第362話・雪斎の憂鬱
Side:太原雪斎
思わずため息がこぼれるのを自覚した。
四十人ほどの一党、
「岡部五郎兵衛。何故勝手なことをした?」
「勝手なこととは心外ですな。領内をうろつく
相手は織田の忍び衆と言われておる者と北条の風魔であろう。久遠家の影の衆。そう呼ぶ者もおる。
尾張の行商人や薬師などには久遠家が召し抱える甲賀者が混ざっておるのは知っておるが、だからと言って領内に入っただけの者を捕らえて拷問をするのはやり過ぎだ。
動いておったのは今川家でも猛将として名高い岡部五郎兵衛元信。対織田で強硬策を訴える武骨者だ。
直ぐに呼び出して話を聞くが、私利私欲ではないので処分も出来ん。だが、この男は今ひとつ織田の恐ろしさを理解しておらぬな。
「不逞か否か定かではあるまい。尾張からの商人が来なくなれば我らが困るのだぞ。伊勢の海より東海への商いに力持つ商人も織田に従っており我が今川家には厳しいのだ。そして、そなたの所業は瞬く間に、今川家の所業として、商人どもに広がる。その意味する所、そなた分かっておるまい…」
むろん城に忍び込むなどすれば捕らえようが討ち取ろうが問題ないが、行商を営む者を無理筋な理由で拷問など、相手が織田領の行商人であろうが認められんわ。
鉄砲や硝石は雑賀か堺まで行かねば手に入らず、ほかの武具も売ってよこす者も多くない。皆、織田と久遠を恐れておるのだ。敵対した桑名は荷留と後ろ盾の願証寺が見捨てたことですっかり寂れてしまった。だれも、桑名の二の舞いなど御免であろう。
一方、同じく一度は敵対したが大湊はいち早く和睦に動き、大いに賑わっておるとも聞く。もっとも桑名は一向宗の願証寺対策として力を奪ったのかもしれぬが。
今川家が行商人を無実の罪で捕らえたとなれば、あらゆる伝手に背を向けられ、荷留でもされかねない。いや荷留されずとも、今川家の悪評が立ち、商人が来なくなるだけで問題だ。
「和尚がそんなことを言っておるから織田がつけあがるのです」
「そなたはなにもわかっておらぬ。戦で勝てばそれだけでいいわけではないのだ。今や織田は美濃の半ばまで手中に収めて北条とも誼を結んだのだ。いかにして戦をして、いかに収める気だ? 連戦連勝で滅ぼすとでも言うのか?」
残念なことに今川家でも岡部に賛同する者が少なくないのが実情だ。策も
「勝てばよいのです。さすれば日和見する三河の国人衆が落ち着きます」
「織田もそんなことはわかっておるわ。
こやつも頭は悪くはないのだが、もう自らの所領に籠っておれば良い世ではないのだ。駿河と遠江に三河だけでは手に入らぬものが今の世にはいくらでもあるのだ。
尾張と美濃を織田がほぼ押さえたことで、今川が織田領を通らず他国からものを仕入れるには北しか残らん。北の武田家とは誼があるにはあるが、あの山道で必要なものを全て運ぶことはできぬ。ましてやあの強欲な武田が関所で払う銭を高くしたら今川の物の値が一気に上がってしまうわ。
伊勢の海は東部が久遠と佐治水軍の領域。久遠や佐治水軍のように南蛮船でもない限りは、荷留をされたら海路すら使えんのがわからぬのか。
「織田の酒など買うのは、いかがなものですかな。酒ならば駿河でも造れまする」
「酒だけではない。絹や木綿は尾張から買わねば堺まで行かねばならん。それにそなたの好む良き武具も、兵に持たす槍も、全てが駿河で贖えるならば苦労はせぬわ!」
理解はしたか、だが不満げだな。皆が我先にと金色酒を買うことは不満だと以前からぶちまけておったからな。こやつも酒は飲むが金色酒よりも濁酒でいいというくらいだ。ただ口に合わぬだけかもしれんが。
そもそも織田は久遠を召し抱えたことで自ら商いに乗り出した。恐らく久遠の差し金だろうが、これが恐ろしいまでの威を振るっておる。
我が今川家はそこらの田舎大名ではないのだ。京の都の公家たちが戦災から逃れてくるほどの名門なのだぞ。その権威と家格を守るためには必要なものが多い。織田からでも買わねばならぬのだ。
