第848話・討伐前夜
Side:望月出雲守
「お呼びでございますか?」
夏も半ばを過ぎただろうか。まだ暑いこの日、殿がお呼びだというので急いで参ると、殿はロボとブランカの子らと楽しげに遊ばれておる。
今や諸国に名が知れておるというのに変わられぬお方だ。
「三河に送る援軍のことなんだけどね。出雲守殿に任せようと思って。忍び衆の取り纏めで忙しくて武功の機会がなかったからさ。出雲守殿にもそろそろ将として経験を積んでほしいし」
「お方様のいずれのお方が参られますので?」
「うーん。今のところはその予定はないね。正直、今回も武功の機会になるかはわからないしさ。ただ、三郎五郎様から援軍をと頼まれてね。今回武功の機会がなければ、また次を考えるからお願い」
「畏まりました」
用件は三河への援軍か。戦になるほど人が集まるか怪しい相手だが、まさかわしが将として任されるとはな。
殿には朝廷から官位も頂けることになり、久遠家はわしが来た頃よりも大きゅうなっておる。更に滝川家にも将を任せられる者が幾人かおる。わしでなくともよいはずなのだがな。
「今後、戦は増えるかもしれない。軍を分けることもありえるしね。無理をせずに頑張って」
千代女はすっかり殿の奥方様となり働いておる。子がまだ出来ぬことは残念であるが、他の奥方様と仲ようやっておるようでなによりだ。
エル様の話では千代女は聡明で文官としての才があるとか。エル様の代理をしておられるメルティ様の補佐をしておる。
六角家では管領代様が亡くなり、先行きがわからなくなっておる。わしはいい時に久遠家に仕官出来たのであろうな。
殿は犠牲を出してまで武功を上げることは望まぬ。生きてさえおれば、いくらでも戦えるのだ。久遠家ではな。
もっとも数もおらぬ謀叛人相手では無理をすることすらなかろうがな。とはいえ久遠家が戦場におるのとおらぬのでは味方の士気が違う。三郎五郎様のお考えもそんなところであろう。
あとは岡崎城にでも籠城されぬ限りは出番はあるまいて。
「あとは誰を送るのでございますか?」
「うーん。任せるよ。ただ曲直瀬殿は衛生兵の総監として送るから、そっちもお願いね。曲直瀬殿はあまり用兵が得意じゃないって言っていたし」
甲賀の元所領は相変わらずだ。尾張から援助せねば暮らしすら苦しい。任せられた喜びで浮かれてはならん。気を引き締めてあたらねば。
久遠家の名に傷だけはつけられん。
Side:松平広忠
明日で五日目。出頭した者は僅かしかおらん。一族の者を寄越すことでいずれにせよ家と所領を守る気ではおるようだが、わしを殺そうとしたことに謝罪もない。
戦か。そう思うておると三郎五郎様に呼ばれた。
「こちらは久遠家家臣、望月出雲守殿だ」
「良しなにお願い致します」
場におったのは三郎五郎様と因幡守殿、それと見知らぬ御仁は久遠家の望月殿か。近習はおるが三河衆がおらん。何事だ?
「明日で期日だ。兵を挙げて岡崎を含めたそなたの領地を接収していく。そなたに先陣を任せようと思うてな」
「ありがとうございまする」
ああ、戦のことか。すでに安祥には尾張と美濃から兵が二千ほど集まっておる。明日以降にはもう二千ほどやってきて、三河衆を含めて五千か六千にもなるという。
望月殿も兵を率いてきたのだろう。
「ただな。そなたと家臣たちに言っておきたいことがある」
供をして参った家臣らも先陣を承ったことに喜んでおるが、三郎五郎様が言葉を続けると顔つきが引き締まる。
「実のところ、この戦、阻止する策はあるのだ。とはいえ、そなたは命を狙われたのだ。ここで武功を上げねば困ろう。それに織田は新しい戦のやり方を模索しておる。言葉は悪いが、試す必要があることが幾つかあるのだ」
確かに懐柔や所領安堵と共に従えと言えば降る者もおろう。だが織田はその手の懐柔を驚くほどせぬ。まるで謀叛人とその一族など不要だと言うようにな。
「張り切るのは構わん。だがやり過ぎるな。連中が今川に逃げるのならば深追いは不要だ。領地さえ押さえれば連中など無視して構わん」
「お恐れながら……、それでは我が殿が見す見す逃げられたように思われます」
「今川に逃げた罪人を斯波家の名において引き渡しを求める。今川は如何すると思う?」
逃がしてもよいとは勝ち戦であろうに。訳がわからん。本多平八郎がたまらず訳を問うと三郎五郎様は諭すように策を語り始めた。
「引き渡さぬと思われます。今川が争いを避けておることは事実なれど、渡しては今川の威信に傷が付きまする。織田に勝てぬと認めるようなもの」
「先日の法要の際に、今川家の寿桂尼殿が己の命と引き換えに和睦を求めたとしてもか?」
「なんと……」
まさか……、あり得ん。平八郎もそう思うたのだろう。答えに窮しておるわ。足利家所縁の名門中の名門ぞ。織田は強いと雪斎和尚が認めたとはいえ、未だ織田と五分に渡り合っておるはず。
「試してみることになったのだ。寿桂尼殿の覚悟と言葉をな。謀叛人の引き渡しは今川に大きな損を与えることではないからな」
本気だ。引き渡さねば戦になろうともよいと言いたげな顔で語っておられる。
「織田伊勢守殿のことは知っておろう。元は織田嫡流だ。伊勢守家も愚かな家臣のために父上と戦になりかけた。結局、戦をせずに臣従したことで、当初は侮る者や笑う者がおった。されど今では、他国の者との交渉や上洛の際には献上品を運ぶなどしておる。そなたにも必ずや働き場が与えられる。故にここは従え」
「畏まりました」
背筋に冷たいものが流れる。愚か者の始末で今川を試すなど誰が考えたのだ?
西三河を押さえることすら片手間か。
「そう気を張らずともよい。そなたとわしの違いは、偉大な父が生きておるか、亡くなっておるかだけのこと。才覚に大きな差はあるまい。もしかすると、わしがそなたの前で頭を下げておったのやもしれん」
すでに今川を見ておる織田に恐ろしさを感じておると、三郎五郎様の表情が和らいだ。
「人の立身出世など所詮は運の良し悪しとも思える。久遠殿や望月殿のような者を除いてな」
「某を殿と一緒にされると困りますな。某も運が良かっただけのこと。三郎五郎様や松平殿と大差ありませぬぞ」
「ふふふ、そうかもしれんな。父上や久遠殿は別格だ。我らは運がよいのかもしれん」
三郎五郎様の言葉に望月殿がたまらず困った顔をして異を唱えると、三郎五郎様や因幡守殿が笑われた。
そうか。織田の者も戸惑い驚きながらここまで来たのだな。そう思うと少し気が楽になる気がした。
武功はほしい。謀叛人はこの手で討ちたい。とはいえそれで己の未熟さを補えるわけではない。謀叛など起こされるほうが愚かなのだ。
織田のやり方に従い生きるしかない。竹千代に松平宗家を残してやらねばならんからな。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます