第860話・秋となりて

Side:久遠一馬


 季節は秋になった。


 長島や三河では綿花の収穫が始まっている。今年も収量は悪くない。織田に従うと飢えないとわかっていても、自分たちの作物がきちんと実り収穫できると領民は喜びホッとする。


 人心の安定という意味では、こうした日々の実感がひとつひとつ積み重なることで荒廃したこの時代の人の心が変わるきっかけになる。


 魚肥を全面的に使うなど年々改善をしていて綿花の質も悪くない。魚肥を使うことで沿岸部の村にも魚肥の売り上げが入ることで暮らしが楽になっている。領内の経済が徐々に循環し始める様子は見ていても楽しいものがある。


 米も悪くはない。ただこの季節は野分こと台風がやってくる。まだまだ気を抜けないけど。


 三河に関しては松平領の検地と人口調査が始まり、領地整理の下準備が始まった。織田家の文官衆はこの作業に慣れているとはいえ、北美濃と東美濃もまだ終わっておらず、気を使う作業なので時間が掛かる。秋の農繁期に入ったこともあり、一連の作業が終わるのは年明けにずれ込むかもしれない。


「大久保新八郎殿か。なかなかの人らしいね」


 松平広忠さんは那古野の竹千代君の屋敷に住んでいる。親子だし離す必要もない。異例だが年明けには於大の方と再婚と言っていいのかわからないが、元の鞘に収まることになっている。


 岡崎城代は大久保おおくぼ忠俊ただとしさんになったらしい。とりあえず食糧や塩などの値段を織田領と同じにするために頑張ってくれた。


 松平領の商人が例によって米や雑穀を大量に抱えて一儲け企んでいたらしいが、松平家の家臣が一気に兵糧を放出すると大損したと騒いでいるらしいが、知ったことか。


 彼らは織田が食糧を運んでくることは想定していたらしいが、松平家中が兵糧を放出することまでは想定してなかったみたい。結果として大久保さんの決断が松平領の商人の計算を狂わせた。


 武士にとって兵糧は大切なものだ。まして臣従したばかりで安定していない西三河で、兵糧を一気に出すとは思わなかったんだろう。もっとも大久保さんはあえて兵糧を出すことで織田への忠誠と疑念を抱かれないようにと腐心したようだ。


 こういう人がいると、こちらもやりやすい。


 松平領の商人が慌てて米や雑穀を安価で放出したので、こちらで買って先に兵糧を出した松平家中のみなさんに補填した。これで尾張から運ぶ分は少なくて済む。


「北畠家の動きに六角家が慌てておりますな」


 三河のことはとりあえず一段落したが、今度は西か。資清さんが少し難しい顔で報告をしてくれた。


 北畠家が水軍を事実上の放棄をすること。六角家では衝撃だったらしい。軍事力を捨てて守りを他国に委ねる。この時代でなくてもなかなか出来ることじゃない。


 ああ、北畠家の動きは六角家と願証寺にも内々に知らせたし、伊勢や近江を中心に北畠家の動きを噂として流してある。


 中伊勢の長野家や北勢四十八家はどうするだろうね? 六角は蒲生さんが織田の統治法を学び、北伊勢の扱いや今後の六角家について検討を始めたらしいが、如何せん遅い。


 過去の律令という似た前例があるとはいえ、大半の武士はそんなものは知らない。未知の統治法だ。名門である六角がそれをそのまま真似するということはあり得ないし、下手に真似すると失敗する可能性もある。


 当然慎重にならざるを得ないが、問題は六角の改革スピードだと間に合わないことだろう。少なくとも北伊勢は爆発する。


 ただこれは六角を責められないだろう。北畠は具教さんとオレや信長さん個人の関係で進展が早いが、それがこの時代の特徴でもある。また北畠は北畠で長野家が動く前に動きたかったんだろう。


 長野家は慌てている。大湊と織田の関係が良好なのは知っていたようだが、北畠家の嫡男が個人で誼を深めているとなると話がまったく変わる。法要以降、なんとか織田と誼を深めようとしているが、実を結ぶ時間はないだろう。


「織田は水軍の臣従と引き換えに、北畠家に海苔の養殖などを許すと噂を流しております。北伊勢と中伊勢の水軍は慌てておりますな。さらに北伊勢では民が織田と比べて己の村を治める武士に不満を抱いておりますれば」


「願証寺はそこそこ上手くやっているのにねぇ」


「坊主は抜け目がありませぬからな」


 資清さんの報告にため息が出る。具教さん、地獄の釜の蓋を開けたね。


 北伊勢と言っていいかわからないが、マシなのは願証寺の寺領だ。綿花の栽培も順調であるし、謝礼を払うことで寺領の領民を病院で診てもらえるようにと頼んできたので許可が出ている。


 あとケティたちではないが、ケティの弟子になっている滝川家や望月家の医師による寺領への往診もしているくらいだ。


 願証寺には朝廷と義輝さんへの献上品を運んでもらっているので、そっちでは織田が謝礼を出しているしね。石山本願寺と織田の取引の仲介もしているので結構お金がある。そういえば、義輝さんへの献上品は受取人不在のまま、六角の観音寺城に運び込まれているけど、どうなっているんだろう。幕府の財源にでもなっているのかな。


 資清さんは『坊主は抜け目がない』と言うが、学問を学んでいる人たちなんで武士より視野が広いんだと思う。旧来の統治では対抗出来ないと理解している節がある。


 おかげでこちらに助言が欲しいとよく相談がくる。まあ助言くらいならタダでするだけの誼があるからね。とはいえその助言の価値が高いことを知っている。


 対外的には願証寺は臣従したと見られていてもおかしくないんだけどね。抜け目がないと言うのもよく分かるよ。


「ああ、北美濃と東美濃は大丈夫?」


「はっ、雪が降り積もる前には飢えぬように出来まする」


 領地が広がっていることでオレから織田家に献策することも多い。西三河より先に臣従した北美濃と東美濃の検地や人口調査もまだ終わっていない。


 こっちは雪が降り積もる地域もあるので、冬がくる前に食糧を運び込む必要がある。また働き盛りの人たちは、西美濃か稲葉山城の辺りに出稼ぎに出して賦役をさせる予定になっている。


 村を維持する人は必要だが、村の中で若い人にそこまで仕事があるかと言われると、ない。関ケ原の賦役はまだ続いているし、関ケ原、大垣、稲葉山のラインの街道整備もまだ道半ばだ。


 あとお隣の飛騨だが、こちらも随分と大変らしい。木工職人の派遣ばかりか、領民の出稼ぎも考えているみたい。


 出稼ぎに出すことで武家には謝礼金が入り、民は飢えない。この時代では驚くほどの政策になる。もっとも織田領に慣れた民は元の飢える暮らしに戻りたくないと考えるので、後が大変になるが。


 まあ姉小路家辺りだと、このまま斯波家と織田家と誼を深めていかないと三木家に乗っ取られるくらいの劣勢だし、手段を選んでいられないんだろうけど。


 信濃は当面混乱するだろう。小笠原家は今川と組むと思う。とはいえ武田も弱くないんだよねぇ。気になるのは史実では砥石城を調略により落とした真田さんが尾張にいることか。


 有能な人だとアーシャから報告が入っている。久遠家の秘伝などは教えていないが、教えてもらえる範囲で自身も学問を学んでいるという。


 少なくとも学校関係者では武田を卑怯者と罵る人はいないらしい。西保三郎君は大人しめだが良い子だし、真田さんたちも真面目らしいしね。


 そういえば岩竜丸君が甲斐の厳しさに驚いたと、学校帰りに立ち寄った時にこぼしていた。


 甲斐は古より上国として知られていて、山奥なのは知っていてもそこまで厳しい国だと知らなかったみたい。近隣なら知っているんだろうけどね。尾張あたりだとそんな程度の認識なんだろう。


 ウチの家臣だと、たとえ大名となれるとしても甲斐は要らないと言いそうだ。


「御本領は冬でも寒うないとか。羨ましゅうございますな」


 冬の話をしていると資清さんはふと島のことを語りだした。また行きたいと何度か言っているし、ふと思い出したんだろう。


「隠居したら一緒に行こうか。のんびりしていいよ」


「それは楽しみでございますなぁ」


 日ノ本を統一したら島でゆっくりするのも悪くない。資清さんだと中央に残れるけど、オレが隠居したら一緒に隠居するだろう。


 以前にお酒を飲んでいる時に、もし甲賀を織田が手に入れたとして戻りたいかと聞いても戻りたいとは言わなかった。


 いつか広い世界を見せてあげたい。きっと喜んでくれるだろう。




  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る