第1848話・夏の日にかの地を思う

Side:とある公家


 山歩きから戻り一息つく。今日はあまりいいものが採れなんだわ。されど、先日釣りに出た家人が釣った上物の鯉がある。久々に夕餉が楽しみよ。


 ふと気づくと、近隣が静かなことに寂しさを覚える。馴染みの者らが大樹に出仕するために下向したのだ。屋敷は残してあるものの、留守を預かる下男のみを残し皆で下向した者すらおる。


 院と主上には勝てぬ。上がいかに考えておるか知らぬが、吾は御内意に反してまで東と争う気はない。堂上家はなにをしてもほとぼりが冷めると戻れるが、吾らなどいかになるか分からぬからの。


 吾も近江への出仕を願い出たが、上が選んだのは己らに都合がいい家の者が大半だ。いつものことよと怒る気もないが。


「おお、これは立派な鯉じゃの」


 夕餉の膳に大振りの身をよく味噌で煮込んだ鯉がある。味噌のよい香りに思わず喉を鳴らしてしもうたかもしれぬ。


「はっ、味噌も上物を使うておりまする」


 家人らも皆、笑みがこぼれる。


 尾張からの献上で一時いっときよりは暮らしが楽になった。


 腹を空かせても、吾の一存で民の如く田仕事をするわけにはいかぬからの。公家の体裁を崩すとなにを言われるか分からぬ。


 正直、代々重ねた堂上家への義理はあるが、義理だけで生きていけぬ。大樹に仕えるという体裁により、雁字搦めに縛る堂上家から幾分でも離れることが出来ることを喜ぶ者すらおるであろう。


 鯉の味噌煮に合わせて今宵は白飯だ。箸で鯉の身をほぐし、味噌だれに付けて飯に乗せて食う。人目があるわけでもない。思うままに食えるのはよいの。


 先日、尾張より戻りし商人によれば、今年も尾張の花火は凄まじかったとのこと。


 公卿や吾ら公家がおらずともあの国は困らぬ。面白うないところもあるが、いずれにせよ吾らには関わりなきことだ。


 酒を飲む余裕などない。飯を食うと写本をせねばならぬ。これも尾張により得た糧になるの。油も安うない故、月明かりで写本をする。


 少し見にくいが、役目があるというのは悪うない。読み書きや家伝は代々受け継いでおるが、使うことなどなく日々生きるので精いっぱい。なればこそ、かようなことすら喜びに思える。


 明日もまた山歩きせねばならぬ。ほどほどで休まねばならぬな。




Side:北畠晴具


 なんと面白きことであろうか。新しき御所と町を造るということは。


 奉行衆は未だ戸惑う者も多い。京の都にて政をするというのが、代々の将軍がしてきたこと。まさか当代の上様がそれを覆すとは思わなんだのであろう。


 中には公卿や畿内の主立った家と縁深き者も多い。必ずしも喜んでおらぬであろうが、表立って異を唱えることすら出来ずに従うのみ。


 人とはかように変わるのだと教えられたわ。


「品物と銭を水の如く流すことで利が回るか。寺社は知っておったのであろうな。あの強欲な坊主どもめ」


 寺社というのは厄介だ。堕落に堕落を重ね、その本質が神仏と無縁であってもな。その寺社が尾張を恐れて震えておるというのだから痛快極まりない。


 神仏の名に恥じぬ形に戻してやらねばならぬという、尾張者の言い分はもっともなことよ。


 あとは都におる公卿がいかに動くか。事と次第によっては戦もあり得ると懸念しておったが、今のところ大きな動きはない。


 内匠頭や大智は動けぬはずと思うておるようだが、人とは愚かなのだ。先のことなど考えず動く愚か者は必ずおる。まだまだ油断は出来ぬ。


「おお、これはよいの。歯ごたえもよく青臭さもない。熟れる前のきゅうりがかように美味いとはの」


 夕餉までまだ時がある。小腹が空いたのでなにかないかと問うと、きゅうりの一夜漬けがあった。


 一見すると生のような瑞々しさがあり、程よい塩加減が飽きさせぬ一品よ。大根の漬物と同様にきゅうりの漬物もまた美味いの。


 権威や己が家のためではない生きる知恵。我ら日ノ本の者は少しばかり驕っておったのかもしれぬの。面目やら意地やらと争うことばかり考えて。


 頃合いを見て近江にも顔を出したほうが良いかもしれぬ。愚かな地下家の者らが増長せぬうちに釘を刺しにいくべきか。左京大夫殿と話してみねばならぬの。


 避けられる争いはさけたほうがよい。いささか甘いと今でも思う。されど、利にならず時の無駄だと教えられるとさもありなんと納得もした。


 わしには内匠頭らの真似は出来ぬ。未だによう分からぬことも多いのじゃ。


 されど、北畠の名が次の世を築くとなると楽しみで仕方ないわ。




Side:久遠一馬


 七月も数日が過ぎ、今年も折り返しだ。一泊二日の野営旅行は楽しかった。


 この二日、オレと妻たちはみんな一緒に休んだものの、資清さんたちが仕事をこなしてくれていた。あまり難しい案件がなかったこともあるが、近江に御所を造ることもあり相応に仕事は多い。


 それがオレたち抜きで完ぺきだったことは凄いとしか言いようがない。


 それと古河公方と北条氏康さんたちが帰国した。さきの古河公方である足利晴氏さんは、一旦戻り、支度を整えて近江に移るそうだ。


 オレが気にすることではないけど、息子とか家臣たちを納得させられるんだろうか? 特に梯子を外される形になるのは、長子の藤氏だ。


 結局、古河公方家は分裂して、史実同様に影響力を落としていくのかもしれない。


 義輝さんと慶寿院さんはまだ公式に尾張に滞在している。幕臣と六角家重臣なども多数来ており、北畠家を含めて御所の話を進めている。


 目的はあくまで花火見物であるものの、この際、尾張で話を詰めたほうが早いというのが関係者に共通していて、御所と詰城、周囲の町の規模を大まかに決めており、賦役に動員する人の数と割り当てを含めて具体的な計画の概要が見えつつある。


 正直なところ、幕臣はこの規模でいいのかと、何度かオレのところにまで確認に来ていたほどだ。


 事前に話を通しているものの、将軍の都を造るという一大事業は誰もが経験がない。それと幕臣の場合、経済と流通の仕組みをあまり理解していない人も多く、これが完成するとどうなるんだと頭を抱えていた人もいたね。


 まあ、朝廷に力があれば必ず邪魔するだろうことは確かだ。京の都がそこまで廃れているわけじゃないんだけどね。御所の修繕と仙洞御所の造営、図書寮の建設と一帯を囲む土塁の整備でだいぶ落ちついたはずなんだけど。


 人の欲は果てしない。


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