第350話・斜陽の今川と地震

Side:松平広忠


 織田が各地から取っておった人質を解放したと、三河では騒ぎになっておる。


 矢作川西岸ばかりではない。西三河にはいち早く織田に付くと人質を出したところがあったのに、突然帰ってきたところがあるようで大騒ぎだ。


 美濃はすでに大半が織田に屈しており、『さあこれから織田が三河に来るぞ』と意気込んでおったところだからな。『理解出来ぬ』が本音だろう。


 ただしすべての人質が戻ったわけではない。本人の意思で残るのは許したようで、本人が望めば残っておると聞く。さらには、戻った人質が家の者を説き伏せ、再び尾張に舞い戻ったなどと、はかりごとじみた噂も流れておる。


 当家では竹千代が戻ると期待した者もおるが、戻っては困るのが本音だ。戻れば約定通りに今川に送らねばならぬからな。


 せっかく母の於大と暮らしておる竹千代を、今更今川の人質に出すのはいかに考えても悪手だ。


 そもそも今川には織田と戦う気がない。『織田が攻めてくれば援軍を寄越す』とは言うが、その援軍のための備えをした様子もないのだ。ただの虚言にしか聞こえぬわ。織田は三河に来ぬまま大きくなっておる。織田は今川と違い不言実行だな。


 北条とも誼を結んだというし、今川が織田を三河から追い出すのは無理であろう。


「殿、大変でございます。駿河や甲斐で大きな地揺れがあったようでございます」


 織田の動きに悩んでおったところ、半蔵が急な知らせを持ってきた。


 まさか地揺れとは。天もまた今川を見限ったか?


「今川家の様子はいかがなのだ?」


「大きな混乱はない模様なれど、領内のあちこちでは建屋や寺社が倒壊したようでございます」


 さすがは今川か。大きな混乱までは起きぬか。だがこれでまた今川が戦に出ることは当分はありえぬな。


 織田はいかがする? 今動けば三河は一気に織田に傾くぞ。


 戦をするなら支度が必要だ。織田ならばすぐにでも出てこられるのだろうが、松平はそうはいかぬ。


「半蔵。誰にも気取られずに、織田弾正忠殿に繋ぎが取れるか?」


「難しゅうございます。それに弾正忠様に繋ぎを取れば目立ちます。いずれかそれなりの、信頼の出来る方を通したほうがよいかとおもいます」


「だれがよいと思う?」


「平手様でございましょうか。弾正忠様と嫡男の三郎様の信頼も厚く、噂の久遠家の後見人でもあります」


「よし、ならば平手殿に頼むか」


 近頃の織田はなにを考えておるのかよくわからぬ。ここ二年ほど文のやり取りも途絶えてしまったが、以前は織田に臣従するようにと密書が来ておったのだが。


 今川に人質を出した者には悪いが、今川が動かぬ以上は織田を頼るしかあるまい。斎藤や西美濃をみても今より悪くなることはあるまい。


 とりあえず竹千代の扱いに対する礼でいいだろう。織田との繋ぎを結び直して織田の出方を見極めねば。


 まさかとは思うが、蚊帳の外に置かれては困る。


 常ならば前線で戦えとでもいうのだろうが、美濃での織田の動きをみておると、国人衆程度では事情を知らぬ間に織田が勝っておったなどとなるおそれがあるからな。


 蚊帳の外に置かれたまま、終わったあとで『織田に従え』と言われては松平宗家の恥だ。




Side:今川義元


 過日の地揺れは酷かったの。


 駿河では多くの建屋が倒壊したとの知らせがあったわ。領民の家屋敷は少しの地揺れでも倒壊することがあるので仕方ないことじゃ。されどこれほどの規模じゃと問題になるわ。遠江、三河、甲斐、伊豆、相模などの詳細がわからぬ、これも恐ろしきことよ。


「天は織田に味方したか?」


 誰もおらぬ故に独り言が漏れるわ。


 大垣周辺はことごとく織田に併合された。西美濃や斎藤家も織田に従う姿勢を見せておるの。ここから盛り返すは難しきことであろうな。


 ろくな戦もせぬうちに領地を広げるとはな。やはり信秀はわしを超える男じゃということか。


「ここにおいでで、ございましたか」


「雪斎か」


 遠く富士の山を見ながら考え込んでおったら、雪斎が参った。今川が織田に呑まれておらんのは雪斎の力であろうの。織田にとっては相手は斎藤ではなく今川でも良かったのじゃからな。


