第446話・久遠家の結婚式・その七

Side:松平広忠


 ついに那古野まで来てしまった。本音を言えば、今川が許可を出すとは思わなかった。その一言に尽きる。


「久しいな、次郎三郎殿。松平家の方々もよくぞ参られた」


 清洲の手前の那古野に着いたわしのもとに案内役としてやってきた者に驚いた。案内役は緒川城の水野藤四郎殿だ。離縁した妻、於大の兄だ。ただ、驚いたのは水野殿にではない。


 一緒に案内に来ておる幼子に、わしも供の者も言葉を失う。


「松平竹千代にございます!」


 那古野は町外れでさえも、まるで祭りのような賑わいが聞こえてくる。しかしそんな喧騒とはまったく違う静けさが、わしらと竹千代の間にはあった。


 本当に立派になったな。竹千代。


「立ち話もなんだ。ついて参られよ」


 言葉が出なかった。二度と会えぬ覚悟で一度は見捨てたのだ。それが斯様かような形で会えるとは。


 わしらは水野殿の案内で那古野の町に入る。


 町は久遠殿の婚儀で沸いておった。あちこちに屋台が出ており、領民は祝いだと盛んに浮かれ舞い上がっておる。これが尾張の町か。


「婚儀まではまだ時がある。少し休息する場所を用意した」


「ここは……?」


 今はまだ昼前だ。遅れてはならんと余裕を持ってきたが、水野殿が案内したのは那古野城ではなく城下の屋敷だった。


 供をしてきた者の幾人かは、その扱いにまゆひそめておる。軽んじられたと思ったのであろう。


 だが、屋敷に入るちゅうもんろうかまちが見えるとその者たちの表情が固まった。


「ようこそ、おいでくださいました」


 出迎えたのは離縁した元妻の於大だった。そうか。ここは於大と竹千代の屋敷なのか。


 深々と頭を下げる於大にわしは掛ける言葉が出なかった。於大は水野家との同盟が破綻すると帰したが、決して望んで帰したわけではない。竹千代の母なのだ。


「本来は松平殿をおひとりになど出来ぬが、親子だからな。我らは席をはずそう。あまり時はないが、夕刻までゆるりとされよ」


「待たれよ。これは弾正忠殿もご存知なのか?」


 屋敷に上がると、水野殿はわしと竹千代と於大の三人にするべく取り計らってくれた。だが、いいのか? このようなことをして。織田殿は知っておるのか?


「当然、殿のご意向をんでおる。そなたはわしを恨んでおるのやもしれぬな。だがな、尾張におる間は過ぎた因縁は一旦忘れて、織田をよく見聞きすることを勧めるぞ」


 三河から連れてきた供の者たちも、この光景に大人しく別室に向かった。


 水野殿とは近頃になり幾度か文をやり取りした。本證寺の後始末の件で多少の協力が必要だったのだが、関係の修復も必要だと織田も考えたのだろう。


「水野殿。わしは恨んでなどおらん。家を守るためには仕方のなかったことだと思うておる。此度のこと本当に感謝する」


 水野殿は言葉少なくご自身も別室に行こうとするが、わしはそんな水野殿にはっきりと言わねばならん。


 恨んでなどおらん。織田のことも水野殿のこともな。


 織田にしても斯様な真似などせずとも、織田に従えと言えばいいものを。少なくとも今川ならば、そうしたであろう。


「父上……」


「竹千代……。於大……」


 周囲では本当に人の気配が消えた。しかし、よく無事に生きておった。


 涙が止まらぬ。わしも竹千代も。於大も。


 そうだ。わしは多くは望まなかったのだ。父の領地を取り戻して、親子仲良う暮らすことが出来れば……。それでよかったのだ。




 そのままわしは竹千代と於大から尾張での暮らしを静かに聞いておった。


「そうか。久遠殿とはそのような御仁か」


 竹千代の話は、まるで夢幻のようだった。


 織田が里見と海戦を行なった噂は聞いておったが、まさか竹千代が関東にまで行って、久遠家の南蛮船で里見相手の海戦にまで参戦して、元服もせぬうちに初陣を済ませておったとは知らなかった。


 鉄砲を自身で撃って、盗っ人紛いの敵兵を倒したと、誇らしげに語る竹千代に驚き、北条の嫡男と親しくなったとも聞いて信じられぬ思いだ。


 そしてなにより興味深いのは竹千代から見た久遠殿だ。あちこちにと連れ立ってくれるばかりか、織田の嫡男が近習としての面目をよわい至らぬ身で保っておるのも、久遠殿が気遣い致す故。そのあかしの裏付けに、菓子や珍しき食べ物をよく頂いておるとは。


