第1372話・変わり始めた信濃
Side:ウルザ
思っていたよりはマシだけど、面倒事が多いわね。情報の伝達が未発達な時代ということが仇となっているわ。
下にいけば下にいくほど現状を把握しておらず、慣例で勝手に動いてしまう。もっといえば小笠原家でさえ、織田などに従えぬと騒いでいる者も家臣の一族や土豪なんかにはいるという話がある。
まあ、誰それが病死したという結果で終わるでしょうけどね。話を聞いていないとへそを曲げて騒ぐことはしても、一族を上げて戦をするというほどの人はいない。ごねて見せるのも交渉術で処世術。
小笠原の下を離れて織田に臣従をと考える者はいるでしょうけど、現状でそれを受け入れるメリットがあまりない。そう言えば『ワシと話したくば、斯波家の者が、出向いて来い』と、
「領境は駄目ですな。飢えた獣の地でございますぞ」
評定の刻限になると、警備兵の将としてきた佐々孫介殿がため息交じりで戻ってきた。武田方との境を視察に行っていたのよね。
双方ともに食べるものがなく、憎しみと飢えで小競り合いが起きているとは。奪えない場合は口減らしも兼ねていそうね。
「守れる範囲で構わないわ。領民を後ろに下げます。警備兵でその辺りは決めてちょうだい。無理はしないでいい。どうせすぐに取り戻せる領地となる。該当する場所の領主には織田が実入りを保証するわ」
ウチとの付き合いが長い孫介殿が駄目だというならその通りなのだろう。変に見栄や意地を張る人ではない。だからこそセレスに信頼されている人だもの。
小笠原家の者からどよめきが起きたけど、保証すると言うと異を唱える人まではいなかった。
「恐れながらよろしいでしょうか?」
少し重苦しい雰囲気の中、口を開いたのは小笠原家の老臣だわ。
「ええ、構わないわよ。意見、疑問。なんでも言ってちょうだい。分からないことは分からないと言ってくれないと私も困るのよ」
小笠原殿が驚き止めようとしたが、制して言いたいことを言わせる。もう少し意思疎通をしてくれないと効率が悪いのよね。
「せめて林城はこちらで取り戻せぬものでございましょうか?」
「その件ね。実はね、武田が信濃先手衆と甲斐国人衆の人質を解放すると明言したようなのよ。武田は織田との争いを避けて、信濃を放棄することもあり得る。林城、小笠原殿の気持ちを察するとすぐにでも取り戻したいところだけど、待っているだけでもこちらに戻るかもしれないの」
ちょっと頑固者のようだけど、なかなかの男ね。私に意見をするのを恐れて口をつぐむ者が多いというのに。ただ、そんな老臣が私の言葉に驚き絶句した。
「まさか……、さようなことが……」
「すべて小笠原殿の策謀よ。自ら大殿に降ることにより信濃から武田を追い出した。見事だわ」
尾張から送られる物資の数に驚き、今のうちに旧領を奪還したいという気持ちはわかる。でもそれをすると飢えた人への手当が後回しになるし、そもそも武田にはもう戦う余力も意思もない。
これが私の謀なら信用しないかもしれない。でも小笠原殿の謀なら信じざるを得ない。
「止めてくれ。わしはそこまで考えたことではないわ。ただ、武田と今川に一矢報いたかっただけ。戦下手な男の最後の意地なのだ」
あら、持ち上げたら困った顔をして否定されたわ。もっと自信をもって功を誇ってもいいのに。結果論、大いに結構よ。武功の機会なんて生涯でも多くないんだもの。
「織田ではさすがは小笠原殿だと皆が感心しているわ。武田と今川を手玉に取って双方から信濃を守ったのですもの」
「正直、恐ろしゅう思うておる。かようにあれこれと変わってしまうとは思わなんだからの」
小笠原殿、忙しいのよね。織田の将に会いたいと国人衆から使者が頻繁に来るけど、信濃の国人はすべて小笠原殿を通すようにとの命を大殿より授かっているから。
織田が攻めてくるかと戦々恐々な者たちもいれば、今のうちに通じて直臣を狙う者もいる。だけど小笠原殿の面目を崩すようなことはするつもりもない。
織田の力によりそんな国人衆の陳情を受ける側となり、守護としての本来の役目に近い立場になったことで思うところがあるのかもね。
「そうね。功を上げることは恐ろしいこともあるわ。ただ、私たちも皆様方も守るものがある。織田のために働けとは言わないわ。家を残し次の世代に継がせる。そのために働いてほしいわね」
少ししんみりとしちゃったわね。ただ、忠義なんていらないのよ。生きるために従う。それでいいと私は思う。
Side:小笠原長時
名も力もある男どもが従うわけだ。恐ろしゅうなるほどだ。久遠の力、武だけではないと見える。人を束ねまとめることまで長けておるとは。
夜の方と言うたか。かの者の言葉に家臣らがひとつになったように見える。
「小笠原殿。申し訳ないけど、あちこちから嘆願が届いているのよね。ウチの嘆願もあるわ。信濃望月家が相当焦っているようでね。尾張まで使者を出して助けを求めたそうよ」
評定も終わり家臣らが下がると、わしと弟と重臣に夜の方と織田方の者が数名だけが残った。
そこで夜の方から幾つもの書状を渡される。
驚きはない。信濃者は皆、驚き焦っておろう。織田がいかに動くか分からぬのだからな。血縁や伝手を辿って助けを求めた者らがおるなど、考えずとも分かることだ。
「ああ、承知した。無下には扱わぬ」
少し笑いだしそうになったことは悟られておらぬであろうか? 信濃でも望月の一族が久遠家家臣として立身出世を果たしたなど知れておること。当然、配慮を求められるとは思うておった。
ただ、今や武衛様や内匠頭様に唯一ものが言えるという内匠助殿もまた、我らと同じく縁遠い血縁ある者からの嘆願に苦労しておるのだと思うたらおかしゅう感じたのだ。
「代わりと言ってはなんだけど、尾張から酒と食べ物が届いたわ。お願いするわね」
「……返礼はいかにすればよいのだ?」
人にものを頼むのだ。多少の贈り物は受け取ろう。されど、信濃では手に入らぬ酒や食べ物をあれこれと貰うのはいかがなものかと思うわ。ものには限度があろう。
「不要よ。当家の品。知らないと困るでしょうしね。上手く使ってちょうだい」
ああ、やはり恐ろしいな。見栄を張っておるわけでも力を誇示したいわけでもないのか。家中をまとめるのに使えということか。
「戦をせずとも争うておるということか。わしはまだまだ愚かであったな」
「あら、武田と今川を手玉に取った小笠原殿とは思えない言葉ね」
「それは言わんでくれ。まことに驚いておるのだ」
己の不甲斐なさを知り、諦めもあって選んだ道なのだ。それが今川を因縁ある織田に臣従させることになり、武田を追い詰める。
知ってやったならばいいが、知らずにやったなど恥ずかしいくらいだわ。
「偶然でもなんでもいいのよ。使えるものは使いましょう。小笠原殿の面目が立つならいいと思うわ」
笑って語る夜の方、いや『夜の方殿』に、わしは決して久遠家の者だけは敵に回してはならぬと心に誓う。人を貶めて勝つ者はいくらでもおろう。されど、人を立てて勝つ者など見たこともないわ。
偶然か。確かに結果がすべてか。それも武士の習いというものだな。
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