第1568話・御前新年会・その二
Side:今川義元
汁椀はまだ温かい。膳の下に焼いた石を入れることで、温かいまま汁椀を出すという細工。以前にも宴であったことじゃが、これほどの人が集まる宴で皆に同じように出すとはいかほどの苦労があるのであろうな。
味は……、昆布と魚の出汁かの。あとは塩のみで味付けしたものに、今時分としては珍しい青菜や大根に丸い餅が入っておる。
美味い。
珍しき料理でない故に、この味がそこらのものと違うということがよう分かる。驚くほど美味いが、これで満足するものではない。さらに他の料理を食したくなる味よ。
酒は金色酒・澄み酒・梅酒・麦酒・濁り酒など、選ぶのに困るほど。ワインなる酒と焼酎など珍しき酒もある。
わしは辛口の澄み酒を温めて頼む。
まだあまり出回っておらぬが、澄み酒には甘口と辛口があるという。辛口の澄み酒は
魚は蒸した鯛か。おそらく院に合わせたのであろう。ただ、つけるタレがまた珍しき物が多い。真っ白な上物の塩もあるが、醤油とごま油に香辛料を混ぜたタレや酸味のあるタレもある。
ああ、この大海老に白タレを絡めたものも美味いわ。
にしても、院と公家衆の楽しげなこと。公家衆は分からんでもないが、院もまた穏やかな笑みを浮かべておられる。御身にもっとも近いとされる蔵人を解任してまで、尾張の治世を求めたということか?
料理も皆と同じで鬼役の毒見すらしておらぬ。信じられぬほどじゃが、山科卿がおられるということは院の御意向であることは明白。無論、ここに運ぶ前に毒見をしておるとは思うが、皆と同じように酒と料理を召し上がる御姿は驚きしかない。
武衛様と大殿が立てば、院はお味方くださるのではないのか? 公方様ですら織田贔屓というのに。
あのお二方は……、いや、内匠頭殿らはこの先いかがするのであろうか? 朝廷と畿内を見限るつもりならば、親王殿下や院を受け入れることはするまい。
ふと周囲を見ると、小笠原殿と武田殿の姿が目に入った。近隣を治める者が同じ頃に臣従した。皮肉にも思える。されど、蟠りはあまりないらしい。酒と料理を楽しみ、隣の者と話しておるくらいじゃ。
落ち着き次第、両家と今川家で婚姻を結ぶことになっておる。本来、家臣の因縁は主家にとって決して悪いものではない。足利もそうじゃが、互いに争わせることで主家として保つ一因ともなる。
ところが尾張は我らとはまったく違う考えの下で動く。これも内匠頭殿の考えか? それとも因縁に嫌気が差した武衛様か? 使える者は敵であろうと使う。大殿の考えかもしれぬが。
今川も飼い殺しにされるかと思うたのじゃがの。わしは春を待たずに駿河に赴任することになろう。
未だによう分からぬところはあるが、斯波と織田は古くからの権威で国を治めることを止めておる。皆から等しく土地を召し上げ、俸禄で働かせる。
まるで夢か幻か。さように思えるところもある。
Side:小笠原長時
院は楽しげであらせられるな。蔵人の一件で院は、御身の思うままにすると覚悟をお決めになったのやもしれぬと思う。
家中で院との取次をしておるのは姉小路殿と京極殿だ。共に戦上手とは言えず、姉小路家は当家と同じく命を聞かぬ国人に手を焼いておったとか。京極殿に至っては守護という立場すら失い、上様のお怒りを買うたというのに。
織田家中で両者の評価は高い。大殿は愚か者を嫌うとも聞く故、文治の者は厚遇されるというが、それを踏まえても、かように立場が激変するとは当人らも驚いておろう。
「小笠原殿、一献いかがでございまするか?」
「ああ、かたじけない」
わしは相も変わらず礼法指南で忙しく清洲に詰めておる。おかげで家中の者らと誼も深まった。信濃では諏訪神社や村上など危ういことも幾度かあったが、夜の方殿と明けの方殿のおかげで治まっておる。
何故、女の身で信濃まで来たのかと首を傾げておったが、今ならば分かる。あの地は治めるのが難しき地なのだ。わしが代官をしておれば、失態の一つや二つあったやもしれぬな。
「かような席に出られるとは。末代まで誇れますな」
「であろうな。臣従の理由も苦労も忘れてしもうても、この誉れだけは残るやもしれぬ」
末代まで誇れると喜ぶ者の言葉に同意しつつ、わしはふと子孫の者がいかに我らを見るかが気になった。祖先の言い伝えとして残るのは、僅かな口伝と書に記したことのみ。子孫に残るのは、かような年始の宴に祖先が出たのだという誇りくらいであろう。
まあ、それでいい。わしは子々孫々に誇れるような武勇もない男よ。愚か者や卑怯者として悪名を残さぬだけでいいのだ。
「内匠頭殿と共に生きたこと。いずれ誇れるようになるのやもしれぬな」
武士というにはあまりに威厳がない。今も楽しげにしておる姿から日頃の働きは想像出来ぬほどよ。
ただ、思うのだ。古き世で幾人もの武士が名を残しておるように、内匠頭殿ならば確実に名を残すのであろうとな。
院の御臨席なさる年始の宴に出て、内匠頭殿の奥方と信濃を治めた。かような事実がやがてありもしない功となり誉れとなるのではあるまいか。
「それはそうであろう。我らは共に乱世を変えるのだ。これまた子々孫々にまで誇れるわ」
『我らは共に乱世を変える』という言葉が当然のように出ることが、あの御仁の将たる由縁であろう。血筋でも権威でも力でもない。あの男のために働く者がこの地には幾らでもおるのだ。
武衛様と大殿はそれを恐れるどころか望んでおるとわしは見る。なんのことはない。あのお二方ですら内匠頭殿を信じておられるのだ。
人をいかに治めるか。皮肉なことだが、それをわしは学んだ。最早、わしが一国の主になることはあるまいが、この地で新たな治世を支える礎となることもまた天命であろう。
武田や今川に敗れて、降るなり追放されるなりするよりはいい。
現に美濃守護であった土岐家の名など、最早誰も口にせぬのだ。意地や面目など人はすぐに忘れる。
「功を上げるのも楽ではないからな」
「小笠原殿は良かろう。礼法指南で評判がいい。わしなど左様なことがない。羨ましい限りだ」
ふふふ、わしが羨ましいと言われるとはな。
礼法とは難しきもの。されど、恥をかかぬ程度に教えておるだけなのだが。それでも羨む者がおるか。またひとつ学んだわ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます