第401話・三河の現状
Side:本證寺領の農民
「おい! 聞いたか!?」
「なんだよ。忙しいんだ。くだらねえ話ならあとにしてくれ」
川が氾濫して近隣の多くの村の田んぼが駄目んなった。ただ幸いだったのはこの村は無事だったことだ。もともと米があんまり育たねえ村だから暮らしが苦しいのは変わらんがな。
この村でも
ついこの間までは……。
わずか三つ先の村が松平様から織田様の領地になったのはいつだったか。
最初は同じ苦しい暮らしだと親戚が愚痴をこぼしておったが、何時の間にか愚痴が聞かねえようになった。向こうは夏と冬には賦役で飯が食えて銭もくれるらしい。
羨ましい。この村の
「逃げた奴らが織田の兵として働いてるってよ! しかもだ!! 刈り田して捕まった奴まで兵として働くことで許されたって言うんだ!! おかしいだろ!!」
ただ本音の違う奴もおる。
興奮した様子でやってきたこの男だ。仏様が一番の男だ。なによりも仏様が先に立ち、村の決め事にも素知らぬ様子で、仏様ばっかりか坊さんたちの言葉でさえなんでも信じる男だ。
ちょっと前から仏様をおろそかにする織田様の領地が豊かなのはおかしい。仏様に捧げるべきだと言って村の者から煙たがられておる面倒な奴だ。
「知らねえよ。仏様の話はお坊様たちとしてくれ」
本證寺のお坊様たちには大層気に入られておる男だ。でもなにかあるたびに仏様だ仏様だと騒ぐのは迷惑でしかねえ。
織田様も仏様のような御方だって聞いたがなぁ。それにそもそも織田様の領地にだって寺はある。なんでおらたちの村ばっかりが、苦しい思いしなくちゃならねえんだ?
お坊様たちは立派な寺に住んで、そのお坊様たちだけ朝な夕なに酒を飲み美味いもんを食ってると聞くぞ。
「大変だ! 賊だ!! 起きろ!!」
一段と冷え込む
藁に包まって寒さを凌いでおったおらはその声に驚きながらも、すぐに起きて
ここん処、多いんだ。近隣の水害にあった村の者がおらの村に盗みに来ることが。
「お坊様! なんでだ!! 税なら払っただ!!」
「ええい。煩いわ! 恨むなら織田を恨め! 織田が兵を置いて米が手に入らなくなったのが悪いのだ!!」
家の戸の隙間からこっそり見ると、隣村やこの村によく来る本證寺のお坊様と隣村の連中だった。
隣村の連中は税が払えねえんで、織田様の領地で刈り田をしておったと聞いたが。今度はおらの村に来たのか。
「あんた……」
「逃げよう。織田様の領地なら罪人も許されると言ってた。ここはもう駄目だ」
おらの村じゃあ商人に借金をしてまで村の税は払った。おかげで若い娘を何人も持っていかれたが、ここにいてもろくなことがねえと、泣く泣く娘を売った。それなのに……。
もういい。お坊様なんか信じねえ。
そんな時、あの仏様一番の奴の言葉が頭をよぎる。織田様の領地では盗人も許されて兵として働いておると。
お坊様と隣村の連中は盗みに夢中でこっちまでは来てねえ。逃げるなら今しかねえ。
「あいつ……」
おらたちは隣の家のもんと一緒にただ逃げ出したが、そんな時ふと見えた。仏様一番の男はなんと隣村の連中と一緒におった。
お坊様におらの村のことを教えて村のみんなを売ったらしい。
殺してやりてえほど憎いが、それどころじゃねえ。あの連中はおらたちの村を乗っ取るつもりなんだ。隣村は畑も家も流されたからな。
悔しい。おらの親父が建ててくれた家も家族でなんとか耕しておった田んぼもみんな盗られるなんて……。
「逃げたぞー!」
「捕らえろ!!」
村の者がみんな逃げ出し始めると仏様一番の男がそれに気づき声を上げた。最後の最後まで村の仲間を売るのか!
