第1507話・静かなる戦勝

Side:小笠原信定


 焙烙玉の音が途絶えると、これほど静かであったのかと思うほど本陣は静まり返っておる。織田家の者らも幾分顔つきは険しいが、信濃衆ほどではない。こちらは恐ろしさからか口を開く者すらおらぬ。


 わしも焙烙玉とやらを使うのを幾度か見ておるが、恐ろしきとしか思えぬ。武芸も用兵もまるで違うのだ。砥石城は落ちたのか、降ったのか。いずれにせよ終わりであろうな。


「さて、村上はいかほどで来るかしら?」


 夜の方殿はなにかの書を読んでおられたが、焙烙玉の音が途絶えると書を閉じて皆に声を掛けた。


「早ければ明日には来るかと。明日か明後日ならば、兵は二千から三千ほどかと。時を掛ければもう少し増えましょうが、それでも五千ほどかと思われまする」


「御屋形様と血縁のある村上。一捻りというわけにもいかないのよね」


 その言葉に背筋が冷とうなる。玉薬は今も本陣後方で調合しておる。あれを使えば村上と言えど勝てるとは思えぬ。武田と争うておる際には味方もしてくれたが、此度ばかりは相手が悪い。


 北信濃がすべて敵となればまた変わるが、高梨などが織田に兵を向けるなどありえまい。


「申し上げます。砥石城より降伏の使者が参りました」


 勝ち戦だというのに妙に静かな本陣に砥石城の使者が来る。一晩も持たず降るか。少し安堵するわ。


「ご尊顔を拝し恐悦至極に存じまする。某、矢沢右馬助頼綱と申します」


「矢沢殿。確か兄は武田と共に臣従をした真田殿よね?」


「はっ、左様にございます」


 使者は真田殿の弟か。適任だと思うておると、夜の方殿が矢沢殿を知っておったことに驚く。さほど名が知れておる男でないというのに、そこまで知っておられたのか。


「なら、信じましょう。開城するならすべての者を助命します。さらにそのまま村上殿のところに行くのも止めないわ。近々兵を挙げてくるでしょうしね」


「……ご寛恕かんじょ、かたじけのうございまする」


 矢沢殿が驚き僅かに戸惑う仕草を見せた。戦は苛烈ながら、夜の方殿の差配は温情があるからな。されど、これから戦になるかもしれぬというのに敵方にせても良いとは少し驚くわ。


「無論、こちらに降るなら迎える気はある。ただし、織田は所領を認めていないから俸禄になる。それとこちらの所領を荒らした者は、別途、謝罪と賠償の責を負ってもらうことになる。まあ、生きていくのに困ることはないわ。詳しくは真田殿に聞いてちょうだい」


 ああ、良かった。降るのを認めるという言葉に信濃衆が少し安堵したのが見える。諏訪家が織田の大殿に要らぬと言われたことが皆の頭にあったのであろう。弟が使者として来たというのに降るのを許さぬと言われると、真田殿の面目が立たぬところであったわ。




Side:ウルザ


 砥石城が落ちた。降伏が早かったわね。城門を突破する前に降伏したのは少し驚いた。


「お方様、この後はいかがなされまするか?」


「村上が来るまでこのままね。籠城はしないわ。野戦で迎え撃つ。小笠原殿、砥石城には誰か人を置いて。ただし、見張り程度でいい。すでに戦は変わっているの。いい城だけど、あそこで籠城をして領地を維持する気はないわ」


 武官衆の城攻めに関する報告も上がってくるけど、課題が見えないくらいに上手くいったわね。


 こちらの兵の損傷はほぼない。戦況せんきょう推移すいいが早かったこともあり、三河からの援軍はまだ到着していない。先に西信濃の木曾衆が林城を経由してこちらに入っていて、砥石城の西側一帯でこちらに手を出したところを制圧接収している。東側を佐々殿と真田殿が同じく制圧接収しているので一両日で一区切りがつくと思うわ。


