第1173話・歴史の齟齬
Side:九鬼定隆
「もう大丈夫。ただし来月にまた来て」
薬師の方様の診察が終わると安堵した。
織田に臣従し変わりゆく日々に追われておる最中、突然具合が悪くなり、馴染みの薬師や祈祷を頼んだが一向によくならず、噂に聞く那古野の病院に駆け込んだのが先月のことであった。
もう少し遅ければ命すら危うかった。平然とそう言われた時には肝が冷えた。わしはまだ死ぬわけにはいかぬ。戦で死ぬなら本望なれど、九鬼家が新しい主の下で生き抜くには今しばらくの時がいるのだ。
「ありがとうございまする」
病院は診察を待つ多くの者で溢れている。近頃ではわしのように他国から来る者も珍しくないとか。貧しき者ですら分け隔てなく診てやるとはさすがは久遠家よな。
「殿、お体はいかがでございまするか?」
「大事ない。さあ、戻るか」
病院を出て家臣と共に蟹江に戻ることにする。まさか志摩を離れて尾張で暮らすことになるとはな。今でも信じられぬ思いを抱く時がある。
志摩の城は隠居した父上が今もおられるが、わしは織田水軍の将として働くために蟹江に屋敷を構えておる。志摩十三地頭と呼ばれた我らも今は織田水軍の一員となり忙しい日々を過ごしている。
近頃では近隣の水軍との小競り合いすらなくなり、紀伊のほうから来る船の案内や賊の討伐などやることは山ほどある。
久遠船の操船も覚えた。尾張から伊勢へ荷や人を運ぶことも多い。
織田に臣従してから暮らしは驚くほど楽になったな。まさかこれほど楽になるとは思わなんだ。無論、所領を召し上げられたことは今でも思うところはあるが、これも世の習いということであろう。
織田に臣従しておらぬのは大湊の水軍と志摩半島の南の者らだ。明らかに暮らしが違うことから向こうも大変であろう。
奴らには悪いが意地を張ったところで先が見えぬ争いは御免だ。
side:久遠一馬
長尾景虎が都から尾張に戻ってきたようだ。
史実では足利義藤と謁見して意気投合し、後奈良天皇から御剣と天盃を拝領して敵を討伐せよとの勅命もいただいたはずの上洛で、景虎の今後に大きく影響するはずだったんだけど。
忍び衆と虫型偵察機の情報では義藤さんとの謁見がないのは当然として、都でも史実とは異なる扱いだったようだ。
そもそも彼は史実と違い、昨年に与えられるはずだった従五位下の弾正少弼に叙任されていない。これには史実でも異論があった気もするが、代わりに彼に与えられた官位は越後守になっている。
正式な手続きを踏んで越後守護代である長尾家を相続したことは認めたといってもいいけど、いかんせん彼の注目度は低い。
これは義藤さんとの謁見がなかった影響も大きい。史実では足利義輝が後に上杉家を継いだ長尾景虎に期待したようだけど、この世界では可もなく不可もなくという評価になりそうだ。
現状の義藤さん自身は長尾家よりも北条家を評価している。これは義藤さんの生き方が史実とは違うことが原因でオレたちの影響だろう。
主上との謁見は実現したらしいけど、御剣も天盃も拝領していないし勅命もない。家柄相応の扱いは受けたようだけど、言い換えればそれで終わりだ。
「長尾殿、清洲城に挨拶に来るかな?」
「来てもおかしくありませんが……、寡黙な方のようで私も今一つ分かりません」
史実において戦国最強とも言われた人だ。興味はあるし警戒もしているので虫型偵察機を配備しているけど、ほんと口数が少なくて誰にも本音を明かさない。エルも現状だと何を考えているのか分からないというほどだ。
もちろん推測くらいなら出来る。でも推測で判断するのは危険なんだよね。特に景虎クラスにもなるとね。
「ならば、こちらから招けばよろしいかと」
「妙案だね。八郎殿」
織田家においても長尾景虎の注目度は低いけど、資清さんはオレたちが彼を気にしていることを知っていて、思わずジュリアが笑みを浮かべるような妙案を口にした。
「殿がお気になさるのならば、会うてみるべきだと思うたまでにございまする。特におかしなことではございませぬ」
「確かに長尾殿が招きに応じてくれるのなら、招いて会ってみるのが早道だね」
エルとジュリアと顔を見合わせてその意見に同意する。
何度も言っているが、この時代で他国のトップと会うことは稀だ。領内や城を見られたくないのが普通で、招かれる側も暗殺の懸念を持つ。
まあ、景虎が会ってくれるかどうかは分からない。それに会っても寡黙だと儀礼的な挨拶だけで終わる可能性が高い。とはいえせっかくの機会だ、こちらから一歩動くのもいいかもしれない。
Side:長尾家家臣
遥々越後から上洛したというのに、いずこに行っても尾張の話ばかりであったな。面白うない。皆がそう不満をこぼすが、殿が不快そうな顔をなされると黙るしかない。
相も変わらず、我らに御心を打ち明けてくださらぬ殿に皆が困った顔をする。戦と政では相応に命を下されるが、己の思いを口にされることはない。
戦にも強く、越後をまとめられる御方は他にはおらぬ。されど殿の御心はいったいいずこにあるのか分からぬのだ。
「殿、いかがなされましたか?」
蟹江に入り宿にて夕食としておると、殿の箸が止まった。お好きな金色酒を飲み、幾分ご機嫌がいいように思えただけに皆に緊張が走る。
「この梅がいずこで売っておるか聞いて参れ」
「はっ」
皆の顔に安堵が見える。夕食に出された梅干しがお気に召しただけか。
「確かに飯は尾張が一番美味いの。都の料理は味が薄い。東国は塩辛いばかりじゃが、尾張だけはまったく別物じゃ」
そう老臣の言う通り。飯は尾張が一番美味い。殿の御身分を思えば当然ながら格別なものを用意させたとも思えるが、それはいずこでも同じこと。
都の公家衆が、尾張より伝えられた鰻の蒲焼きを褒めておったのも分かるというものだ。案内役の御師が是非というので皆で食うてみたが、あれが下魚の鰻かと驚いたものだ。
「殿、いかがなさいまするか?」
夕食を終えて酒を飲んでおると、夜更けになろうというのに清洲より使いが参った。よければ一席設けたいという招きだ。
「良かろう」
斯波や織田とは特に利害関係もなく暗殺の恐れはあるまい。それに斯波武衛家は三管領の家柄。挨拶に出向くべきか迷うところだが、誘いを受けた以上は断る道理はなかろう。
ただこの時、殿がほんのわずかだが、口元に笑みを浮かべたように見えた。他の者は気付いておらぬようであったがな。
あれはいかなる笑みだ?
分からぬ。殿もこの尾張という国もよう分からぬことが多すぎるわ。
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