くやしいが、むこうのほうが人数は上だ。僧兵もおる。
ひとりふたりと追い付かれ捕らえられるのを見ながら、おらの家族はなんとか織田様の領地の村に逃げ込もうとしたが……。そこで仏様一番の男に追いつかれた。
「てめえ。村を売ったな!」
「仏様の言葉に従わねえお前らが悪いんだ!!」
ほかには槍を持った隣村の連中が一緒で、おらたちを売り飛ばして村を乗っ取ると自慢気に語っておる。
一緒に逃げた隣の家のもんが奴に怒鳴ったが、最後まで仏様か。付き合いきれん。
「誰だ!!」
「織田だ! 織田の兵だ!!」
捕まってなるものかと
「もう大丈夫よ」
驚くことにそれは女の声だった。声の主は泣きながら必死に逃げておった童を抱きしめると、周りの兵がおらたちを守るように駆けつけてくれた。
「おめえら! ここは本證寺様の! 仏様の領地だぞ」
「残念ね。そんな勝手極まる言い分は聞けないわ。ここは本證寺と織田の係争地よ。織田も来るわ」
隣村の連中はさすがにまずいと怯んでおるが、仏様一番の男が織田様に食ってかかる。
それに答えたのは童を抱きしめておった女だった。一番身分が高いのはおらにもわかる。
「一度しか言わないわ。引きなさい。さもないと戦よ」
「覚えてろ!!」
松明に照らされた女は真っ赤な鎧を身に纏っておる。さぞや名のあるお方なんだろう。さすがの奴らも戦という言葉に怯えたのかすぐに逃げ出していった。
「ヒルザ様!」
「領境の警戒を厳重にする必要があるわね。三郎五郎様に伝令を出して」
助かったと気が抜けたおらたちは後に知ることになった。
助けてくれたのが久遠様というお方の奥方さまだったということを。
これで飢えることがねえようになるということを。
Side:久遠一馬
今日はいよいよ武芸大会当日だ。
オレはエルと那古野の屋敷から馬車で清洲に向かっていたが、那古野から清洲への街道は多くの人が歩いていて馬車もスピードを出せない状況だった。
時代的に交通ルールとかないしね。馬車を初めて見る人も多いらしく、物珍しさから見物されてるほどだ。
もちろん護衛のみんなは周囲にいるが、何人かはもう馬から降りて、道を開ける為に人の流れを整理している。乱暴に人をどかそうとしないようにと頼んである。ただ、子供などが不用意に近づいてきたら、最悪の場合は力尽くででも止めろとは言ってある。流石に馬車にひかれたら怪我だけじゃすまないからね。
日頃の行いが大切だから。まあ籠や輿とか馬だけなら、まだ避けてくれるんだけど馬車は珍しいから仕方ないんだろう。移動に馬車を選択したのは失敗だったね。
そういえば、第二回武芸大会は昨年から幾つか変更されているところがある。
一番の変更点は、今年から職人が作る工芸品の品評会を加えたことだろう。
刀剣・槍・弓・火縄銃・鎧兜・織物・木工品・陶磁器・漆器・料理という様々な品評会が予定されている。
目標を与えることで職人の地位や技術の向上に加えて、やる気を出させる目的がある。
昨年もやった芸術部門とこの技術部門は清洲ではなく津島・熱田にて分けて品評会が行われることになっていて、津島は津島神社で熱田は熱田神社が会場になる。
清洲から津島と熱田への人の流れを作ることで、相応にお金が使われることを期待してのことだ。
織田弾正忠家と久遠家はこの数年で大きくなったが、以前から従っていた津島や熱田の商人の力も大きくなっていて無視できる状況ではない。
それに現在も広がっている織田家主導の経済圏を維持して発展させるには、彼らの協力が必要不可欠なんだ。一緒に頑張ってほしい。
「本證寺は来ないだろうね」
「来ませんよ。こちらが流民や罪人を兵として前線に出したことで、慌てているくらいですから」
今年も招待客には道三さんや願証寺に大湊の会合衆などがいるし、新顔として
だが、エルは冷たい口調で来ないと言い切った。来たら織田の力を見せて大人しくしろと言えるのに。織田と本證寺にとって関係改善の最後のチャンスだったのにさ。
肝心の本證寺は大分混乱している。
今まで文句ひとつ言わずに本證寺領からの流民を受け入れて、刈り田なんかがあっても本證寺相手には報復したことがほぼなかっただけに、いきなり前線に本證寺の元領民を兵として配置したことに相当驚いたらしい。
織田が本證寺の一揆を疑ってるのはさすがに向こうも気付いてるし、国人衆の中にも本證寺の信徒である人が一揆を止めようとしているから今更ではあるけど。
「ここまで騒がれても止めないっていうのがね」
「このままではじり貧ですからね。勢力拡大するには今しかないということでしょう」
「それってさ。もう考え方が武士と同じだよね」
「そんなものですよ」
本證寺の決起の理由は幾つかある。水害で税が減って贅沢できないことも大きいが、エルとしては織田が矢作川の対岸に本格的に進出する前に、本證寺は自分たちの領地を広げたいのではと考えている。
史実にはないことだが、そもそも矢作川西岸の本證寺の影響力は史実と違って確実に落ちている。紙芝居なんかでは津島神社や熱田神社を宣伝しているし、織田と関係が深いほかの宗派のお坊さんなんかが説法をしていることなどが理由だ。
全部エルたちが一向一揆を潰すために実行した策だ。
わかりやすい一向宗の教えは庶民のウケはいいが、本證寺領の貧しさが間近にある矢作川西岸では、彼らより織田や織田と親交があるお坊さんの言葉のほうが信じてもらえるようになってきた。
賦役の昼食の時なんかに説法をして領民の愚痴なんかも聞くようにと頼んだからね。
仮に本證寺が影響力の減衰を気にして暴発したというなら、オレたちのせいでもあるのかもしれない。
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