第7話 駆け引き
夕食後はお待ちかねの入浴の時間である。この宿にはそれにお誂え向けの施設が存在しており、使わない手は無い。
「ご主人様と綺麗になりたいな」
アーキアは宿の娘の仕事に就き、外で浴室に用いる火を焚いている。それはつまり、テムズとエリアルの二人きりになるという事であった。ちなみにテムズにはこれを否定する選択肢は存在しない。
エリアルは主人に否定されるだけでモチベーションを急落させてしまう。全てに絶望し、何かをする気力すらも失うくらいで、彼の采配で彼女の運命は決まっているとしても過言ではない。
「確実に殺すか殺されるかだった血塗られた関係を、理に反して無理矢理味方に付ける。反動くらいはあって然るべきか」
折角心強い手駒となったエリアルの我儘くらいは聞いてやりたい。そんな考えを根幹に据えて、エリアルへ寛大に接するテムズ。
彼は思うところはあるものの、あんなに整った可愛らしい顔を見せ付けられながら頼まれれば、腹に据えかねようと、彼女を排斥するような悪感情を表に出すわけには行かなくなる。可愛いは正義そのものだった。
「ご主人様とお風呂、お風呂!」
エリアルがテムズに見せ付ける形で盗賊装束を脱ぎ捨て、それと同じく獣の皮で作られた下着があっという間に露わになる。
「ご主人様、あたしの身体……どう思います?」
昔迷宮で与えられた試練よりも無理難題をエリアルはふっかけてきた。まともに布を剥いだ状態の女体を見た事が無いテムズにはとにかく刺激が強く、思考の過多で容量のオーバーフローは免れない。
「……可愛いぞ」
大人の魅力が凝縮されたアーキアと子どもらしい活気が武器のエリアルとではそもそも比較をするのがお門違いである。
「ご主人様に可愛いって言われた……つまらなかった盗賊人生で手にした唯一にして一番のお宝だね」
ご機嫌になったエリアルは人生における美点を気持ちの籠っていない抜け殻に委ねてしまう。彼女の仲間と積み重ねてきた盗賊人生をそんなものよりも下に見ているのが見え透いていて、彼女における信念の崩壊が感じられる事が、自らが行使した魔術への恐怖へと繋がる。
「あたしは可愛いあたしは可愛いあたしは可愛い……ご主人様のお言葉、今後の邁進のためにもしかとこの胸に焼き付けておきます」
彼女は相変わらず奴隷としては至極真っ当で、人間としては破滅の道を直走っていた。苦笑いしながら彼女が狂い行くのを鑑賞していると、アーキアから合図が来た事に気付く。
浴場に入ると、件のエリアルが早速主人への奉仕に動き出した。
「お背中、お流ししますね」
エリアルはローブが無くなり、地肌が露わになったテムズの肉体に惚れ惚れとしているようだった。
「これが世界を統べる方の背中なのですね」
たかが背中でなんとも大仰にテムズも知らない野望を語り出したエリアル。
彼は、復讐は誓えど、世界征服なんて大それた真似は眼中にすら無かった。
「世界征服か……」
自惚れが過ぎた愚考だと最初は思ったテムズはふとエリアルを見やる。
短期間で魔力を蓄え、爆発的に強さを増していく化け物たちを側に置いているのを、テムズはここで踏まえてみる。
「悪くないかもな」
エリアルと共に入浴するテムズは彼女をまともに見られないでおり、向かい合っている利点が完全に殺されていた。
「ご主人様、何故目を逸らすのです?」
下着を着用してもらえたとはいえ、ほとんど地肌が見えているエリアルを、うぶなこの男が昂ぶる感情を押し殺して見るにはいささか鍛錬が足りていない。
「ご主人様に褒めてもらったあたしの可愛い身体を見てもらいたいです」
テムズの軽率な口が、彼女を調子付かせていた。ここは彼女を落胆させる可能性があっても断っておくべきだったと今更ながら、彼は後悔している。
エリアルの見た目は少し成長した程度の身体付きとはいえ、こうも積極的に誘惑されてはテムズが保たない。初期はそうでもなくても、本人の熱意によって、与える感性は容易に操作できるためである。
