家族関数

上田 直巳

第一問

「ハンカチとティッシュ、持った?」

「大丈夫だって。昨日のうちに、全部準備したから」


 始まった。やっぱりだ。頼むから、朝ごはんくらいゆっくり食べさせてくれ。


 ただでさえ今日は、味蕾みらいの受容も消化液の分泌も鈍い気がする。


「お財布は? 電車賃、足りるの?」

「それも、昨日もらっただろ」


 だいたい、順序が違う。

 マスク、筆記具、スマートフォン。とりあえずこれだけあれば何とかなるんだから。


「お弁当、これで足りる? トンカツ作り過ぎちゃったから、もう一切れ入れとこうかしら」

「いいよ。それで十分だって」

「でも、お腹空いたら困るじゃない」


 腹より頭に詰め込まなきゃいけないのに。


 そんなことより、トンカツ盛り盛り弁当をカバンに入れて試験会場まで持っていく労力のほうが、俺としては困る。

 ついでに、揚げ物大量摂取して、午後の試験に胃もたれと眠気の連合軍が参戦してくるというのも非常に困る。


 げんを担ぐのは親のエゴだ。そんなことしたって俺のシナプスの接続が突然良くなるわけじゃないし、やる気アップするわけでもない。


 ただ、その験担ぎ弁当を公衆の面前で開かねばならない俺の精神的ダメージは、計り知れない。


「じゃあそのトンカツ、父さんがもらおうかな」

「あなたは、今からあんまり食べないほうがいいんじゃない? メタボ注意報なんでしょ」

「トンカツ食べて、健診に“勝つ”ってな! ハハハ。シュンは、そういうのなくたって大丈夫だよ」


 サクサクと軽快な音を立てて、トンカツが消えていく。

 それを見ていると、俺の消化器官も少しだけやる気を出した。



「午後から雪かもしれないって。帰り、降ってたらタクシー使ったらいいからね」


 いつもはそんなことしないくせに、俺が席を立つと二人して後を追いかけてきて玄関に並んだ。「出陣」の二文字が頭に浮かぶ。


大袈裟おおげさだよ。今日のは、ただの模試なんだから」


 千人針でも渡されるんじゃないかという気がして、俺は急いで靴に足を入れた。


「シュン。これ持って行きなさい」

「要らないよ。今日そんなに寒くない――」


 遅かった。言い終わるより先に、母さんはフィルムを破っていた。取りだしたカイロをシャカシャカして俺に押し付ける。

 そんなすぐに発熱するはずないのに、表面がほんのり温かい。


 熱移動。熱は温度の高いほうから低いほうへと移動する。エネルギー保存の法則により、そのぶんの熱は温度の高い“物体”から失われたことになる。


 母さんはそんな物理の法則なんて知らないくせに、いつも俺に渡す前に両手のひらでギュッとやるのだ。

 水仕事で冷たくなった手で。


「前にも言ったけどさ、これ、小さいほうで十分だから」


 白い不織布ふしょくふの袋をポケットに突っ込みながら、あかぎれた指先から目を逸らした。


「だって、おっきいほうが、あったかいじゃない?」

「中身は同じだから、そんな変わんないよ。面積が大きいぶん、温かいと感じるだけ」


 使い捨てカイロの主な成分は、鉄粉、活性炭、バーミキュライト。鉄の酸化反応によって熱を発生する。

 俺は化学式を頭の中に並べた。


 Fe + 3/4 O2 + 3/2 H2O  → Fe(OH)3


 活性炭とバーミキュライトは、酸素と水を供給する役割だ。


「あら、そうなの? シュンはよく知っているのねえ」

「さすが、受験生だな」


 励ましているつもりだろうか。

 こんな知識を持っていたって、試験の役に立ちはしないだろうに。試験前になるといつも、余計なことにばかり頭が働く。


 大きいカイロの持続時間はおよそ二十四時間。

 でも、誰が二十四時間使い続けるんだよ。徹夜で勉強しろってのか?


『就寝時には使用しないこと』


 外装のフィルムに、赤文字でデカデカと書かれている。

 適切な睡眠が脳にとって一番大事だと、塾の先生もしつこく言っていた。


 二十四時間は、必要ない。



  

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る