第1349話・一仕事を終えて
Side:久遠一馬
宴の翌日、親王殿下は清洲を出立した。オレは来る時と同じく船で大湊までお送りしてそこで別れた。
正直、どっと疲れたというのが本音か。責任の重さ。今後に対する影響など考えるとキリがないとさえ思える。
ほかの招待客も外交交渉を終えると、親王殿下の出立に合わせてそれぞれの国に戻った。
今川氏真さんとは個別にお茶をする機会がなかったものの、数回あった茶会ではあれこれと話す機会があった。思うところはありそうだなと思う。ただ、誼を深めることを一番に考えて動けるという点で、彼は臣従しても今川の家名を汚さずに生きていけるだろう。
武田義信さん。彼とも話をした。ただ、何を話していいか分からない。そんな印象だ。結局、こちらから西保三郎君の話題をふったことでそれなりに話が繋がった。武田家として恥じぬように勉強をしてよく学んでいる。それが嬉しそうだったなという印象だ。
朝倉義景さんは帰る前にもう一度宗滴さんと会うのかなと思ったけど、本人は会わずに養子の景紀さんが会って帰った。真柄さんが来年こそ勝つと意気込んでいたのが、個人的には嬉しかった。
安宅冬康さんとは、ギリギリまで都のことを話していた。譲位と御所造営これだけでも一世一代の大事業だ。助力を頼むと直に言われたし、長慶さんとももう少し緊密に意思疎通が必要だということが明らかになった。
北条氏康さんは帰りもウチの船で伊豆下田まで送る。来てよかったと少し疲れたように最後に呟いていたのが、今回の影響の大きさを一番実感させられたかもしれない。
小笠原長時さんからは、内々に会いたいと頼まれたので何事かと思ったら、臣従をするので良しなに頼むと言われた。特に含むものもないだけに割と普通の人だなという印象かな。ああ、ウチでは花も育てているのかと驚かれたな。
かつての城で
六角義賢さんとは来年の御幸の話もしていて、ゆっくり感慨に浸っている余裕もない感じか。伊勢亀山城での情報交換の体制を年内に始めることで合意した。
北畠具教さんは大湊のこともあって、近々また来ると言っていたね。霧山御所が不便だとぼやいていたけど、現時点では変えるほどの余裕も必要性もあまりないらしい。
オレは外交日程も終わり、ようやく武芸大会の報告に目を通す。
武芸大会では今年はシード制を導入した。結果から見ると上手くいったようだ。どうしても早い段階で強い相手に当たると不利だという不満が根強くあったからね。
武芸大会での武勇の評価が大きくなるにしたがって、どうしても不満や要望が増える。ひとつの改革としては成功だろう。運営も試行錯誤をしている。みんながそれを理解して来年につなげられたらと思う。
それと商人後援制度、いわゆるスポンサーの件は上手くいったようだ。驚くほどの悪銭や鐚銭が集まっている。文官衆からはいいのかという声もあるが、誰かが回収して良銭を供給しないといけない。
それと今回、ひとつのテストとして北畠がこの制度に参加した。武芸大会に資金提供をしてくれたんだ。
北畠家にも悪銭や鐚銭が多く、額面通りに使えないものが多くあった。それを何とか出来ないかと具教さんに相談されたんだよね。
エルたちとも相談したけど、交換してやるというのは個人的には良くても今後を考えると特別扱いは駄目なんだよね。やっぱり。
隣国の祭りに北畠家が資金提供をする。この時代だとまずあることじゃない。北畠としては器の大きさと尾張との誼を示すことが出来る。またこれで織田としては相応の見返りを形を変えて支援が出来るということだ。北畠の名を冠した特別賞なんかも、有ってもいいかも。
主催が織田なのであれだけど、寺社に寄進するようなものだろうか。北畠は今年、愛洲さんが優勝したことも合わせて、織田領では大きく名を上げた。
文化芸術と工芸部門のほうもいろいろと報告がある。一番は開催期間をずらしたことの評判が良かった。
