第587話・抑止と変わる織田家
Side:久遠一馬
信秀さんは西美濃に関ケ原の賦役の命令を出した。無論正式に臣従している者たちに限定してだ。大垣の金生山は少し前から賦役を始めていたが、大垣と違い関ケ原は南北を山に囲まれているので西美濃から人を集めないと足りないんだ。
ウチでも賦役で働く人たちの仮の住居となるゲルを送ることにしたし、硝石や弩の矢などはウチでしか扱っていないので多めに送ることになる。
輸送は兵糧や賦役の費用など織田家から送る物資と一緒に、馬借という輸送業者に頼むことになる。西美濃に輸送の脅威となる勢力はいないしね。
「ええ、いいわ。そのまま焦げないようにお願いね」
「はい、御方様」
この日、ウチの屋敷では甘い匂いが漂っていた。お菓子を作ることも珍しくないのでおかしなことではないが、台所にはエルを中心に女衆が集まって大量の小豆を煮ている。
「羊羹を兵糧とするとはな」
甘い匂いに釣られたんだろうか。信秀さんと信長さんとお市ちゃんの親子が、揃ってその様子を眺めていた。相変わらず昼時になると来るんだよね。殿様に、若様のふたりとも。今日はお市ちゃんと一緒に来たらしい。
信秀さんなんて、今や全盛期の六角家に並ぶ大大名なんだけど、家臣の家の台所で羊羹作りを見物しているよ。
「食感など変わりますが、数年は確実に持ちますよ」
エルたちが作っているのは信秀さんも信じられなさそうに口にした通り羊羹だ。実は不破さんのところに送る兵糧の目玉になる品だ。
羊羹は腐らない。元の世界では昔から言い伝えられていたことだ。食品衛生なんかがうるさい時代には消費期限があったが、昔ながらの製法で作った羊羹は砂糖の比率と適正な保管状態さえ気を付ければ腐らない兵糧になる。
栄養もあるし、元の世界では防災用の非常食にも羊羹があったほどだ。
エルはこれを大量に作って兵糧として不破さんのところに送ることを計画した。ここだけでは足りないので、牧場の孤児院や津島や熱田や蟹江の屋敷でも羊羹を作っている。
「銭がかかるな。いいのか?」
「織田の底力を美濃や畿内に見せる、いい機会ですからね」
信長さんは最近文官仕事をしているせいか、作る量とその費用を頭で計算したのだろう。顔色が悪く見える。
関ケ原の城と砦もそうだけど、この羊羹も戦の対策というよりは戦が起きないようにする抑止力なんだよね。
単純な戦国クオリティで費用対効果を考えると、領民を集めて普通に戦をするのが一番費用対効果もいいはずだ。なにせ領民の生命は無償と算定されるから。もっとも費用対効果より重要なのは時間という有限なものなんだけど。
織田は兵糧にまで砂糖菓子を用意する力があると見せるだけで、影響は計り知れないだろう。特に最近臣従した美濃衆や美濃の中立勢力に対してはね。
武力に怯えて臣従するというのはプライドが許さないだろうが、臣従すればこんなにいいこともあるよと知れば変わるかもしれない。織田はこちらから臣従を誘いはしないが、臣従した者を粗末に扱っていないからね。
不破さんの領地の防衛は美濃を守ると同時に、新参の領地も織田は全力で守ると内外に示す意味もある。
「お待たせして、申し訳ございません。昼食の支度が出来ました」
今日のお昼は煮込みそうめんだった。エルは羊羹作りで忙しいので一緒には食べないようだが、ジュリアやすず、チェリー、河尻さん、信秀さんたちは一緒の昼食だ。
「ふー、ふー。はい、姫様」
「うん。おいしい!」
お市ちゃんの乳母さんが、小鉢に取り分けた煮込みそうめんをふーふーと少し冷まして食べさせている。ちなみに乳母さんも一緒に自分の分を食べているけどね。
この時代的にはあり得ないことだが、ウチの習慣として食事はなるべくみんなで食べるのが家訓だからね。ウチでは一緒に食べている。ある意味一番役得な人だね。
具材には鶏肉や長ネギが入っている。長ネギが旬だからね、この時期。体も温まるし美味しい。
「所領を召し上げた者の様子はいかがだ?」
「悪くないね。あまりやる気がないのもいるけど、そこはこっちでしごいているよ」
信長さんは煮込みそうめんを食べながら、直轄領にて直接召し抱えた武官についてジュリアに問いかけていた。
直轄領の土地の召し上げの交渉は終えている。一言で言えば銭で解決したということだろう。残るは惣という村単位で自治して暮らしている領民への説明と、新しい統治の仕組みの構築になる。
正式な発表には領民への説明などが必要なため、もうしばらく時間が掛かるが、その前に文官と武官に分けた者たちの訓練や教育がすでに始まっているんだ。文官候補は清洲城で統治の勉強をしていて、武官候補は信長さんの判断でジュリアに預けているんだよね。
というかジュリアが剣術指南役になって以降、ウチの屋敷に武闘派の人たちが出入りするようになった。稽古の後に一杯やるかとジュリアがウチに連れてくるからさ。
まあ以前はあまり接点がなかった人たちなんでいいんだけど。
「こう言ってはなんなのですが、武功が無くても生きるのに困らなかった者もおります。立身出世など諦めておった者たちは、それなりでいいと思うておるようでございます」
ジュリアを補足するように武官候補の現状を河尻さんが報告する。この人も有能なんだよねぇ。警備兵を信秀さんの直轄にした影響で新たに設けたウチの軍事部門で武官の指導や統率もしてくれている。
資清さんや望月さんが忙しいからね。それに輪を掛けてエルやジュリア、セレスが忙しいのを理解して上手く働いてくれているんだ。さすがに守護代家の元家老ともなれば、なにをやらせても卒なくこなしている。
「尾張は裕福だからな。致し方あるまい」
信長さんは報告に少し面白くなさげに黙ったが、信秀さんはそんなものだろうと冷静な反応をした。
尾張は甲斐や信濃のように放っておくと飢えるような土地ではない。水害が多くて大変な地域ではあるが、武士ともなれば生きるのに困らないからね。特に信長さんの領地内が所領だった人たちは所領の場所も悪くないので尚更そうだろう。
満足に食えると出世欲とかないというか向上心が不足するが、あまり出世欲があり過ぎても扱いにくいからね。その辺のことは経験豊富な信秀さんは理解しているみたい。
「教育が足りないのでござる」
「ビシバシとしごいているのです」
ああ、武官の指導に人手がほしいということで、すずとチェリーが手伝っているらしい。
このふたりも武闘派の人たちに評判がいいんだよね。領内の盗賊退治とかしていると、該当領地や近隣の武闘派の人たちが積極的に手伝ってくれるらしい。
というか武闘派の人たちって、基本的に自領で他人がなにかをするのを嫌がるんだよね。それがすずとチェリーのふたりにはみんな何故か協力的なんだ。
それに関連して今年の正月には信秀さんから、すずとチェリーに広域警備の命令書が出された。
後付けではあるが、すずとチェリーの盗賊退治って法的根拠がなかったんだよね。織田一族であるし、誰も反発しないのでいつの間にかそれが当然となっていたが。
エルの進言でふたりを警備兵の所属として、広域警備のための運用試験として命令することにした。
セレスの下にふたりを置いて、広域警備兵の創設と指揮がふたりの仕事となる。
反発しそうな人たちが協力しているからね。信秀さんも笑っていたくらいだ。まあこの時代ではすずとチェリーのように、先陣を切って戦う人が好まれるという事情もあるみたいだけど。
広域警備兵に関しては、すずとチェリーのおかげで認知と必要性をみんなが考えてくれている。
史実の佐々成政の兄になる佐々兄弟のように、兼業で構わないなら警備兵で手伝うという人も出てきている。
職業軍人という概念がないので、そことのすみ分けは今後の課題だね。現状では織田家中のみんなが新しい織田家にて、自分の居場所を積極的に作ろうとしているだけで有難い。
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