第1190話・天と地と
Side:北畠具教
久遠船に揺られ尾張を目指す。共におる父上は久方ぶりに領内を出たからか機嫌も良いようで、遠ざかる伊勢を見ておられる。
まだ一月十日。松の内であるにもかかわらず、わしと父上が揃って城を空けて尾張に出向くなど言語道断だと諫めた老臣もおるが、それなりの事情があってこうしておるのだ。
「世の中とは面白きものよの」
近習を遠ざけると父上はふとそう呟かれた。無理もない。此度の尾張行きは、表向きは尾張蟹江に出来た北畠家の屋敷に行くという理由だ。重臣どころか近習にもそう言うておる。
ところがだ。本来の理由は他にある。
「未だに信じられぬところもありまする」
「そうか。わしは納得したぞ。天が動いたのだ」
事の始まりは昨年の師走にわしが尾張に行った時のことだった。武衛殿と内匠頭殿から誘われた茶席で思いもよらぬことを告げられたのだ。
『公方様が宰相殿と大御所殿にお会いになりたいと仰せだ』。武衛殿から言われたその一言に戸惑うた。病で観音寺城から動けぬはずの公方様が、何故会うたこともないわしと父上に会いたいと仰せなのかと理解できなんだ。
真相は思いもせぬことであった。公方様の病は世を偽る嘘であると。まことの公方様は病などではなく、尾張や伊勢も密かに訪ねたことがあり、神宮も参拝したのだと告げられた時には、いかに応じればよいか分からなんだ。
わしは公方様の書状をいただき、それを霧山に戻って父上にそのままお見せした。父上はそれを見て面白そうに笑われ、重臣にも側近にも言わずに尾張へ出向くことを決断された。
内匠頭殿からは出来得る限り誰にも言わずに尾張まで来てほしいと頼まれたが、それでも父上がこのことを誰にも言わなんだのは驚くしかない。
確かにもし公方様が密かに尾張まで来られることを管領にでも知られれば、いかがなるか分からぬからな。御身のことを案じれば致し方なきことではある。
「天が動いたとは?」
「織田を止められるとすれば公方様だけじゃ。その公方様が織田の治世を望んでおられるとすればいかがなる?」
事がことだ。当然ながら六角は知っておるはず。とすれば六角が思うた以上に織田との誼に乗り気であることも公方様の御意思だとすると辻褄が合うが……。
「今の世を望む者もおろう。かつての世を望む者もおろう。されど過ぎ去りし日にはもはや戻れぬのだ。わしはの、これで良かったと安堵したわ。すべてが終わってから従えと言われても面白うないからの」
「父上……」
「新たな世はの、待つモノにあらず。自ら血と汗を流して創り上げねば北畠の家を残すことなど叶わぬぞ」
それが機を見るということか。父上はもはや織田は天下を治めるまで止まることはないと覚悟を決められたということか。
Side:久遠一馬
菊丸さんが観音寺城から尾張にやってきた。大武丸と希美が、遊んでくれる人が来たと懐いているのを見ながら話を聞く。
六角家はまずまずらしい。北伊勢とかで細々と問題はあるようだけど、頑張っているみたいだ。ホッとしたね。
「北畠か。これが上手くいけばまた一歩進むな」
まだ松の内も過ぎていないけど、菊丸さんが戻ってきたのには理由がある。北畠晴具さんと具教さんと会見するためだ。昨年から話をして日程を調整していたけど、蟹江に建てていた北畠家の屋敷が年末に完成したので、具教さんと晴具さんがそこを見に来るというのが表向きの筋書きになる。
なんだかんだ言っても菊丸さんの正体と行動は極秘扱いだ。万が一外に漏れたら命を狙われかねないからね。移動中は忍び衆にも遠くから護衛してもらっているんだ。
ふたりと会うのは菊丸さんが望んだことだ。オレや信長さんが具教さんと親しいことと、義統さんや信秀さんも北畠家は信用出来るというので、一度会ってみようと思ったらしい。
「三好と会う前にこちらを確かめておきたくてな」
菊丸さん、一月中にも三好長慶さんと会うつもりで文を出している。その前に具教さんと会いたいと望んでいたんだよね。松の内が明けるのを前に会うのはそれも理由にある。
「将軍が亡くなれば管領が有利になる。そんな噂が畿内にある。うんざりするわ」
オレとエルと菊丸さんは具教さんに招かれて、新しい屋敷が完成した祝いの宴に行くために馬車で蟹江に向かう。
オレたちの馬車の後ろには信秀さんと義統さんの馬車も続いている。表向きは屋敷完成の祝いに行くだけだ。実際は足利義藤さんと北畠親子の会見のために行くんだけど。
菊丸さん、畿内の話になると少しご機嫌が斜めになるね。人の噂なんていちいち気にしていたらきりがないのに。
「ですが、そう思ってくれた方がこちらは助かります。よろしいではありませんか。管領殿と彼に味方する者たちに今騒がれるとこちらも困りますし、誰が敵か味方なのか明らかになりますので」
「そなたにそう言われると溜飲が下がるな」
「物事は一方だけからでなく、見方や考え方を変えてみることが大切でございます。上様がおられるとはいえ、私たちが今すぐ畿内をまとめるのはいささか苦労が多すぎます。今しばらくは三好殿にせいぜい励んでいただきたいのです」
不思議とエルがなだめると菊丸さんの機嫌が直るんだ。エルって説得とか得意なんだよね。菊丸さんの先生みたいに見える時があるけど、どうやら囲碁や将棋をして負かして以来、菊丸さんがエルに教えを請うんだから仕方ないね。
「三好のおらぬ管領なぞ、そこまで厄介か?」
「はい。厄介でございます。人は変わることを恐れるものです。上様が細川京兆家を決してお許しにならぬと知ると皆で止めるでしょう。明日は我が身と思えばこそ。そこに私たちのことを面白く思わない寺社や商人が付け込むといささか面倒になります」
そうなんだ。元の世界の歴史を知ると晴元は落ち目に思えるけど、この時代に暮らしていると細川京兆家と晴元の権勢は未だ馬鹿に出来ないものがあるんだ。
菊丸さんもそこを少し甘く見ているんだよね。
足利政権を守りたい既存勢力と、新しい世を創りたい革新勢力の二極化だけは避けなくてはならない。
「まっこと、政とはいと難しきことよな」
エルの言葉に菊丸さんは遥か西の空を眺めながら考え込んでいる。
その言葉には同意する。本当に難しい。たとえ史実や歴史という資料と技術や宇宙要塞の物量があっても、間違っても楽だなんて言えない。
戦国時代という厳しい時代を生きる者たちを決して甘く見てはいけないんだ。義藤さんと北畠家が今日の会見で上手く協力出来るといいんだけどね。
人が争うなんてささいな理由が原因だったりする。具教さん、今まで隠していたこと怒らないといいけどなぁ。
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