第813話・信繁の憂鬱
side:武田信繁
東美濃を抜けると濃尾の地に出た。信濃では無頼の輩に襲われたこともあり、ここまで一刻も気が抜けなかった。武田が恨まれておることを痛感する。
信濃では武田に臣従をしておる国人の所領でさえ、我らを見る目が厳しい。誓紙も破り同盟相手さえも問答無用で滅ぼす東国一の卑怯者。そんな噂を今や信濃でも知らぬ者はおらぬらしい。
民は我らの姿を見ると逃げるように離れてしまう。国人でさえ怯える者がおった。あそこまで怯えられると、恐れからこちらの寝込みを襲われそうで怖いというもの。
「ここは……?」
「井ノ口でございます。斎藤山城守様の城下になります」
目の前の町の光景を見ておったからであろう。そんなことを思い出しておったのは。民で賑わう町。武士というだけで逃げられることもない町だ。
案内役は遠山一党の者。つい先日に織田に臣従を許されたと旅の途中で聞いた。これで飢えることもなくなるかもしれぬと、そう笑う男に我らはなにも言えなんだ。
道中では街道の草を刈る民の姿が目立った。この季節は草木がよう生い茂る。近隣の武士が民を動員しておるのかと思うたが、織田の賦役で銭も貰えると皆が喜んでやっておるとのこと。
信じられぬというのが本音だ。得たばかりの他国の領地だぞ。武田家ならば高い税をかけて奪えるものはすべて奪う。
斎藤山城守。確か成り上がり者で決して評判は良くなかった男だったはず。それが何故……。
「お久しゅうございます。叔父上」
そしてたどり着いた清洲は、甲斐や信濃とは比べようもない栄えた町であった。
清洲で久しぶりに会うた西保三郎は、甲斐におった時よりも顔色もよく大きゅうなったように思える。嬉しそうに笑みを見せる西保三郎に甲斐から参った我らもホッとする。
「尾張はいかがだ?」
「はい。尾張の皆によくしていただいております」
甲斐の田舎者と軽んじられて苦労をしておるのではと案じておったが、西保三郎を見る限り無用の心配であったようだな。
その夜は西保三郎や真田らと一晩語り明かした。
「やはり苦労をしておったか。兄上もたいそう気にされておる」
翌日、西保三郎が学校という学び舎に出かけると、真田らと尾張での暮らしや武田家の置かれた立場を話す。
東国一の卑怯者と謗られることや忌避されることはないと聞き安堵するが、清洲の武士は甲斐とは比べものにならぬほど豊かな暮らしをしておると聞き、わしと連れ立って参った者らもなんとも言えぬ顔をした。
「堕落しておると罵ることは愚かなことだ。豊かな国なのだ。治める武士が相応の暮らしをして当然。甲斐源氏である我が武田家が、斯波様や織田殿に気を使わせておるとはなんとも情けない限り」
西保三郎には恥をかかせぬようにと相応の暮らしをさせておるが、真田らは尾張の民と変わらぬ暮らしをしておると聞き、わしは真田らに謝罪をした。
甲斐でもおるのだ。家柄だけで尾張を軽んじて贅沢をする愚か者だと罵る者がな。されど尾張では尾張の暮らしがある。
とはいえ尾張に西保三郎を出した兄上のお考えは正しかった。京の都や畿内にあらずとも、これほどの国があらば誼を通じて当然のこと。
「典厩様、今川とのことはいかがなっておりましょう」
「一進一退だな」
真田が気にしておるのはやはり今川とのことか。真田の所領は信濃だ。噂を聞けば心穏やかではあるまい。さすがに裏切るとは思えぬが、信濃が落ちると寝返ることはあり得るか。
兄上は初手を間違えたのであろうと今にして思う。父上を駿河に追放の
誓紙を交わしても無駄だと誰も武田を信じてくれぬ。北条と敵対しておる関東管領上杉でさえもな。
とはいえ兄上に替わる者もおらぬ。兄上が隠居しても武田の評判が変わるわけではないからな。
前途多難だな。兄上は今川相手に戦で勝てば光明が見えるとお考えのようであるが、そう易々といくのであろうか?
Side:松平広忠
「面目次第もございませぬ」
尾張にてようやく落ち着いた頃、最悪の知らせが届いた。わしの暗殺が未遂に終わったことで、
勝手は許さぬと厳命しておいたにもかかわらずだ。
さすがにまずいと、すぐさま内匠頭様に目通りを願い仔細を報告する。内々にしていただいたとはいえ、これを許せば示しがつかぬ。
だが、わしの力ではそれを覆すのは家中が乱れるだけ。口惜しいがこれ以上三河が荒れるは織田家の望むところではあるまい。
「よい。その始末は法要と花火が終わってからだ。そなたと松平宗家を潰す気はない」
内匠頭様は相変わらず顔色一つ変えずに返答をなされた。お叱りを受けておるわけでもないのに汗が止まらぬ。
「それだけでは不安か。そうだな。水野の妹、於大との復縁を許そう。互いに嫌うておった様子はないと一馬から聞いておる。今年に入り、水野にはわしの妹を嫁がせた。復縁をすれば織田と縁続きとなる。これで松平宗家も安泰であろう」
重苦しいとさえ感じる内匠頭様の御前でわしは言葉が出ぬままであったが、そこで少し思案された内匠頭様が思いもよらぬことを口にされた。
「はっ、ありがとうございまする」
信じられん。まさか不手際を報告に参って、於大との復縁を許されるとは。
「竹千代は利発で学問も武芸もよく学ぶ子だ。廃嫡にしたわけではあるまい? 回り道をしたが、これでよかろう」
潰してしまっても誰も文句は言わぬはず。散々騒がせて勝手なことばかりする我らなど。何故これほど……。
「代わりというわけではないがな。勝手をした三河の家臣は諦めろ。無論、そなたを支えておる者はいい。だがな。勝手を許せば後に憂いを残す。知っておろうがわしは土地に拘り勝手をする者は織田に残す気はない」
「畏まりましてございます」
「落ち着けばそなたにも役目を与える。汚名をそそぐ機会などいくらでもあるのだ。励め」
「ははっ」
仏の弾正忠か。まさに仏と思える。わしのような者にも慈悲を与える。その上で仏の逆鱗に触れた者には罰が下るか。
三河におる者はわかっておらん。一族の始末は一族でつける。今までならばそれで良かったのだ。されど今の松平は織田の家臣。勝手は許されんことが何故わからんのだ。
結局、己の武功もなく今川の力で家督を継いだわしは、最後まで舐められておったということなのかもしれんな。
家臣よりもかつての敵である織田のほうが義理堅く気遣いをしてくれる。今や天下に名が轟いておるお方だというのに。
於大と竹千代と、今でもわしに従う家臣と一からやり直すのも悪うないか。
父上のように武勇に優れたとして、家臣に殺されてはなにも残せん。
父上を殺した松平宗家は終わるのだ。わしの手で終わらせるのだ。それも悪うないと今なら思える。
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