第657話・岩竜丸君、武田家を心配する
Side:久遠一馬
宴の翌日からは北近江三郡について話し合いが行われている。オレは例によって参加していないが、主導権は戦を仕掛けられて勝った織田にあるし問題ないだろう。
話し合いはすでに三日目に突入しているが、交易に関する交渉もあるので意外に時間が掛かっているというのが現状だ。
「一馬、西保三郎は疎まれておるのか?」
そんな最中、学校帰りにウチを前触れもなく訪れた岩竜丸君が唐突にそんなことを口にした。なにかあったのか?
「そんな話は聞いておりませんよ。御母上は御正室だと伺っていますし。なにかありましたか?」
「いや、見るからに暮らしが苦しいようなのが気になったのだ。武田は甲斐を治めておるのであろう? その割に……」
隣にいたエルも近くでお市ちゃんとお絵描きをしていたメルティもさすがに何事かと視線と驚きの表情を見せたが、岩竜丸君が言葉を選びつつ説明するとなんとも言えない顔をした。
見る人が見ればわかることなんだよね。西保三郎君。信玄の三男とその家臣の皆さんが体裁を保つのに精いっぱいであることは。そこまで困窮するほどでもないが、贅沢をすれば本国にいる人たちに怒られると質素倹約に励んでいる。
それを武士らしいと褒める人もいる。ただこの時代で上の身分の者が質素倹約に励むと周りが気を使うというのが現状だ。美濃や三河の一部の国人なんかは自分も貧しいから真似して質素倹約に励むと言っているが。
「私も行ったことがないのではっきり言えませんが、甲斐は山国ですからね。米の取れ高も多くなく、また冷害などが原因の飢饉も多いようです。それと数年前にあった地揺れの被害もいまだ残っていると聞きましたね。あとは信濃出兵と今川との戦の支度で楽ではないはずですよ」
甲斐は律令制では上国に部類する国で歴史ある地域だ。そもそもこの時代の他国の国力なんて機密扱いで知らなくて当然なんだよね。地図にしても正確性のない元の世界でいう古地図が現役でそこには山国である大変さも描いていない。
学校でもその辺は教えていると思うんだけどね。よそ様の国力まで正確に教えているわけじゃない。確か甲斐の石高は、史実の慶長で二十三万石ないくらいだ。しかもそれって甲斐にとっては基準値というより理想値に近いわけで、一昨年の地震で北条も大変だったが甲斐も相当被害があった。
武田は信濃の一部も領有しているが、それを踏まえても厳しいだろう。そもそも石高って単純に数値で判断出来ないんだよね。それで食べている人口とか考慮しないといけない。
武田はどう考えてもギリギリだろう。史実でもこの時期の武田は信濃で苦戦して厳しい頃だが、この世界では今川と敵対したことでそれ以上に追い詰められているからなぁ。
岩竜丸君は尾張しか知らないはずだ。大和守家の監視下の時は楽ではなかったようだけど、それでも食べ物に困るほどじゃなかったようだし
「そうか」
「それと、こちらの暮らしに合わせると、本国の者になにを言われるかわからないのでしょうね」
岩竜丸君はなんとも言えない様子で考え込む仕草をしている。
西保三郎君は尾張に来て以降、白いご飯を初めて食べたと喜んでいるんだとか。菓子も食べたことがないものばかりだというし、まあ甲斐の暮らしとは桁が違うからね。
歴史創作物だと家康をあと一歩まで追い詰めたことや、上杉謙信と川中島で何度も戦ったことで、戦国最強なんて言われることすらあった武田だが現実世界での実情は厳しい。
まあ信玄率いる武田家が強くなるのが史実に鑑みてもこれからという事情を考慮しても、歴史創作物のような絶対的な存在ではない。
負けたら飢えるという追い込まれた兵たちの強さはあるだろう。とはいえ国力は如何ともしがたいものがある。実際史実の武田も長篠の戦で負けて以降は衰退の一途を辿ったしね。
無論あれは信玄の跡を継いだ武田勝頼の家中での微妙な立ち位置も考慮しないといけないが。
現状でも織田は戦上手と言われる者たちによる武芸や知恵比べの時代から、経済と技術と物量による近代戦に移行しつつある。武田がいくら勝ったとて、さほど脅威には思えないんだよね。
「皆の衆、おやつでござる!」
「おやつなのですよ~」
なんとも言えない雰囲気をぶち壊したのは、おやつを持っている侍女さんたちを連れたすずとチェリーだった。
「これは馬鈴薯か。美味いな」
岩竜丸君も出来立てのおやつに一旦考えるのを止めたのか、一口食べて笑顔になる。今日は新じゃがの粉吹き芋だ。塩とバターをお好みでつけて食べる。
旬のものを楽しむ。ウチでもこんなおやつもあるんだよ。
「若武衛様にお出しするような上等な菓子ではないんですけどね」
毒見くらいしなくていいのかとちょっと思う。ウチに来て毒見した人いないけど。お供の皆さんも誰も疑うことなく一緒に食べている様子には少し不安になる。
「この芋は特別なものであろう?」
「そう言われれば、そうなんですけどね」
馬鈴薯。元の世界でいうじゃがいもだ。尾張だと高級品として知られている。安全保障の問題から販売や他国への持ち出しを禁じているからね。
生産は昨年までと同様に佐治さんのところと、今年からは同じ知多半島のほかの地域でも一部で生産を始めた。水野さんの領地で現地の国人や領民が問題ないところを選んで、試験的に作付面積を増やしたんだ。
じゃがいもと言えば決して高級品ではないが、ウチが独占しているので尾張だと高級品として見られているんだよね。凍み芋とかデンプンにして保存もしているが、正直現状では織田家とウチなんかが消費する分の生産で精一杯なんだよね。
ああ、領民も食べられるよ。八屋には卸して料理に使っているからね。八屋はもうウチの店だとみんな思っているから、特に遠慮する必要もないし。ほかにもウチが間接的に関わっている旅館や飲食店には卸している。
「もしかして武田より久遠家のほうが裕福なのではないか?」
「ウチも大変なんですよ。海は危険ですので。ただ利得はいいと思いますよ。いかにして稼ぎ、小さい土地で多くの収穫を得るかということを試行錯誤していますので」
すずとチェリーはお市ちゃんとメルティと一緒に粉吹き芋を頬張っている。その様子に岩竜丸君が今更とも思えることを口にした。
多分武田よりは裕福だよね。オーバーテクノロジーで秘匿している利益を除いても。抱える人口も違うし。
「奪うだけでは駄目だということか」
「それもひとつの手段ですけどね。自分のところで諸々の利得をあげないといつまで経っても変わらないので」
季節はもうすぐ夏だ。井戸で冷やした麦茶が粉吹き芋とよく合う。芋本来の味をそのまま楽しめるという意味では粉吹き芋っていいね。
ホクホクとした芋を熱々のまま頬張る。芋の甘さがわかるのがいい。僅かな塩で更に芋の味が引き立ち、バターを付けると一気に料理とも言える味に変わる。
この素朴な味、結構好きなんだよね。
岩竜丸君は芋をお代わりしつつ、将来へと思いを馳せているのかもしれない。
頑張ってほしい。未来は子供たちの持つ希望が作り上げるんだ。斯波家だからと言って過去に囚われる必要などないんだから。
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