第768話・佐治さんの結婚・その二
Side:織田縁
初めて南蛮船に乗りました。大きいほうの船ではありませんでしたが、市が楽しいと言っていた船なのだなと思うと感慨深いものがありました。
私は今日、佐治殿に嫁ぎます。
数年前ならば考えられなかったことでしょう。尾張は変わりました。佐治家は織田家に臣従しました。
それと佐治殿とは何度かお会いしたことがあります。
以前ならば城から出るのはお宮参りの時くらいで、父に仕えている者たちでさえ会うことは滅多にありませんでした。
当然ながら嫁ぐお方に事前に会うなどあり得ぬこと。
それが変わったのは、久遠殿が父の猶子となった頃でしょうか。私たちにも書物や玩具などいろいろと頂けるようになりました。
女も子を産んだあとが長いのだと。学問を学び武芸を鍛えて、その後を生きることを考えるべきではと父は申しておりました。久遠家のエル殿たちを見て考えられたのでしょう。
学校に通えるようになり、多くの者たちと話すことが出来るようになりました。尾張の外のことや、遥か明のことなどいろいろなお話も聞くことが出来ました。
先日には共に学んでいた皆が、私の婚礼を祝ってくれました。本当に楽しかった。
それとこれも以前ならばあり得ぬことでございますが、婚礼の前に久遠殿の屋敷で佐治殿とお茶を共にする機会がありました。
久遠殿とエル殿が場を設けてくれたようです。互いに話をして、婚礼の前に不安をなくしておくべきだとの配慮があったのだと、市の乳母である冬があとで申しておりました。
信じられぬことです。今日の婚礼の儀にも父が参っておりますが、どちらもあり得ぬこと。ですが久遠殿ならばそれが許されるのです。
佐治殿とはしばしふたりで話をさせていただきました。その席で学問と学校が楽しいとお伝えすると、婚礼後も学校に通ってよいと言っていただきました。
佐治殿は蟹江にて役儀に励んでおられるようで、私も蟹江に住むことになるそうです。蟹江から那古野ならば馬車も使えます。
私がエル殿やジュリア殿のようになれば佐治家も安泰だと、笑って許してくれた佐治殿の懐の深さに私は感銘を受けました。
市も私と離れることを寂しがっておりましたが、その話を教えると嬉しそうに喜んでくれましたね。
佐治殿は、いずれは久遠殿と共に日ノ本の外に行きたいと申しておりました。広い海の向こうを見てみたいのだと。
父も佐治殿も、皆が明日を楽しみに生きております。私も佐治家の女として、そんな夢を見られたらと思わずにはいられません。
Side:織田信秀
きっかけは一馬の婚礼だ。八郎たちが披露目の席に出て涙を流して喜んでおった姿が忘れられなかったからだ。
一馬はわざわざ八郎や出雲守の前で娘の晴れ姿を見せてやっておった。そういう気遣いをさせると一馬に勝るものはおらんのかもしれん。
婚礼は古き習わしがいろいろとある。
それはそれで悪いとは思わん。とはいえ一馬のところでは両家が共に宴を開いて喜びを分かち合い、今後も共に生きていく決意を固めるのだという。狭い島だから出来たことかもしれぬと一馬は申しておったが、尾張でも出来ぬかと思うた。
佐治の面目を傷つけぬようにとわしが出向く形にした。出席する者も佐治家より少なくする必要があろう。そのためにわしと佐治家が与力として付いておる一馬を供とした。
婚礼の料理をエルが作ってやるというのでちょうどよかった。
肝心の佐治はこのことを喜んでおった。言葉には出さぬが、武士の世も変わると佐治も知っておるからな。あの男は武士として立身出世するよりも、一馬と共に広い海に出たいと夢見る男だ。
縁も幸せになれるであろう。
「考えてみれば、これほどよき婚礼はないのかもしれんな。家臣に娘をやる際には主君が家臣の城に行き、共に祝う。そんなこともかつては出来ぬことだったのだからな」
「他所だとまず無理でしょうね。殺そうとする人が必ず出ますよ」
主君だからと威張っておればいいわけではない。時には家臣に心を砕いてやる必要がある。とはいえ一馬の申す通りか。織田だから出来ること。その一言に尽きる。
他国が気付いた時にはもう遅い。織田は他国よりも先をゆくのだ。
「婚礼が終わったら知多半島の今を見たいな」
「わかりました。佐治殿に話して、水野殿には文を出しておきます」
日ノ本は海に囲まれておる。水軍は今後も織田の要となろう。とはいえその前に気になるのは貧しいと聞く知多半島のことだ。
川もなく水がないと聞き及ぶが、実際に如何なる様子なのか見ておかねばならん。
「せめて飢えずに暮らせる国造りというのも難しきことだな」
「そうですね。私たちで何処までやれるのか」
見てみたいものだな。一馬の見ておる次の世が。人々に明日を夢見させるその先が見てみたい。
一馬の恐ろしいところは、それが己の生涯でも成し得ぬことと知っておるところか。己の夢と意思を継ぐ者を育てる。なかなか一馬のような若さで出来ることではない。
Side:久遠一馬
花嫁の父親とは、この時代ではどんな心境なのだろう。政略結婚の道具なんて言い方をすることもあるが、この時代に来て感じたのは肉親の情は元の世界と変わらないことだ。
無論、すべてがそうではない。親が子を捨て、子が親を捨てることもよくある時代だ。とはいえ織田一族は肉親の情が深いような気もする。
まあ上手くいっている時はそうなんだと言えば、そうかもしれないが。
オレと信秀さんは特にすることもない。お酒でもお持ちしましょうかと佐治家の人に聞かれていたが、信秀さんは婚礼の前に飲む気はないようで火鉢にあたりのんびりとしている。
厳しい時代だよね。娘が家を出ると親の死に目にも会えない。オレはそんな世の中を変えたい。
「そういえば、知多半島に水路を引くと素案にあったな。それほど水に困っておるのか?」
暇なんだろう。信秀さんとは知多半島の話となっていた。近場だが来たこともなく、田んぼがほぼ作れないという話以上は詳しく知らないらしい。そんな信秀さんが思い出していたのは、以前にオレたちが提出した尾張の治水計画の素案だろう。
百年はかかる、史実を参考にした治水計画。
「使えそうな川もなく、井戸を掘ると塩っけのある水が出るんだとか。ウチでも試しに掘らせてみましたが、駄目でしたね。田んぼ以前に飲み水でさえすぐに足りなくなるようです」
この時代の武士は治水とか水関係には敏感だ。洪水で困ることもあれば、水の利用で争いもある。信秀さんクラスになると水利のことで調停もそれなりに多いからね。
「あちらでは川が氾濫して困るというのに、ここでは水が足らんとは。上手くゆかぬな」
「知多半島の南部は水がないので暮らすのも大変なところです。ここらは直轄領として水軍と漁業をしつつ、水路を設けるしかないでしょうね。国人ではとても作れるものではありません」
知多半島。地図だけ見ると結構広いし、東方面に行き交う船で栄えそうなんだけど水問題がねぇ。
佐治さんは俸禄に切り替えるそうだし、知多半島の付け根の水に困らないところはともかく、それより先は織田家で変えてやらないと史実のように出稼ぎがないと食べていけない土地になる。
水野さんはなんて言うかな。問題は分家とかいるから、水野さん個人の意思で決められないことか。とはいえ、佐治さんがウチのテコ入れで暮らしが楽になっていることは知っているはず。
俸禄に変えて一括で開発出来ればいいんだけど。
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