第1316話・蟹江の港にて

Side:足利義輝


 伊勢の内海とてそれなりに波はある。されど、殿下はそれすらお喜びになられておるようにお見受けする。この海の遥か先に思いを馳せておられるのであろう。


「あれは……」


 船から少し離れたところでなにかが飛び跳ね、それをご覧になられた殿下が声を上げた。


「ああ、イルカですね。これは運がいい。当家ではイルカは友としており、吉兆の証とも言われております」


「ほう、あれが海豚か!」


 生きた海豚など御覧になられたことはあるまい。ふと、久遠諸島であったイルカと友だと言うておった一馬の妻を思い出しておると、再び数匹の海豚が飛び跳ねる。これには殿下ばかりか公家衆も喜びの声を上げたわ。


 思えば日ノ本は明や朝鮮を除き、外つ国をほぼ知らぬと言うても過言ではない。その明と朝鮮ですら、勘合貿易で渡った五山の坊主や商人から聞き及ぶしかない。かの者らが嘘をついておるとは言わぬが、都合が悪きことを伏せてもおかしゅうない。


 日ノ本とて、将軍として聞き及んだ世と、己が目で見た世はまったく違う。日ノ本の外も同じなのであろうな。


 無論、それが悪いとは言わぬ。この海を越えた者でなくば知らぬこと。自ら出向かぬ者が軽んじてよいことではない。


 されど、一握りの者しか知らぬということは危ういのだと思うてしまうな。これは久遠にも同じ懸念があるということではあるが。


 日ノ本をいかに治めるか。改めて考えると難しきことばかりだ。


 一馬らは言うておった。謀叛が起こらぬ政をせねばならぬと。将軍や天下人が代わるたびに争うようでは駄目だということは余にも分かる。されど……。


 東は奥州陸奥から西は九州薩摩まで。地図で見るとさほど大きく思えぬが、それでも日ノ本はあまりに広い。久遠はそれよりもさらに広い世で生きておるがな。


 なんとも難しきことばかりよ。




Side:久遠一馬


 六時間ほどで船は蟹江に到着する。


「おおっ……」


 方仁親王殿下は、広々と開発されたため遠目にも間近に見える蟹江の全景に静かながら驚きの声を上げた。


 港には多くの船が見える。久遠船と既存の和船だ。久遠船に関しては現在では哨戒任務と漁業と輸送で主に使用していて、輸送に関しては尾張から伊勢・志摩・三河。伊豆と伊豆諸島など領国を越える地域への輸送が多い。


 河川での輸送は今もこの時代の船が使われていて、むしろそちらのほうが使いやすい。


 近海の湾内とはいえそれなりに波風はあり荒れる時もある。久遠船はそんな近海の運用を安全に行うための船であり、すべての既存の船を凌駕する万能船ではない。


 この時代で言えば船の安全が保たれると、それだけリスクが減るので輸送費も安くなる。まあ、その分だけ過積載などを出来ない船なので一度に運べる量は同じ排水量の船よりは落ちるんだけどね。


 何事にも一長一短がある。


「あれに見えますのが蟹江の湊になります」


 見える光景も違う。桟橋があり、蔵が立ち並ぶ蟹江港は同時代の湊よりも近代的に見えるだろう。


 蔵は白い漆喰の蔵と煉瓦造りの倉庫の両方がある。とりわけ煉瓦造りの建物は尾張では時計塔や高炉で珍しくないものの、他国の人は驚くものになる。


 船が接岸されると桟橋が船へと繋がり、港には出迎えの警備兵の姿が見える。率いているのは佐々兄弟だ。警備兵の古参であり、警備兵躍進の陰の立役者と言ってもいい。この役目はセレスが任せたと聞いている。


 メインの桟橋と港湾部分を今日は封鎖しており、他の荷卸しなどはおこなっていない。揃いの軽鎧と半被を着て一列に並んだ警備兵が出迎える中、親王殿下は最後に名残惜しそうに船を振り返り下りられた。


「織田内匠頭信秀でございまする。御尊顔を拝し恐悦至極に存じまする」


 出迎えは滅多に見せない緊張感がある信秀さんだ。佐々兄弟も警備兵も緊張しているね。警備兵の顔ぶれは古参が多く、中には農民の家の者もいる。人選にはオレは関与していないけど、仕事ぶりを評価されたんだろう。


「仏の弾正忠か。そなたとも会いたかった」


「恐れいり奉りまする」


 親王殿下に続き下りた公家衆が驚きの表情をした。


 そもそも『弾正忠』というのは私称、官位を私的してき詐称さしょうした僭称名せんしょうめいだ。『仏の弾正忠』というのは異名、通り名なんだよね。親王殿下が知っていたことに驚きだ。こういう噂話をお教えする人がいるのか。


 親王殿下はゆっくりと港を見渡している。興味があるんだろうか? 場合によっては御覧いただくことも考えるけど。


 そのまま親王殿下は既に支度を終えていた輿に乗り、蟹江の織田屋敷に入られることになる。五千もの護衛の兵が到着して、荷をすべて降ろすには蟹江でも相応の時間がかかる。


 ひとまずお休みいただくことになっているんだ。


 港湾部分を出ると蟹江の町には沿道が見物人で溢れていた。これ規制したほうがいいのか山科さんに確認したけど、不要だと言われたんだよね。


 都では内裏での蹴鞠などを町衆が見物することもあるんだそうだ。穢れになるようなものは困るらしいが、領民が出迎えるのは問題ないらしい。


 ちなみに史実の江戸時代の大名行列のように平伏して待つということもない。史実でも平伏をさせていたのは徳川御三家くらいで、実際に参勤交代があった紀伊と尾張だけだったんだけど。その他の大名行列は史実でも民が見物していたという資料が残っている。


 まあ、そもそもこの時代に大名行列のような習慣はない。


 親王殿下は輿に乗られたのでどんな様子か分からないけど、同行している公家衆なんかは誇らしげな顔をしている。


 正直、行啓すら皆さん初めてだからな。身分や家柄で恐れ敬われることはあるだろうが、権威を誇示するようなこんなことはあまりないんだろう。


 ああ、親王殿下はこのあと、織田屋敷で温泉に入って一泊していただく予定だ。長旅だからね。疲れを癒しながらおくつろぎいただく。清洲に向かうのは明日の予定だ。


「無事に到着して良かったよ」


 オレはそのまま蟹江の屋敷に入った。


「天候ばかりは仕方ないものね」


「素性を証明出来ない者は、今日は蟹江に入れてないワケ」


 ミレイとエミールのふたりと会ってホッとした。一応、急激な天候の悪化はない予報だったが、それでもね。なにがあるか分からない。


 あと、規制は領民にはしていないが、旅人や牢人などにはしているんだよね。ただ、時代的にこの手の規制は批判されないので楽だけど。


「ああ、蟹江を御覧になられるかもしれないから手配をお願い。なんか海とか船もお喜びになられていたんだよね」


「すでに一応のプランを用意してあるわ」


 予定ではこのあとは屋敷でお休みになられるはずだけど、町の見物とかされるか近衛さんにでも聞いてみるかな。


 すでにふたりがこういう場合も想定していたみたいだし。



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