第二問


 カイロはエジプトの首都。ナイルの下流に位置し、アラブ圏最大の都市として栄えている。

 気候区分では、あの辺は砂漠気候だっけ。年間を通して降水量が少なく、一日の温度差が大きい。

 そんな場所に、よく大都市をつくるよな。


 砂漠って、どれくらい暑いんだろう。俺は数学の参考書を開いたまま、スマートフォンを取り出して「エジプト カイロ 気温」と打ち込んだ。


 八月の平均気温は約三十度。なんだ、東京とそんなに変わらないんじゃないか。まさに「ナイルの賜物たまもの」ってところか。

 冬だと平均十四度くらい。十四度って、ここだと何月くらいだろう? 十月? その頃には、制服は冬服だったはずだけど……上着はどうしていたっけ?


「カイロでは、カイロは要らないんだろうな……」


 わずか数か月前の服装も思い出せない俺に、エジプトの人たちの暮らしなんて想像できるはずもない。


「何? シュンちゃん、ノイローゼ?」


 隣でトオルが、暗記帳から顔をあげた。視線が俺の手元に落ち着くと、なあんだ、と呆れた声を出す。


「こんな時に、彼女かよ?」


 否定や反論は逆効果だ。手っ取り早く画面を見せた。


「そういや、スフィンクスの目の前にはケンタッキーの店があるって、知ってた?」


 毎度、コイツの脳内は。跳躍ちょうやく伝導でんどうどころか、思考が飛躍しすぎだ。


 跳躍伝導を担うのは、末梢神経ならシュワン細胞、中枢神経ならオリゴデンドロサイト。それが神経軸索に巻き付いて、その隙間を信号が跳躍するから、高速で伝導する。

 そうは言っても、実際に見たわけじゃあるまいし、どういうことなのかはよくわからない。名称と図解のイラストを頭に叩き込んで、自分を納得させてきた。


 俺はトオルの頭の中に巨大なオリゴデンドロサイトがとぐろを巻いている様子を想像して、ちょっと笑った。それがてんでデタラメな方向に信号を飛ばしまくっているのだ。


「あっ、何だよ。言っとくけど、これ本当だかんな?」

「スフィンクスはギザだろ」


 トオルの思考回路が一瞬、機能停止する。


 そして巨大オリゴデンドロサイトはまた、明後日の方向に信号を飛ばした。


「あ、ちょっと待って! 三大ピラミッドって、何だっけ。ド忘れした。カフラー、メンカウラー、えっと……。カフラー、メンカウラー、……アドラー?」


 そんなわけあるか。


「あっ、ツタンカーメン!」

「第四王朝のクフ王。一番の有名どころを忘れるなよ」

「一番有名なのはツタンカーメンじゃね?」

「ギザの三大ピラミッドは、紀元前二五〇〇年頃。新王国第十八王朝のツタンカーメンは、全然時代が違うだろ」

「ふーん。じゃあ、ツタンカーメンのピラミッドはどこにあんの?」


 真面目な質問なのか、ボケなのか、たまに判別がつかなくて困る。


「ツタンカーメンのは、王家の谷。テーベ、現在のルクソール。父親のアクエンアテンがアテン信仰に転じたとき、首都をテーベから移しているだろ?」


 その後、息子の治世でアメン信仰が再興され、首都はテーベに戻され、王もその名を「トゥトアンク」から「トゥトアンク」、つまりツタンカーメンに改めた。


 父親の断行を、あっさり覆したのはどんな気分だったろう。ザマアとか、思ったりするのかな。

 まあ、決めたのは少年王本人よりも、周囲の大人だろうけど。


「ツタンカーメンが殺されたのって、何歳だっけ?」

「だいたい十八歳前後と推測されている。死因は諸説あるから、他殺と決まったわけじゃないけどな」

「ほえー! ほぼ俺らくらいじゃん。シュンちゃん、来年殺されるとしたら、どうするよ?」

「受験勉強やめる」

「そらそーだな」


 ワハハと場違いな笑い声が、冷たい視線を集めた。

 このあと部屋に残されるのは、俺のほうなんだけど。


 俺たちは、何千キロも彼方の地理や、何千年も昔の歴史を、ちっぽけな頭に日々詰め込んでいく。

 それの意味するところは後回しにして。


「ていうか、シュンちゃん理系なんだから、今日の模試、社会関係ないだろ」


 トオルは文系だ。だから今日も試験会場の教室が違うのに、なぜか休み時間のたびに参考書の詰まった重いリュックを抱えて俺のところに来る。


「いいんだよ。数学は余裕だし」


 数学は、答えに至る過程が実に明快だ。決まった公式に当てはめるだけでおのずと導かれる。使う公式と途中の計算式、それさえ間違えなければ、いつでも、誰でも、同じ正解に辿り着く。


 世の中全部が、そうなら良かったのに。



 

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