第718話・義輝、散歩に出る

Side:久遠一馬


 帰りは黒潮に乗れるので早かった。海が荒れ気味だったせいで、織田家の皆さんや、卜伝さんの弟子や義輝さんと藤孝さんが船酔いをしていたものの、弱音を吐かずに頑張っていた。


 どうも前回久遠諸島に行った時のお市ちゃんが原因らしい。幼子が海は楽しいと酔わなかったせいで、弱音を吐けない雰囲気になっていた。


 実際死ぬかと思ったと言っていた織田家家臣もいたんだけどね。どうしてもお市ちゃんのことが目立ってしまう。


 個人差があるので船酔いは仕方ないと説明したんだけどね。ただ佐治水軍の皆さんは厳しい航海を大きな失敗もなく乗り越えていて頼もしい限りだ。


 そして三日目の夜には大湊に到着している。


「無事のご到着、祝着至極に存じ奉ります」


「夜分遅くにすまぬの」


 すでに町が寝静まっていた時間であったが、大湊の町では見張りをおいてオレたちの到着を待っていた。実は大湊の会合衆には帰りが船であることと、義統さんと信秀さんが立ち寄ることは知らせてある。


 さすがに受け入れる側になにも知らせないわけにいかないからね。それに義統さんが伊勢神宮を参拝したいと言っていたので、事前に根回しもしている。


 到着して今夜の宿として案内された寺で会合衆のひとりがさっそく挨拶に来た。この人も起きて待っていたのかなぁ。


 夕食を用意してくれているようなので、数日ぶりに温かい食事を頂いてこの日は休むことになる。




「まだ揺れておるような気がするな」


 翌朝、義輝さんは卜伝さんの弟子の皆さんと一緒に鍛錬をしていた。朝の散歩がてらエルと様子を見に行くと外洋航海の厳しさに少し苦笑いを浮かべている。


「殿下には周防の一件の報告と無事に戻ったと知らせる使者を出しました。ここまで来れば大丈夫ですよ」


「そうか」


 小声で囁くように最低限の報告をする。周囲には彼の正体を知らない人はいないが、将軍様として扱わないのがルールだ。


「大内家があのようなことになるとはな……」


 義輝さんは陶隆房の挙兵に複雑なものを感じているようだ。守護代の謀叛など珍しくない。尾張だって、守護代家であった大和守家への信秀さんによる謀叛と言えなくもない。


 とはいえ義隆の父の代には京に軍勢を率いて攻め上り、事実上の天下人となっていた時期もあるほどの名も実もある大名だ。


 勘合貿易もその当時に権利が大内家に与えられたものなんだよね。


「明日は我が身ですよねぇ。戦で物事を変える世の中などなくなればいいのに」


「……そのようなことあり得るのか?」


 家臣に寝首を掻かれるということは、この時代ではよくあることだ。将軍家だって管領やら有力者の意向で追放されたり将軍職を追われることもある。客観的に見ると世も末だよね。


 ちょっと試しに戦で物事をと口にすると驚いた顔をされた。やはり戦を中心に考えているんだね。


「さて、どうでしょうね。出来ないことはないとは思いますが」


 一から十までこちらの価値観や考えを教えてもいいことはないだろう。特に義輝さんはいずれ将軍に戻るかもしれない人だ。


 自身で足利家と幕府の立て直しを考えても、生涯傀儡で生きることを選んでも戦はなくならないだろう。幕府を自身で終わらせることを選んでも。


 それでも戦のない世の中というものを、考えることはしてみてほしいと思ってしまう。もしかするといつの日か敵の大将としてオレたちの前に立ちはだかるかもしれないが。


 さてゆっくりと休みますかね。今日は一日大湊で休んで、明日伊勢神宮に行くんだよ。




Side:足利義藤


 大地がこれほどありがたいと感じ入るとは思わなかった。絶え間なく揺れる船の中では権威も武芸も役に立たん。気分が悪くなる者に師は、大いなる海をあるがままに受け入れよとさとされておったな。武芸が役に立たなんだわ、オレもまだまだ未熟だということか。


