第1114話・一馬と雅教

Side:久遠一馬


 無量寿院の一件が動いている。織田家中では評定にて話し合いが行われて、伊勢の寺と寺領を返還するべきではという意見にまとまった。


 織田家中にも末寺は本山が治めるべきところだというこの時代の常識は当然ある。今までそれぞれにやっていたのだから、これからもそれでいいのではと楽観的に考える人もいるんだ。


 まあ織田と比較して暮らしが苦しくなるし、物価が上がるとも説明はしているが、それは織田の関わることではないという考えが多いのかもしれない。


 無量寿院がどうなろうが、関係ない。そう考える人は多い。


 今でこそ織田家の皆さんは変わりつつあるが、もとは彼らもこの時代の武士に他ならない。他国の人が飢えようが暮らしが苦しかろうが興味がないというのが本音だろうか。


 それと、こちらが粘り強く状況の説明をして交渉していた最中に、殿上人を呼んで一方的に交渉を決めようとした無量寿院に対する不信感が思った以上に強い。


 ただ、これに織田家でも懲りたところもある。本證寺に無量寿院。寺社というものがいかに厄介か皆さん身を以って知ったからだろうが。


 以前に久遠諸島から戻ったあとに熱田の千秋さんと津島の大橋さんたちと話した、織田家における寺社の問題について新たな体制が決まった。


 領内の寺社にそれぞれ宗派ごとに惣のような合議の場を設けること、合議の下で決めた各宗派の代表を織田家の寺社奉行の下に置くことにした。これにより寺社奉行を新設することになり、津島神社の堀田さんと熱田神社の千秋さんが就くことになった。


 守護使不入を廃止して寺領の整理をした寺社は領内には多い。特にこの時代だと寺社が多いからね。そろそろ彼らが意見を言える場がいるし、管理する体制も必要だったこともある。


 この寺社改革。この段階で決めたのは無量寿院の件が無関係ではない。尾張・美濃・三河の織田領にも無量寿院の末寺がある。今回の伊勢の末寺の件で妥協すればそちらにも口を出しかねないという懸念があるためだ。


 また寺社からの陳情や相談などが組織の窓口がないことで大変だったこともあるが。


 以後、領内の寺は織田で面倒みるということになるだろう。学校、病院、宿屋、集会所と地域の拠点に寺社がなるのは現時点では仕方ない。


 役割と仕事を与えて飢えずに生きられるようにする必要がある。はっきり言えば、領内の寺に本山なんかなくても困らない体制にする必要があった。


 経済格差による寺社の動きがこれほど面倒になると思わなかったのもある。寺社の帰属意識を変えていかないといけないからね。




Side:飛鳥井雅教


「勝手なことを……」


 無量寿院が吾の名を使い、伊勢の末寺に文を出しておると騒ぎになった。聞いておらぬぞ? 吾に恥をかかせる気か? ただでさえ話し合いの最中に吾が来たことで、織田の無量寿院に対する苛立ちは増しておるというのに。


 尾張において絶大な力のある者は三名おる。武衛と内匠頭と内匠助。このうち気難しいと言われるのは内匠助であるとか。


「ようこそおいでくださりました」


「突然、済まぬの。ちと話がしたくての」


 武衛と内匠頭と話す前に内匠助と話すべきかと久遠の屋敷を訪ねた。呼べばすぐに参ったと内匠助は驚いておったが、城では腹を割って話せぬからの。


 聞けば堺が武衛家に絶縁されたのはこの男の意思だとも噂されておる。堺で勝手をしておった南蛮の狼藉者に、南蛮の女が尾張におると教えたことが逆鱗に触れたとか。


 真相はわからぬが、武衛と内匠頭に意見を言える立場であることは確かなようじゃ。この男の話は聞いておかねばならぬ。


「聞き及んでおろうが、吾は無量寿院のことで来ておる。無論、片方に肩入れする気はない。関白殿下にも良しなにと言われておるでの。尾張に来てこちらの言い分も聞いておるのじゃが、思うていた以上に厄介での。困っておるのじゃ」