 懲罰対象の勢力はほとんど砥石城に集まっていたでしょうから。


「さて、気が重い話はここまで。戦勝の宴にしましょう。小笠原殿、後はお願い。私は祝いに久遠料理でも作るわ」


「おお、それは皆も喜びまするな」


 城の明け渡しもある。油断は出来ないものの、この結果で騙し討ちをするとは思えない。将兵に酒でも配って休ませるほうがいいわね。


 後始末は小笠原殿に任せてご馳走でも作ろうかしら。その方が士気はあがるはず。ヒルザは敵兵の治療でしばらく忙しいだろうしね。


 炊き込みご飯とかいいかしら? 兵糧はすべて運んでいるけど、物売りに来る商人はいるのよね。あと近隣に山が多いから、キノコ類は多く売っているはず。


 緩めるところは緩めてやらないと、恐れるだけだと使い物にならないのよね。




Side:矢沢頼綱


「兄上、お久しぶりでございます」


 砥石城に戻り、城の明け渡しと雑兵の帰村を終えると日が暮れておった。わしは再び山を下りて、織田の本陣に足を運ぶと、兄上と久方振りに再会した。


「降伏したとか。生きておって良かったわ」


 他家に出た身とはいえ、真田の家を忘れたことは一日たりともない。無論のこと他家に出たからには敵味方に分かれる覚悟をしておったが、兄上は生きて会えたことに喜んでくれた。


「そなたが意地を張って城で討ち死にせぬかと案じておったわ」


「兄上……」


 真田の家は苦労を重ねた。所領を失い、武田や村上、そして今は織田に降っておるほどだ。兄上も苦労をしたのであろう。幾分、変わられたか?


「世が変わりつつある。敵味方に分かれることは、今後は要らぬのかもしれぬ」


「織田はそれほどでございますか?」


「ああ、なによりも織田の目指す世を守らねばならぬと、わしでさえ思う。最早、信濃と真田家のことだけを考えておればよい世ではないのだ」


 まさか、兄上がかようなことを言うとは。


「そなたは降るのであろう? 小笠原殿の臣下かわしの下か分からぬが、矢沢の家も悪いようにはならぬ。案ずるな」


 村上の殿には申し訳ないが降るつもりだ。織田相手に勝てるとも思えぬ。それにしても兄上は尾張で多くを学んでおると以前文を頂いたが、その通りのようだな。




 そのまましばらくすると兄上の隣にて戦勝の宴に同席することを許された。


「この瓶子へいしから致す酒のは……」


「金色酒じゃの。料理も戦場とは思えまい? これが織田の力よ。もっともこの戦は将が久遠家の夜の方殿故、さらに違うがの」


 近隣の寺や城に入らず、ゲルなる幕で出来た建屋で皆が寝泊まりするという。いかがなものかと思うたが、中は寒くもなく悪うない。


 さらに噂でしか聞いたことのない金色酒と、正月の宴かと思うような料理が並ぶ。


「皆、思うところはあるでしょう。ただ、生きなければ先はないわ。各々の守るもののためでいい。生きて明日を迎えなさい」


 ふたりおる女のうちのひとり。夜の方殿がそう口にすると宴が始まる。


 女の身で縁もない他国に来てこれほどの戦をするわけだ。かの者の言葉に小笠原殿を筆頭に皆が呑まれておるわ。味方を褒めるでも敵を軽んじるわけでもなく、ただ生きよとはな。


「これが……噂の金色酒……」


 酒盃しゅはいに注いで戴いたが、まことに金色に見える酒だ。


「ハハハ、美味かろう。わしとて尾張に行くまで飲めなんだ酒だ。御家の所領の外では守護でも易々やすやすと飲めぬと言われる酒ぞ」


 一口飲むと、その味に驚いたのが分かったらしい。兄上が面白げにわしを見て笑うておる。まるで幼き頃を思い出すような笑顔だ。


「武士も僧も民も。皆が飢えぬように励む。それが織田だ。さすがに信濃の地は苦労をしておるがの」


「致し方ありますまい。この地は難しき地だ」


 籠城も出来ぬ愚か者と謗られる覚悟はしておったが、誰も左様なことを思うておらんのかもしれぬな。織田が違いすぎるのだ。


 初めての酒と、食うたこともない味のする料理に、敵に回した相手の恐ろしさをさらに知る。この辺りは塩ですら高いのだがな。


 味噌の汁物一つすら、なんとも贅沢な味がする。なにが違うのか、わしでは分からんほどにな。


 

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