「それよりも風魔が織田の忍び衆と組んだのは確かです。早急に対策を講じていただきたい」
「そなたは知らんであろうな。織田は地揺れの見舞いにと一千貫もの銭と南蛮船に積めるだけ積んだ米を北条に贈ったそうだ。さらに噂の薬師の方の弟子までも送ったようで、北条領では疫病もほとんど起きておらぬ。この状況で北条を敵視すれば、織田と北条は正式に今川向けの同盟を組んでしまうわ!」
織田は北条と同盟を結ぶ用意がある。北条も乗り気だという。小田原では薬師の方の弟子のおかげで病にかからぬと大評判だというのに。
北条は関東に敵が多いが、織田と結ぶことで今川を押さえて東に専念することが出来る。
あとは切っ掛けさえあれば……。
問題はすでに忍び衆と争ってしまったことか。織田は荷留をするか? 周囲の敵はほぼいなくなったので戦の好機ではある。
駿河は地揺れの後始末で大変だが、北条もまた戦どころではあるまい。織田が北条との誼に重きを置くとするならば、むやみに動かぬかもしれぬが。
織田は考えが読めんところがあるのが、なんとも困ったものよ。久遠一馬と大智の方。近頃ようやくわかった信秀の新たな知恵袋。
織田躍進の立役者が商人上がりと南蛮の女だとはな。だが油断は出来ぬ。五郎兵衛らを抑えてなんとか地揺れの被害から立て直さねばならぬ。何故これほどまでに我が今川の家臣たちは……。
Side:望月の医師
関東に来て薬師の方様のご苦労とご苦悩がよくわかった。
多くの者が藁にもすがる思いで助けを求めてくるのだ。だが、すべてを助けられるわけではない。ましてわしなどまだまだ未熟者だ。
だがそれでも感謝の言葉と涙を流して頭を下げ、礼を
これほどの重荷を背負っておられたのだな。薬師の方様があまり感情を表に出さぬのは、これが理由なのかもしれん。
偶然かもしれぬが北条領での疫病はほぼ防ぐことができた。北条家が率先して亡骸の埋葬や被災者の手当てをしたことで国人衆や寺社に商人も協力してくれておる。まるで尾張におるような、そんな錯覚すら覚える。
「望月殿。そろそろ次に行かねば……」
「すまぬ。ここに集まった者たちだけでも診たい。少し遅れると知らせてくれ」
今日も伊豆のとある村に地揺れの被災者の診察に来たが、あっという間に近隣の村からも大勢の患者が集まってしまった。
わしはまだまだ未熟だというのに。
出来ることは多くない。丁寧に診察してやることしか出来ぬ。護衛と案内の者が困ったように促してくれたが、最後まで診てやりたい。
ここ関東で織田家と久遠家の名を汚すわけにはいかぬ。助けられぬまでも真摯に向き合うことこそ肝要であろう。
「やはり薬師の方様の弟子なのですな。あのお方もどんな者でも真剣に診ておられました」
「買い被りすぎだ。わしなどまだまだ未熟。お方様ならば、もっと助けられたであろう」
「あまりお気になさらずに。望月殿のおかげで救われた者は多いのです」
護衛は以前に殿たちが関東に来られた際に、薬師の方様の護衛を務めし者らしい。
少し懐かしそうにその時のことを教えてくれたが、頼まれたからといって遊女屋や貧民街にまで行った時は心底困ったそうだ。
どうもその時に薬師の方様を襲った者が出たようで、わしにでさえ二十名もの護衛が付いた。
そんな立派な立場ではないのだがな。
八郎様が田畑を耕しておった頃が懐かしいと、以前少し語っておった気持ちがわかる気がする。
空を眺めて作物が無事に育つことを祈る日々からすると、本当に別人にでもなった気分になる。
いかん。感慨にふけっておる暇などありはせぬ。日が暮れるまでには、なんとか診察を終わらせねば。患者たちが夜道を帰ることになってしまうわ。
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