 領民に慕われておるとは聞いておったが、同時に武家にはいささか厳しいとも聞いておったのだがな。


「武家は領民を守り食わせるのが役目か」


「はい。久遠殿はそうおっしゃっておりました」


 そして久遠殿の考えをわしは初めて聞いた。無論、噂としては聞いておったが、織田ではすでに学校でそのために学問を教えておるとはな。


 三河にて育てば、竹千代は左様なことを考えることはなかったのであろうな。三河では、いかにして税を集めて領地を広げるかを考えるばかりだ。


 久遠殿は生まれながらに恵まれた御仁なのだなと、思う気持ちがわしにはある。だが、左様なことを羨んでも仕方ないのも事実。しかも、それに驕ることなく、誠実に織田に仕えておる様子。織田は、久遠殿を信じ、新たな試みを次々と行っておる。


 松平では織田には勝てん。わしは本心から悟った。もはや、松平がいかにあがいても、織田には勝てぬ。




Side:久遠一馬


 今夜の夕食はカレーだ。


 婚礼のお披露目でカレーなんておかしいとオレは思わなくもないが、そもそもこの時代ではカレーは未知の料理。天竺料理なんて言ったせいで、信長さんの中では縁起物の御馳走という扱いになっていたらしい。


 無論、料理はそれだけじゃないんだけどね。ほかにも料理はたくさんあるよ。


 みんなの今日の衣装は普通の白無垢だ。対外的なメンバーが集まっているからね。オーソドックスが一番だろう。


「それにしてもなんと明るいのだ」


 ケーキも食べて宴会が始まると、驚きの声をあげたのは北畠具教さんだった。


 今回の婚礼の儀の宴では、新しい試みが幾つか取り入れられている。照明もそのひとつだ。


 従来の蝋燭や行灯のほかに、オイルランプをいくつも広間の天井からぶら下げているんだ。オイルランプは船舶用にウチで使っていたものだ。


 結果としてこの時代の日ノ本としては、信じられないほどに部屋が明るい。


 ランプは船で信長さんたちに見られていたからね。この際、照明として取り入れてみたんだ。


 来賓は北条家からも来ている。里見家との海戦で共に活躍した玉縄衆の北条綱成さんがわざわざ来てくれた。


 午後に少し話をしたが、北畠家と松平宗家からも人が来たと教えると驚いていたね。織田は安泰だと北条の人たちに知ってほしい。


「初めまして、久遠一馬と申します」


「松平次郎三郎広忠でござる。本日はおめでとうございます」


 あちこちの来賓に挨拶していくが、早めに挨拶に行ったのは広忠さんのところだ。


 長年の関係からか少し浮いているからね。彼と北畠具教さん以外は、織田の行事に頻繁に呼ばれて、それに応じて来てくれているから、すっかり顔なじみだからね。


「ありがとうございます。三河は落ち着いてよかったですね。加賀のようになるのではと心配しておりました」


 ただ、聞いていた以上にすっきりした表情をしている。


 信秀さんが竹千代君と於大さんと会う時間を設けたことで、落ち着いたのかな?


 あれは完全に信秀さんの考えだ。オレとエルには事前に相談されたから賛成したけどね。


『明日は我が身だからな。恨みはなるべく消しておきたい。根切りにするわけにもいくまい?』


 信秀さんは少し笑って、そう言っていた。


 すでに海道一の弓取りは信秀さんではなどと囁く人すら最近はいる。オレたちが来てからでも弾正忠家は織田大和守家・服部家・土岐家・里見家と戦ってきたが、昨年の本證寺を相手あいてる戦は別格だったとの評判だ。


 戦で圧倒的な武を示したことで信秀さんの評判は更に上がった。それなのに驕ることなく、松平宗家の取り込みを慎重に考えている。


 無論、ただの善意だけではない。飴と鞭の使い分け。とりわけ飴の使い方は本当に凄い。


 エルも言っていたが、今回の竹千代君と於大さんとの対面で織田が失うものはなにもない。これで広忠さんが逆恨みしても、特に問題はないのだ。せっかく対面させてやったのに恩知らずだと、切り捨ててしまえば良いだけだ。


「織田でも、左様なことに為ったかもしれぬとお考えか?」


「当然です。どこかでひとつ間違っていれば、そうなっていましたよ」


 特に共通する話題もないから三河の件を話したが、広忠さんには驚かれた。


 三河は信秀さんや信長さんを始めとして、織田家首脳陣とエルたちと一緒に苦心した結果なんだ。エルでさえも当面の最大の懸案として、同じ一向宗である願証寺との友好維持や三河の統治などで散々手を打った結果だ。


 松平宗家よりは余裕があるとはいえ、とても楽観視できるような状況じゃなかった。


 ただ、外から見た感想は広忠さんの表情が物語っているんだろうね。




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