 この男を敵に回すとまとまる話もまとまらなくなるどころか、主上の御不興をも買いかねん。吾も素直に話すことにした。


 よくわからぬ男だと言われておるが、頼ってきた者を無下にしたとは聞いたことがない。困ったら久遠を頼ればいいというのは織田の家中で言われておるそうじゃ。


「無量寿院には織田として幾度か説明していますが……」


 内匠助は少し困った顔をしたが、話をしてくれた。


 三河本證寺の一件から守護使不入は必ずしもよくないことであると考えたと。止めようとした願証寺や本願寺の使者すら殺されてしまったとは。


「飢えない国にするには土地を豊かにする必要があります。そのためには各々が持っている小さな貧しい土地をまとめて治め、豊かな土地に変えていく必要があるのです。寺社には困らぬようにと実入りが変わらぬように配慮したのですが」


 ああ、ようやくわかった。近衛公や関白様が、何故、氏素性も怪しきこの男に一目置くのかが。


「南蛮船の利だけでここまで豊かな国には出来ぬか」


「無理ですね。織田では田畑も変えています。当家の知恵と技で米の収量は僅かながら増えております。また道や河川も織田で一括してよくしており、そのような積み重ねが尾張の今でございます」


 信じられぬ。土地を手放すということは奪われることと同じ。いかな綺麗事を重ねてもそうであるはず。


 土地よりも織田を信じるということか?


 誰もが持つ利と領分を放棄させて納得させる。この男こそ仏の化身ではないのか?


 ことわりを唱えたところで誰も納得などせぬ。誰かが富めば誰かが貧する。そうであろう?


「他ならぬ宰相様ですからお教えいたしますが……、伊勢の末寺では以前の暮らしに戻るのではと皆が案じております。また織田家でも末寺と寺領を返しても良いという者が多うございます」


 なんじゃと? 末寺と寺領を返すと? それではあまりに無量寿院の要求に偏ることになってしまうではないか。


「ただし、織田に帰属を望む僧と民はこちらに移り住むのを認めていただきたいのです」


 ……油断ならぬ男じゃの。織田を頼る者は見捨てぬと世に示すことは譲れぬか。


「もうひとつ。この件で末寺と寺領をお返ししても無量寿院は長くは保たないかもしれません」


「戦をする気か?」


「いえ、そのようなつもりは毛頭ございません。ただ、宰相様がおらねば織田とは話も出来ぬという無量寿院とは、この件が終われば話をすることは一切いたしません。当然、末寺と寺領を返した後に織田と当家からの支援は一切なくなります。たとえば寺領の民は冬場の賦役や流行り病の治療も受けられなくなります。それ以外にも……」


「他にもまだあるのか」


「はい。特に織田領内や近隣の品物の値は当家で差配したものです。民が飢えず困らぬようにと安く抑えた値で売っております。ですが、以後は末寺と寺領では他領の縁なき者と同じ値になります。おそらくは最低でも今よりも三倍以上の値になるでしょう。品物によっては五倍から十倍も珍しくなくなります」


 無量寿院を切り捨てる気か!? いや、そもそも領内の品物の値を久遠が決めておるのか!?


 そのような重大なことなど全く聞いておらぬぞ!! 何故、誰も教えてくれなんだ!!


「宰相様、過日の北伊勢の一揆は野分が原因ではないのです。織田の民と北伊勢の民の暮らしの豊かさがあまりに違ったことによる北伊勢の民の怒りが本当の原因なのです。無量寿院はこのままではいずれ北伊勢と同じ結末を迎えると私は考えております。それだけはあらかじめ宰相様のお耳に入れておくべきかと存じます」


 ああ、この者は絶対に敵に回してはならぬ男だ。涼しげな顔で無量寿院ほどの権威ある寺を潰すことも厭わぬと考えておるとはな。


 末寺のように困窮する者には慈悲を示すが、無量寿院のように己の面目と利を求めてばかりの者には情け容赦せぬということか。


 いかがする? 尾張や美濃のように伊勢の末寺が本山に献上する銭を戻す代わりに末寺に口出し無用とするか?


 されど、はたして無量寿院がそれで納得するか怪しきところだ。口では面目さえ保てればと言うておるが、寺領や銭に固執しておるからの。それに暮らしの格差というならば、無量寿院の寺領の民もいずれ逃げ出して同じ轍を踏むことになるのは明白ではないか。


 いかんな。飛鳥井家が巻き込まれてしまうではないか。吾が収めた懸案が数年で無駄になるなどすれば、末代までの恥となるばかりか、主上の勅勘すら被りかねんわ。


 困った。


 まことに困ったことになった。




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