「エリアル……頭撫でてやる」
「はい!」
湯に濡れて、水々しい光沢を増した麗しい髪を、テムズが気を紛らわすというしょうもない私情のため、彼女の喜びの気持ちを利用する。
「ご主人様のなでなで、頭が更にぽわってなるから好きです。従う事以外、余計な事が考えられなくなります」
「俺や同類以外と接するのがお前にとって余計だからな」
「はい、正しくその通りです。他の事が目に付くだけで気分が悪くなります。堪えられません。ご主人様の推察に、疑う余地は毛程も無いといえますね」
エリアルにとって心行くまでそれを堪能させる。といっても、彼女は主人に頭を撫でられるのが大好きで、心行く……とする概念が存在し得ない。黒く澱んだ彼女の瞳に赤色の光が灯るのは、彼女が力を増している証。しかしこちらには限度があり、身体の許容量を貯め込む力が超えると、本体が崩壊する危険が著しく高まる。
「そろそろ止め時だな」
限界を見計らい、テムズはエリアルから手を放す。
破滅を望むかのようにまだ満足していないエリアル。その右目はアーキアに魔力を分けた際には死体のように何も映さない、虚な状態が常だった。それがテムズからの魔力で回復を果たし、再び貯蓄できる最大魔力を取り戻したのだ。
洞穴の一件から魔力は自然回復するようなので、テムズは下手な事はせずにそれを待つスタンスでいる。今回はテムズにとって不可抗力。ああも感情を掻き乱されては別のイベントを起こして気を紛らわし、リセットを図る以外には、彼の矮小化してしまった理性では策を纏められなかった。
「元気回復、疲れはどこかに行っちゃいました!」
「俺は疲労困憊だよ」
風呂で疲れを取るつもりが、魔力の受け渡しで却って消耗してしまったテムズ。その隣では、最早一介の魔王に比肩する元盗賊が笑顔を、憔悴しきった彼に向けている。
「いつっ!」
テムズを襲うのは疲れだけではなかった。
他人の勝手気ままに精神を支配するような強力な魔術に反動が無い筈は無く、それはたった数日で彼の身体を蝕み始める。左腕には鎖のような黒色の呪印が現れており、そう遠からぬ先に、全身を喰らい尽くすとその侵食具合から明言されていた。
「ご主人様……」
「夕食でずっとお前たちと暮らしたいと言ったのは本当だが、すまん。俺に残された僅かな時間、お前たちには付き合ってもらうぞ」
このような魔術に魂を売り渡しておいて、甘い汁だけを啜れるとは思ってはいない。
クラシドを倒して少し酔った。少しばかり、実は都合が良いのではないか、と楽観的になって逃避したりもした。しかし、訪れる現実は非常であり、そうするだけ無駄骨であった。
仲間にやられ、剰え盗賊に命を狙われ、偶然にもこの魔術と出逢った時、テムズは修羅になった。そんな彼に課せられた最後の使命は、自らの尊厳を扱き下ろした元パーティに復讐を完遂する事。
置いて行ってしまうエリアルたちには悪いと思いながら、彼は残された命の炎を最後まで自分のために燃やし尽くすと決めたのだった。
「ご主人様がいなくなったとて、あたしたちに根付いた魔術は永遠に不滅。ご主人様亡き後も、ご主人様が恨んだこの世界を永遠に呪い続ける事をこの身に、この心に誓いましょう」
テムズの腕に擦り寄るエリアルの瞳からは大粒の涙が溢れていた。
「ああ、頼むよ」
湯から上がり、今にも床に着こうとしていた彼は弱々しい声量で、確固たる決意を彼女に伝播していく。
テムズが朝起きると、痣は更に拡がっていた。身体に奔る痛みもそれに比例して増しており、エリアルたちの心配を煽る程である。こんな状態では復讐どころではなく、彼はこの堪え難い痛みで自我がどうにかなってしまいそうだった。
「延命の方法……考えなければ」
「ご主人様、それならば魔力を他人に流して奴隷にするのはいかがでしょう。丁度今日は取引なので」
「取引? 初耳だな」
アーキアは一般人だった故にエリアル程魔力を受け入れる器にはなり得ず、町人たちも同様の理由で大量の魔力を流すには厳しい。一時凌ぎにしても大量の死体を抱える事になる無駄な手は使えなかった。
