第582話・とある蟹江の領民

Side:とある蟹江の領民


 ドーンと腹に響く音が聞こえた。湊に久遠様の船が来た音だ。船が湊に入る前に金色砲を撃つ習慣があるようで、ここではよく聞かれる音になる。


 この音で荷降しを生業としている連中が、湊に走っていく姿と、新顔しんがおらしい他国の商人や水夫かこ供があたまかかえてちじこまってふるえる姿も珍しくない。そういやぁ、久遠様の本性ほんしょう雷天らいてん水海神すいかいじん様だって言う奴もいたなぁ。


 湊には近隣の船は元より関東や西国、時には明からの船も来る。畿内から来る連中の中には日ノ本一の湊だと口にしていた奴もいたな。


 一方、町の中では、大工が屋敷や町家に長屋を建てている姿があちこちで見られる。伊勢・美濃・三河は元より、遥々畿内から来た大工も近頃ではいるそうだ。


 尾張は飯と酒が安くて美味い。畿内から来る連中はそこに驚く。なんでだと時々聞かれるが、わしにわかるわけがない。ちょっと前までは海で魚を獲って暮らしていたんだからな。


「ここは、なにをするところなんだ?」


「さあ?」


 わしが働いているのは、市場というものを建てている普請場になる。もっとも、働いているわしを含めてほとんどの奴らは、なにをする場所なのか知らないがな。


 蔵がたくさんあるし、それが関係するのはわかるけどな。


「飯だぞ!」


 昼頃になると、カンカンカンと鍋を叩く音と共に飯が貰える。今日は水団らしい。


「うめえな」


 麦の粉を練って汁で煮たものだ。魚も入っていて味噌で味付けしてあって美味い。賦役とはいうが、この飯と銭を目当てに働いているんだ。


 争うように食べているのは、たいてい新参者だ。飯は人数分があるからな。


 北伊勢から来ている奴の中には、真面目な働きで賦役差配のお武家様に許しを貰って、他国からの奴らに当てがわれた人足宿舎ってのを出て、尾張者と同じ町長屋に住んでいる奴もいる。生まれの村に戻っても居場所がないそうだ。中には尾張の女と所帯を持ってしまった奴もいる。


 北伊勢に残っている奴の中には、若い奴が帰ってこなくなって怒っているとも聞く。とはいえ残っても食っていけねえらしいしな。


 賦役は夕方になり、今日働いた分の銭を貰うと仕事は終わりだ。


「ねえ、遊んでいかない?」


 この頃になると町には遊女や客引きがあちこちにいやがる。若い連中は、そのまま貰った銭を使っちまうのも珍しくねえ。


 貯めといても宿舎や長屋だと盗まれることも珍しくねえからな。仕方ねえが、それでも織田様久遠様が目を掛けていなさる湊だ。悪さした奴が捕まるのも珍しくねえ。


「父ちゃんお帰り!」


「おう、ただいま」


 わしは昨年、生まれ育った村を出てここに越してきた。生まれ故郷では村の年寄りが賦役で得た銭を村で使うと言っておきながら、己の飲み代にしていたんだ。


 その年寄りは村から追放されたが、銭は戻ってこねえ。それをきっかけにわしは村を出た。近頃じゃそんな連中が、ここ蟹江には多い。


「おお、きょうもご馳走だな」


「魚が安かったんですよ」


 子供たちに囲まれて家に入ると、かかあが夕飯の支度をしていた。新鮮な魚を焼いたものがひとり一匹食べられて米の飯も食える。味噌汁はもやしの入ったものだ。今日はそれに煮物もある。


 ここに来て、こんなご馳走が珍しくない暮らしになった。嬶はお産がちけえから仕事をしてないが、それでもこんな暮らしが出来るようになったんだ。


 もう村に戻ることはないだろうな。っさは人手が足りなくなったと怒っているが、ろくな飯も食えねえ暮らしは嫌だ。


 明日も頑張ろう。家族のために。




Side:久遠一馬


「正気かと疑いたくなるね。浅井に従って美濃に攻めてくるのか?」


 六角家を放逐された土岐家旧臣が浅井家に集まっているらしい。美濃に残る親戚から織田家に報告があったようだ。


 近江の方が浅井に帰りたくないと拒否したことは、尾張や美濃ではそれなりに噂となり流布してしまったようだ。それが浅井家にも知られたらしい。


 これはエルが虫型偵察機での監視体制から得た情報だが、浅井久政は激怒したようだ。


 浅井家はその関係で土岐家旧臣に声を掛けて、美濃の情報を集めているようだね。さすがになんの策もなく攻めてはこないか。


 しかしそこまですると、攻めないと家中が騒ぐだけだろうに。大丈夫か? 浅井久政。


「美濃に帰りたいのでございましょうな。近江でも奴らは、主家も領国も守れなかった無能者としてあざ笑われておったようでございます。ここらで手柄を立てて帰参したいのだと思いまする」


 少し考え込んでいると、資清さんが土岐家旧臣の気持ちを代弁してくれた。


 そうなんだよね。六角内の反織田の連中は土岐家旧臣を煽っていたが、全体として連中は馬鹿にされていた。帰りたい。そう親族に手紙を出した者も確かにいたという報告がある。


 とはいえあれだけ逆らった連中を許して帰参させることは出来ないしね。戦で功績をたてて許してもらうというのが筋書きらしい。


 織田と戦をして織田の領地に帰るというのは、個人的にはどうかと思うが、この時代だと功績さえあげればなんとかなっちゃうんだよなぁ。


「遠山家も安藤家も稲葉家も自ら臣従する気はない。これは面白くなるわね」


 メルティはくすっと笑って美濃の情勢を口にした。確かに美濃の状況も落ちついてきたんだよね。一昨年くらいから臣従を申し出てくる国人や土豪たちがいたが、残るは斎藤家と共に臣従をする者くらいだろう。


 あとはメルティが言ったような中立の者たちになる。


 美濃三人衆は完全に割れたね。氏家さんが早々に臣従した時に動かなかったことで、それより下の立場になるのが嫌なんだろう。


 そもそも織田は臣従しろと言ってないしね。頼まれてもいないし、もちろん脅されてもいないのに臣従など必要ないというのが、中立派の主要な意見だ。


 遠山家は同盟を求めていたが、斎藤家の臣従を優先していて話は進んでいない。斎藤家の臣従よりも優遇されるはずもないし、遠山家も困っているだろう。


 臣従と言えば松平宗家もまだ家中で揉めている。先代の清康を知る世代は織田に臣従することに抵抗があるらしいし、そもそも織田は一時の勢いがあるだけだと考えている人も多いからね。


 ただ松平広忠は軽はずみな行動をしないで、根気強く家中をまとめようとしている。浅井久政と比較すると人物評価は高く、上手くやって欲しいと思えるし、少しずつでも成果が出ているように見える。


「浅井に協力するかな?」


「それは難しいんじゃないかしら。そこまで愚かではないわ」


 浅井が攻めてきて、中立の美濃武士がそっちに味方するという展開も考えておくべきかと思うが、メルティはその可能性を否定した。


「六角も強かだね」


 そうそう仲介を頼んだ六角は浅井の内情と動きを、対価も要求せずに織田に教えてきている。しかも必要とあらば助力をするとまで言ってきたのは少し驚いた。


「六角家はあそこを緩衝地帯として残したいのでしょう。言い換えれば織田が北近江を攻め取ることは阻止したいのかと思います」


 六角の思惑を教えてくれたのは、相変わらず編み物をしているエルだ。


 織田としては浅井相手に六角と共闘なんていらないんだが。ただまあ浅井は六角に従っているが、家臣とまでは言いきれない。従属大名というか従属国人なんだよね。扱いが。北近江には守護家である京極家が、ちょっと前の斯波家みたいな感じで、しぶとく残っているしさ。


 浅井の北には朝倉や加賀の一向衆もいる。織田にとって六角は盾であるように、六角にとって浅井は盾なんだよね。随分と穴だらけの盾だけどさ。


 しかしさすがは管領代様だね。浅井を骨の髄まで利用する気か。浅井の仕置きで織田との関係を強化して浅井シールドは柱に括り付けても残すと…。えげつない。痺れも憧れもする気はないけど、戦国の為政者はかくあれかしだよねぇ。


「ウルザとヒルザに不破殿のところに視察に行ってもらうか。八郎殿、支度をお願いね」


「はっ、お任せを」


 戦が起こる可能性が高まった以上対策が必要だ。とりあえずウルザとヒルザには美濃の国境である不破さんのところに行って視察してもらおう。


 地図とかあるし、ウチは秘匿しているけど人工衛星や虫型偵察機もある。とはいえ現地に足を運んで視察して準備をする必要もある。


 不破さんには信秀さんに頼んで手紙で知らせてもらい、許可を貰うことも必要か。


「ついでに不破の関の再建とあの地域の守りに関しても考えるべきね」


「浅井を口実にか?」


「ええ」


 ウチも戦の支度をする必要があるなと考えていたが、意味深な笑みを浮かべたメルティがまたどさくさ紛れに不破の関の再建を言い出した。


 確かに不破の関の防衛は考えていたんだけどね。みんなに利用されまくる浅井が少し可哀想になるね。




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