 一馬と大智が寺の宿坊に戻っていく。朝の散歩に来たのだとか。鍛錬もあまり人前ではやらぬらしい。


 それにしても……。かつて都にて将軍の後見までした大内家でさえ、家中の謀叛でいかがなるか分からぬとは。


 一馬ではないが明日は我が身とはまさにこのことであろう。


 なにも出来ずにただ怯えて謀をして地位に執着する。そんな己になるのが嫌なのだ。殿下には申し訳ないが、足利家はこのまま消え去るほうがよいのかもしれん。


「慶次ではないか。いずこに行くのだ?」


 さてオレも宿坊に戻るかと思うた時、人目を引くような派手な服を着て、人目を忍ぶようにいずこかに行こうとしておる慶次郎を見つけた。


「少し散歩にね」


「ほう、面白い。オレも行こう」


「塚原殿に叱られまするぞ」


 散歩か。こそこそ出掛けるくらいだ。なにを致しに行くのか興味がある。慶次郎はこの男には似合わぬ困った顔をして師の名を口にした。


 確かに師に迷惑はかけられん。オレはいいが、なにかあれば責めを負わされるのは師なのだ。


「ふむ、よい。行ってくるがいい。慶次郎殿よろしく頼む」


 止められるのを覚悟で慶次郎と散歩に行きたいと師に申し出ると、意外なことにあっさりと許可が下りた。


「ただし、刀は抜かぬこと。抜くは生死のきわのみ。それは必ず守れ」


「わかりました」


 信じられんと師を見ておるが、その真意はオレにはわからん。とはいえ与一郎は付いてくると言うて聞かず、また柳生新介殿も同行するという。


「はあ、バレておったのか」


 慶次郎はこれでは散歩にならんなとぼやくようにため息をこぼした。如何なる意味があるのかオレにはわからんが。


「やり過ぎるなということだ」


 新介殿は慶次郎のお目付け役か。この調子では皆に知られておるということか。


「おお、賑わっておるな」


 寺を出ると大湊はすでに働く者らで賑わっておった。遠くには黒い船が見える。大湊では見慣れておるのか、石山や周防のように騒ぎにはなっておらん。


 少しつまらなそうな慶次郎が先導する形で町を歩く。思えばこうして歩くことすら初めてのことだ。


 ああ、大工とはあのようにして屋敷や城を建てるのか。あっちの商人は随分と苛立っておるようだが、いかがしたのだ?


 面白い。面白いな。


「ねえ、遊んでいかない?」


「悪いな、また今度だ」


 途中で慶次郎は何度か遊女に声を掛けられておったが、オレやほかの者には声はかけられん。なにゆえだ?


「これはお武家様、何にいたしましょう」


「酒とつまみを適当に頼む」


 そのまま慶次郎は裏通りに入ると、一軒の料理屋に入り酒を頼んでおる。ここは酒が美味い店なのか?


「……なんだこれは?」


 いかほどに美味いのかと期待して飲んでみたが、薄い濁酒のようなもので全く美味くない。


「ありふれたちまたの酒ですぞ」


「これが酒なのか? 薄いではないか」


「下手なものを混ぜておらぬだけいい店ですな」


 なにゆえ、このようなものを飲みに来たのだと顔をしかめてしまったが、新介殿が少し困ったように笑いながら教えてくれた。


 民はこのような酒を飲んでおるのか?


「某も久遠家に仕官する前には旅をしておりましたが、此度のような旅は一度もございませんでしたな。菊丸殿はこの先、もっと厳しき日々となりましょう。なにか食えるだけでありがたいと思うのが当然で、武芸者というだけで襲い掛かってくる者も珍しくありませぬ」


 慶次郎はあまり興味がないのか、外を眺めながらひとり飲んでおる。一方の新介殿はオレを案じておる様子だ。


 自身の旅であったつらかった出来事を教えてくれた。


 これが、世の中というものなのか。




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