「獣人娘の護送任務が正午に執り行われるのですよ」
エリアルが関わるのは数日前に壊滅に追い込んだデッドフォックスの任務。彼女はあたかもまだデッドフォックスが健在だと相手に思わせながら、奴隷を買い取る腹積もりなようだ。
獣人は基礎体力からして、人間のそれを遥かに凌ぐ。テムズは買い取った獣人に魔力を流すエリアルの妙案を二つ返事で採用する。
正午が近付きつつある頃を見計らい、テムズは痣をローブで隠しながら、エリアルと共に荒地へ降り立つ。
昨日と特に変わらない荒んだ街並みの中で歩いていると、空気も読まずに生き生きとしている強面の男たちと、鎖に繋がれた茶色の毛が際立つ獣人娘が目に留まる。
「あ、いましたよ」
エリアルが目の色を変えて彼らの元へ急行。テムズは走り出した彼女に引っ張られ、流されるままに行き着いた。
「奴隷商人の皆さん、久し振りだね。元気にてた?」
「チッ、今日は一番使えねえ奴を寄越してきたな。クラシドさんは何を思ってこいつを懐に抱え込んでんだか」
「こいつって誰の事?」
エリアルが可愛らしく惚けると、男たちから一斉に彼女へ指を差される。
「お前の事だよ、依頼の一つすらまともに熟せない小童らしいじゃねぇか。形は有望だが、たったそれだけだな」
「なんだとー! 初対面になんて口を聞きやがるんだ!」
「ほら、やっぱり小童だ。そういうのが駄目なんだよ」
商人たちの内、その元締めらしい大男にエリアルは額を小突かれる。エリアルの小さい身体は彼から受けた衝撃に耐え切れず、道中にまで吹き飛ばされてしまった。
額を押さえて悶える彼女を気にして、テムズが彼女に近付き、コンタクトを取る。
するとエリアルはテムズに微笑み掛け、そっと耳打ちをしてきた。
「大丈夫か……」
「はい、ご主人様……全て演技ですのでご安心を。かつての無能なあたしを演じて相手を良い気にさせます。この商談、どんなにお金を踏んだくられても、奴隷の購入に漕ぎ着ければそれで成功ですので」
テムズとエリアルが情報の共有を図っていたところへ、聞き耳を立てようとする無粋な輩共が水を差してくる。
「何をこそこそとやっている。さっさと商談をしたいんだが」
「いたた、警備隊もすでに懐柔してあるから、そんなに慌てなくても良いじゃんか」
「お前んとこのぬるま湯はそうかもしれんが、俺らの縄張りがバレたら即拘束モンだ。ヘマやった奴らの面も拝んでんだ。これで俺たちがちっとは臆病になるのも分かるだろう?」
「まあそう言うだろうと思って、臆病者のお前らのためにちゃんとした取引場所も準備しておいたよ」
エリアルの案内に従い、彼らは件の取引場所へと足を運ぶ。嫌がる奴隷を横目に、テムズがエリアルの隣を歩いていると、商人たちからの冷たい視線が降り掛かっている事に気付く。
「そういやこいつは?」
「あたしんとこの新人だよ。あたしが監督役兼教育係にボスから任命されてさ。目を離さないためにも今回の仕事に同席させたわけ」
「お前のような無能が監督役とは、それは傑作だな。デッドフォックスはどれだけ人材不足なんだ!」
結構破茶滅茶な設定作りは彼らに鼻で笑われる程に、その出来の悪さがすでに露呈していたが、エリアルは最早かつての仲間たちを貶されようと一切怒りを見せる事は無くなっていた。
それどころか彼らの笑い声を聞き流すように、テムズのローブに染み付いた彼の匂いを隠れて吸う事に終始している。
「着いたよ」
町の景観は段々と酷いものになっていき、目を通す度に建物が建物らしい形を留めていない酷く惨たらしいものへと変わっていっているのが丸分かりであった。
エリアルが指定した取引場所はその中でもマシな風貌をしているだけで、屋根や壁が破れて内部も散らかっており、粗悪な印象は拭えない。
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