絵師なんかも気合いが入っていたようだし、職人もまた自分の好きなものを展示できると知り、いろいろと試した成果の品が展示されたそうだ。
恒例となっている工芸品部門の投票も行われていて、新しいお抱え絵師が誕生したとのこと。ちなみにメルティや慶次、留吉君、それと雪村さんなんかは選考外になっている。
絵師の投票は志願者のみであり、単に絵を披露しているだけの人も多くはないが存在する。雪村さんは客人だけど、慶次と留吉君はウチの家臣だからね。お抱え絵師になる必要がないということもある。
この投票とは別に有識者の選考もあってそっちに重きを置いているけど、不思議とそこまで異なる結果が出ていない。職人や絵師などは双方の意見を参考に次も頑張るような感じになっているようだ。
まあ、細かい反省はこれからだね。さすがに少し休みたいよ。
◆◆
『天文の
天文二十三年、九月。後奈良天皇の皇子であり、のちの
事の背景には同年に久遠一馬が後奈良天皇に拝謁したことがある。後奈良天皇は久遠一馬を天が遣わした使者であると信じていたとの逸話もあり、それ以降、以前にも増して尾張に興味を持たれた。
ただ、同時代は治安も悪く朝廷も権威のみで力を失っており、天皇や事実上の皇太子である親王が尾張へ行くことなど叶うはずもなく、それを口にすることもなかったと伝わっている。
一方で尾張を訪問した公家の間では、尾張の急速な発展と変化に驚きと共に危機感も抱き、尾張と朝廷との関わりをどうするか考えていたことが幾つかの資料で明らかになっている。
そんな中、近衛稙家や二条晴良が、時の天皇である後奈良天皇の譲位を考えたとされる。
これには幾つかの説もありはっきりしていないが、尾張への御幸を実現することで尾張の繋がりを密にするとの思惑があったと考えられる。ただ、即位の礼を催すこともままならぬ時代が長く続いたこともあり、後奈良天皇の譲位ですら難しいと考えていたとされ、尾張との交渉の場が持たれた。
同時代、天皇や親王の遠出はすでに経験がないことであったが、先例として上皇となればそれなりに自由が利いた過去もあり、尾張との交渉の末に実現に向けて譲位を含めた検討がされたようである。
なお、この一件は時の将軍足利義輝も後押ししたとあり、病と称して旅に出ていた義輝が自ら将軍として差配して後押ししたことで実現している。義輝の動きに関しては、斯波と織田と意思疎通した上での行動であることが『足利将軍録』『義輝記』に記されている。
方仁親王の行啓は、翌年に計画されていた後奈良上皇による御幸のためのテストの意味もあり、また当時は即位すると行幸は難しいと判断したこともあって、方仁親王に尾張を見せたいという後奈良天皇の意思もあったとされる。
道中は織田・六角・北畠・三好の兵が中心となって、義輝を大将に斯波義統などが警護を務めている。京の都と尾張の行程には、伊勢大湊から尾張蟹江間の海路を含み織田海軍と水軍も活躍している。
尾張に到着した方仁親王は各地を視察しており、その進んだ文化と体制に驚きの連続であったと後に語っている。
中でも花火を上げた尾張武芸大会と織田学校文化祭は特に方仁親王も楽しんだらしく、太平の世がいかなるものか尾張にて実感したと思われる。
滞在は半月にも満たぬ期間であったが、最終日には方仁親王が自らの盃を久遠一馬に手渡して天杯を許している。
正式な天杯は別の盃を使うことになっており宮中の作法とは違うが、自らの盃を使うことを許したことで方仁親王の一馬に対する並々ならぬ評価が見てとれる。
方仁親王はこの時、一馬に『次は都で会おうぞ』と声を掛けたと記録にあり、一馬がたいそう驚いたという記録が『久遠家記』にある。
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