこかに再就職するんだろう?」


「……まあ、いつかは。とりあえずは療養中です」


 話しながらどんどん暗さを増していった佐和子の声は、最後は尻窄みになっていく。


「よし、ではリハビリがわりに、うちの家業の手伝いをしないか」


「……え?」


 ––––なにを言い出すのこの人は。


 驚いて顔を上げると、永徳の口角は弧を描いていた。


「そうだ! それがいい。安心しなさい、うちは明るく楽しい良い職場だ。福利厚生も充実しているぞ」


「いや、ちょ、ちょっと、待ってください」


「そうと決まったら職場見学だ! 体調は大丈夫そうだね? うん、顔色も良くなった。さあ、ついておいで」


 そう言うと永徳はしっかりと佐和子の腕を掴み、屋敷の奥へ奥へと歩き出した。


「あの、業務内容も聞いてないのに、いきなり職場見学って。私、承諾してませんし」


 佐和子の反論は聞く気が毛頭ないらしく、永徳の勢いは止まらない。


「ああ。『人間』相手に細かい説明から入ると、大方逃げられてしまうものでね。見てもらったほうが早いよ」


 ––––説明を聞いた相手が逃げてしまうって。それってとんでもない職場なのでは。


 辿り着いたのは、長い廊下の突き当たりにあるふすまの前だった。年季の感じられる襖紙には、鬼や大蛇や火車などの魑魅魍魎ちみもうりょうの類が全面に生き生きと描かれており、今にも飛び出してきそうな様だ。


「開けるぞ」


 永徳は襖の引手に両手をかけ、一気に開け放った。


「う、うそお……!」


 目の前に広がった光景に、驚きのあまり佐和子は両手で口元を覆う。


 襖の向こうに現れたのは、ろくろ首や河童など、ひと目見て人間と違うとわかる生き物たちが、ノートパソコンをカタカタと鳴らしながら仕事をしている、世にも奇妙な職場風景だったのだ。

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