第1170話・先を行く者
Side:久遠一馬
十一月も半ばを過ぎた。今年も終わりが近いなと感じる。
冬の賦役は織田領の定番となりつつあり、昨年伊勢から大量の領民を三河の賦役に移したこともあって人員の集中投入が以前より多くなった。
今年は、三河の矢作川の新しい川の整備と知多半島の水路を主な重点整備と位置付けて工事を加速させている。
伊勢の田畑の修繕と街道整備も進めていたんだけど、無量寿院の末寺を返すことで工事区間の中に寺領ができてしまい、調整が必要になってしまった。まあ田畑の修繕は進めるけど、工事の見直しで今年の冬は西三河と知多半島を優先することになったんだ。
その無量寿院は相変わらず動いていて、観音寺城に人を派遣しては義藤さんへの取次を求めていると報告が入っている。また、政秀さんなどの織田家中の実力者にも使者を送って現状の打破をしたいとあがいている人たちは少ないながらいる。
ただ、これで厄介なのは尾張高田派と呼ばれ始めている織田領の高田派だ。尾張・美濃・三河を中心とした尾張高田派がそんな無量寿院の動きに神経をとがらせているんだ。自分たちの国で頭ごしに動く。それが面白くないらしい。まあ当然だよね。
伊勢の末寺だけど、織田領になった後も寺領の民の賦役参加を条件として、関所撤廃や警備兵の寺領内での活動を認める代わりに寺領を維持していた一部の寺などでは、尾張高田派に加わって無量寿院との対決姿勢を強めているところもあるんだ。
小さな寺は大半が領民ごと移住してすでに引き渡しも進んでいるけどね。元より独立志向が強い寺も中にはあるんだ。
無論、素直に無量寿院に戻ることを選んだ末寺も少しはある。人の縁や無量寿院への恩などで戻ることを決めたらしい。ただ、そんなところは早くも賦役参加が出来なくなり物価が高騰して慌てている。
総じて言えることはどの寺も間違いとまでは言えず、それぞれに過去からのいきさつや事情があるということだ。
「これは山城守殿、今日は寒いですね」
この日、道三さんがわざわざ訪ねてきた。清洲城ではよく顔を合わせるものの、ウチの屋敷に来ることは珍しいな。どうしたんだろう?
「実はの。わしも還暦を迎えて、そろそろ隠居して新九郎に家督を譲ろうと思うての。久遠殿に相談をしておこうと参ったのじゃ」
温かい煎茶を出すと道三さんは美味しそうに飲んで一息ついた。最近は険が取れたと言われることもあり、美濃の差配は大部分を今も任されている。立場的には三河を任せている信広さんと同じ感じか。
「そうですか」
「それに、そろそろ斎藤家の所領を整理する頃合いかなとも思うてな。臣従が早かったこともあり斎藤家は所領が多い。今後を考えると、わしが隠居して所領をすべて献上することが良策かと思うての。久遠殿の意見が聞きたいのじゃ」
隠居か。政秀さんも筆頭家老から退き、第一線から退いている。吉法師君の守役や外交では未だに働いているけど、道三さんもそろそろと考えたのか。
驚いたのは所領の整理を自ら言い出したことだ。
「隠居による所領や権限の返上。それ、私たちもやろうかと思っていたことなんですよね、実は。私自身もいずれ必要ですが、最初は織田一族が先例となるのかなと思ってました」
「ふふふ、立場は違えど次の世を思えば、おのずと同じ策になるか。これは面白い」
実はオレたちも似たようなことを考えていたんだよね。世襲は残す。家柄も重んじる。ただし領地ではなく家禄のような形が望ましい。隠居による所領や権限の整理は信康さんや信光さんとも何度か話し合ったことなんだ。
でもまさか道三さんが先にやると言いだすとは思わなかったけどね。
「皆が己の所領を治める。今まではそれしか手段がなかったのでしょうが、そろそろ変えるべき時かと思っています。ただ隠居して政から離れた安楽な生活を送るのは勘弁してください。今、美濃と飛騨から山城守殿がおられなくなれば困ります」
一緒に話を聞いていたエルと資清さんと顔を見合わせた。道三さん、楽隠居したいんじゃないかと思えたんだ。申し訳ないけど、道三さんの実力を思うと役目を減らしてもいいので今しばらくは働いてほしい。
この時代だとどうしても実力者の存在感による抑止力が大きいんだよね。道三さんひとりいるだけで仕方ないなと従う美濃の国人が多いんだ。東美濃と北美濃はまだ新領地と言ってもいい。この時点での不安定要素は御免だからね。
「平手殿のように少しずつ役目から退いていくならばよかろう? いつまでも年寄りが邪魔しては若い者が困ろう」
「そうですね。そのほうが助かります。しかし、……隠居ですか」
「これにて尾張と美濃は盤石となろう。わしはやはり土岐家を潰した不忠者じゃからの。惜しまれるうちに退きたいのじゃ」
少し寂しさが込み上げてくる。ただ、このタイミングで決断した道三さんの政治的なセンスはさすがだなと思う。
「織田は東の一勢力から日ノ本の一大勢力へと変わりつつあります。山城守様の決断。功としては今までの戦と比べても類を見ないほど大きなことでしょう」
「大智殿にそう言うていただくと考えた甲斐があるの。わしもそろそろこの乱世には飽きた。最後に不忠者という謗りを変えて終わりたい」
エルと道三さんはそう言って笑った。本心だと思う。オレやエルの考えることを道三さんなりに考えてどうにか先手を打って終わりたい。そんな会心の策なんだと思う。
ふと史実において斎藤道三は織田信長に国譲り状を残したとの逸話を思い出した。どこまで真実の逸話かオレは知らないけど、道三さんは自らの国と領地を献上することで尾張と美濃の戦国の世に止めを刺そうとしている。
「ええ、変わりますよ。きっと」
道三さんが長良川の戦いで義龍さんに討たれる未来はもう存在しない。義龍さんは清洲在住で工務総奉行として実力を発揮している。親子関係も悪くない。
「ちーち、ちーち」
「おお、大武丸殿も大きゅうなったの」
話も終わり、昼食でも一緒にと誘いのんびりと話していると、大武丸と希美を連れた侍女さんが姿を見せた。道三さんが見たいと言ったんだ。
「ちーち!」
「……大武丸?」
「おお、もう立って歩けるのか」
その瞬間、オレとエルは固まっていた。
「いえ、初めてでございます!」
「なんと!!」
道三さんに誰と言いたげな顔で笑みを見せた大武丸と希美だけど、大武丸が侍女さんの膝を利用して立つと少し危なげながら一歩また一歩と歩いてみせた。
侍女さんですら驚いている。
「希美?」
大武丸がみんなの注目を集めたことで、希美もまた真似るように侍女さんの膝を利用して立ち上がった。少し寂しかったのかもしれない。ふたりとも甘えん坊だから。
「ちーち、はーは!」
まるで褒めてと言わんばかりにこちらに歩いてくるふたりを、オレとエルで受け止めてやる。
「日ノ本の明日は安泰じゃの。この歳まで生きていて良かったわ」
道三さんはオレたちを見て、どこか嬉しそうにそう語っていた。
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