「甲斐と伊豆から武蔵南部も地揺れが酷かったようでございます」


「織田はこの機会に三河に来るか?」


「常道で考えるならば『来る』でございましょうな。なにより三河の国人衆が織田を望んでおります。ただ拙僧は『来ぬ』と考えます」


 周辺国の様子が来たか。他にも被害があり、いずこも軽々けいけいには動けぬとあらば、少しは安堵できるの。じゃが今は織田よ。確かに常道で考えれば、今ほどの好機はあるまい。今戦をすれば尾張と美濃は織田のもとに纏まることになろう。今川家が動けぬことは信秀ならば気づいておるじゃろうからな。


 じゃが雪斎は来ぬとみたか。わしもそう思うわ。織田はわしや雪斎とは違う理で動いておるからな。


「ただ、来ずとも動かずとも、三河は更に織田に流れましょう」


 織田では人質を解放したと聞く。初め耳に致した時は信じられなんだが、あれも三河への一手なのかもしれんの。


「三河では人質の件で不満が高まりておるとか。まさか蜂起することはあるまいな?」


「織田が動かねば、抑えてご覧に入れましょう。松平は織田と今川、いずれが勝っても家を残すつもりでございましょう。織田が本腰を入れて動くまでは迂闊な動きはせぬと考えると、多少の反乱は問題ありませぬ」


 広忠め。開き直りおって。


 奴が得をするは面白うないが、広忠が今おらぬとなれば西三河は戦をせぬままに織田に流れるわ。


 あまつさえ織田が人質を解放したことで、我が今川へ人質を寄越しておる三河の国人衆の不満が高まりておるところじゃからな。


 かと言うて人質を解放すれば、それこそ大手を振りて織田に付く国人衆が増えるだけじゃ。相変わらず嫌らしい手を使うの。




Side:北条氏康


「それは、まことか?」


「はっ、すでに下田に到着せし、織田の船。その船手衆ふなてしゅうかしらが申す事にございます!」


 思わず我が耳を疑ってしまった。つい半月ほど前に尾張に帰った織田の船がまた来たというのだから。


 前回、帰るに合わせて、次回の相談をしたが、斯様に早く来るとは聞いておらぬ。当初は嵐にでも遭ったかのと思ったが、まさか地揺れの見舞いだとは。


 銭で一千貫と米は積めるだけ積んできたようで、医師も数名だが連れてきておるとのこと。


「これは、してやられましたな」


 報告を受けた駿河守の叔父上は面白げに笑った。一千貫と大量の米だぞ? 笑っておる場合か?


「これが織田の力か……」


 だが地揺れが起きたことをこれほど早く知って、更に見舞いをすぐに寄越せるとは。関東に来た折に格下と侮らずに本当によかった。


 受け取らぬわけにはいかぬ。突き返せば織田の顔を潰すことになるのだからな。それに被害が大きくて助かったのが本音だ。織田に借りを作ることになるが致し方ないか。


 そういえば織田は美濃をほぼ手中に収めたのであったな。これも叔父上の見立みたて通りか。


 やはりじかに尾張を織田を見聞きしたことは大きいということか。


 持ってきた銭と米で三河を攻めれば三河を落とせるであろうに。


「殿、これで税の免除と復興をするべきかと愚考致します。足りぬ場合は織田に借りてもやるべきでしょう」


「織田に倣うか?」


「領民と直に向き合うことは、長き目で見れば北条家の利になることは確かでしょう」


 織田は国人衆や土豪ではなく直に領民を統治することをしておるようだ。叔父上は久遠殿と文をやりとりしており、それを北条家でもやりたいと考えておる。


 風魔に領地と地位を与えることで武士として扱うことを、ようやく家中に納得させた。その次なる策もすでに考えておるのか。


 河越の戦と去年の鎌倉沖の戦で北条家の権勢は強くなった。だが国人衆や土豪などは渋々北条に従っておる者も少なくない。


 領民と向き合うことで、左様な国人衆や土豪の力を削ぐか。


 もともと領民と向き合うのは祖父である早雲様が為さっておったこと。織田はそれをより推し進めたというところか。


「源氏だ平氏だと古き権威で土地を治める時代は終わるやもしれませぬ。字も読めぬ領民には食わせてくれる者こそ最良の支配者ですからな」


 叔父上は相変わらず外で誰かに聞かれれば危ういことを口にする。ほかの者が顔を青くしておるのを楽しむのはいかがなものかと思うがな。


 かつて京の都の公家が支配しておった日ノ本に武士が台頭してきたように、新たな世でも来るというのか?


 まあ先のことはいい。今は地揺れの被害から立ち直るのが先だ。



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