第590話・浅井待つもの

Side:稲葉良通


 関ケ原では早くも数千の美濃の民が賦役を行なっておる。これが織田の力か。一度ひとたび声をあげると、あっさりと人が集まってきおる。


 尾張から大垣に運ばれた銭や物資が続々とここに運ばれておって、天幕を強固にしたようなゲルとか申す、布の家にて早くも町が出来ておるような勢いだ。


 商人の動きも早い。尾張、美濃、伊勢の商人が集まり、あれこれと必要な品を売っておる。


「殿、陣中じんちゅうめしの用意が整いました」


「そうか。皆を休憩させるのだ」


 わしは今須宿で賦役の警護をしておる。浅井が攻めてくるならば北国街道の裏を通り関ケ原に行くか、ここ今須宿を通るしかない。まだ雪があるこの季節では北国街道の裏のほうは通れまい。


 浅井が奇襲を仕掛けてくるならば、おそらくここだというので任せてくれた。先陣を頼んだのだが、そもそも今の織田では野戦になるかも怪しいのはわしもわかる。


 三河の戦でも織田の先鋒隊は強固な陣地で戦い、本隊の到着を待っておった。さらに鉄砲と弩という飛び道具が山ほどある。


 野戦になる前に敵が崩壊してもおかしくないからな。


 ここ今須宿では浅井が来たら、領民を逃がしつつ関ケ原まで撤退することになっておる。少数ならば好きにしてよいということだがな。


 今はそのための野戦陣地を造っておるのだ。堀を掘って、柵を設けて敵を迎え討つつもりのようだ。


「殿、夜の方様、もうじき視察に参られるそうです」


「そうか。出迎えの支度をせい」


 夜の方殿。久遠家の奥方で名をウルザ殿という。その陽に焼けた肌から夜のようなお方だと言われたことが由来とも、闇夜に紛れて素破を率いておったので呼ばれるようになったとも言われておる。


 ここ関ケ原の大将になる。三河での活躍は知っておるが、まさか女の身で大将とするとはな。これも織田のやり方ということか。


「稲葉殿、いかがですか?」


「万事抜かりなく」


「そうですか。そろそろ浅井も気付く頃、少数での奇襲に注意をお願い致します」


「はっ、お任せを」


 夜の方殿は多くの護衛と共にやってくると、賦役の状況を確認しておる。女如きとまでは言わんが、まだ若い娘なのだがな。


 とはいえ差配は絶妙だ。並みの武士ならば清洲の殿にうかがいを立てたくなることまで己で判断してやらせておる。それだけ信頼が厚いということなのであろうな。


「それと近江の商人が、賦役の現場に集まってものを売っておりまするが……」


「暴利を貪ることをしない限りは構いませんよ。それにここは野戦陣地です。浅井に知られても構いません」


 ひとつ気になることは、昨日あたりから近江の商人が今須宿の賦役の現場にやってくることか。だがこれも気にすることすらないとは。


 もっとも必要なものは尾張や美濃の商人が売っておるのだ。さほど大きな儲けはないようだが。


「浅井が来ても深追いだけはしないようにお願い致します」


「心得ております」


 清洲の殿は抜け駆けを嫌う。揖斐北方城での戦の際には、抜け駆けをしようとした者たちが死罪となったことは美濃でも知られておる。ここを任される際にも抜け駆けをしないことを条件に任されておるのだ。わざわざ抜け駆けをしようとは思わん。


 とはいえ、戦が始まれば抜け駆けなど珍しくはない。夜の方殿はそこに頭を悩ませておるようだな。


 だがこれで父と兄たちの無念をやっと晴らせる。甥、斎藤新九郎の奥方は浅井家の女。その子、喜太郎は浅井の血を引くと同時に、わが稲葉家の血も引いておる。


 父と兄たちの無念も忘れるべきかと思うておったが、向こうから絶縁してくれたとは幸いであった。


 喜太郎は本来ならばわしが守ってやらねばならぬのだ。清洲の殿は情に厚く、美濃も本気で守る気概がある。ここで働かずしていつ働くのだ。


 浅井久政。その首、わしが獲ってやるわ!




Side:六角定頼


「さすがは織田というところか」


 織田が関ケ原に城を築いておると知らせが参った。しかも一か所ではないというのだから驚きだ。浅井相手ではこれ以上ない策であろう。


「浅井の動きをいいように使われましたな」


 知らせを聞いた蒲生藤十郎も思わず渋い表情をした。あそこに城を築かれると近江としてはほん痛手いたでだ。まだ東海道があるとはいえ、東山道を織田に支配されてしまう。東海道とて伊勢の海に久遠がおる。これでは詰んでおるのと変わらぬ。


「御屋形様、よろしいのですか?」


「いいも悪いもあるか。美濃でなにをしようと織田の勝手だ」


「然れど……。浅井を呼び出して織田への馬鹿げた手向てむかいを止めさせたほうがよいのでは?」


 六角家としてもいささか面白くない。だが近江を攻める気がない以上は、城で守るのは常道だ。家臣の間には余計なことを仕出かした浅井久政を隠居させてしまえという者すらおる。


 浅井の動きはわしの言葉を無視した勝手なものだ。見方によっては我が六角家をも軽んじておるとも言える。家臣たちも面白いはずがない。


「然れど、まあ、織田はよく銭が続きますな」


「確かに、三河の戦、蟹江の湊に清洲の城と町の普請にと恐ろしいほど銭を使っておる」


 織田を侮る者は少なくともわしの周りにはおらぬか。三雲のように逆恨みしておる者はおるがの。


 織田はここまで読んでおったのか? あり得るな。浅井が怒ればそれを口実に関ケ原に城を築いて美濃を十全じゅうぜんに制する気か。困ったことに六角家には特に問題はない。現状ではな。


 織田は当初からこちらには筋を通しておった。今回の件もわしがもう少し動いて、浅井を押さえておればよかっただけのこと。浅井で織田を試すなど、つまらぬ欲を出したのが間違いであったか。


「御屋形様、そろそろ浅井の扱いをはっきりさせるべきでは?」


 家臣たちはそんな織田よりも浅井を問題視しておる。臣従をすると言うておきながら朝倉とも繋がり、勝手に織田を敵に回す。もともと北近江と南近江は仲が悪いのだが、それに加えて浅井の勝手を許すことに家中は不満が多い。


 三雲も現状で浅井と共に織田を叩けと騒がぬだけ分別がある。然れど従うと言うたはずの、浅井の勝手な振る舞いには怒りを覚える者も多いようだ。


「左様。織田がこれを機会に北近江を攻めてもおかしくありませぬぞ」


「いっそ浅井が御屋形様のめいに背いたことを口実に、織田と示し合わせてこちらも攻めては? 織田としても浅井が本腰を入れて攻めてゆかねば助かりましょう。こちらも留守の城を奪ってしまえば、浅井には行き所がなくなりまする」


 家臣たちは早くも浅井討伐を口にする者もおる。とはいえそこまですれば朝倉も黙っておるまい。織田、朝倉、六角と動けば、三好も動きかねん。よほどうまくやらねば畿内から関東までの争乱となるぞ。


 今の畿内から関東までの争乱を押さえておるのは、我が六角家と織田なのだ。下手に動けば誰も止められなくなる。織田も決して争乱は望んでおらんはずだ。


「その件はわしに任せてくれぬか? 浅井を潰すなどいつでも出来る。とはいえ越前の朝倉や加賀の一向衆に付け入る隙を与えるわけにはいかん」


 所詮しょせんは浅井の後始末で織田と朝倉とは話さねばならん。騒乱となるのは阻止せねば。あと若い上様がこの件で余計なことを言いだしかねん。そちらも根回しが必要か。


 まったく浅井の愚か者め。余計なことばかりしおって。


 先代が好き勝手して上手く生き残ったからと言って、己らも生き残れると考える愚か者が。


 なんとかせねばならん。なんとかな。



 


◆◆

稲葉良通。稲葉一徹のこと。


六角定頼。管領代。南近江の大名。

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