第339話・蝮の毒

Side:斎藤義龍


「申しわけありませぬ」


「よい。あの愚か者を放置しておったわしにもせきはある」


 城に戻るとすぐに父に不手際を詫びたが、父はそれにはあまりお怒りではないようだ。


 後始末の際に織田三郎殿や久遠殿と話したが、特に気にされた様子はなかった。少し話を聞いたがこの程度の騒動は屢々しばしばあることらしい。


 診察に当たり、事前に織田側が要求しておったのは、身分や地位に関わらず、医師の指示に全てを委ねること。それでも斎藤家に配慮して特別に診てほしい者は、昨日診てくれた、滞在の期日きじつ出立日しゅったつびの前日にも城で診てくれることになっておる。


 ただしそれ以外は一切の区別なく患者として扱う。まあつねではあまりあることではないが、医師は織田弾正忠家の猶子となった久遠家の奥方だ。文句を言える者はおらぬと思って油断したのがいけなかったか。


 薬師の方は貧しい者でも救ってくれるとの評判は美濃でも知れ渡っておる。その評判に多くの患者が集まったが、まさか同じ斎藤一族からあのような愚か者が出るとは。


 飛騨守は強き者におもねり媚びを売り、弱き者にたかぶり威張るような男だ。謀叛の末にわしが討ち取った長井隼人佐ですら『あの男は駄目だ』と相手にしておらなかった男が、まさか来るとは思わなかったわ。


「久遠殿は武芸が苦手と聞いたが……」


「先ほど少し聞きましたら、人を斬ったのは初めてだと言うておりました。戦でも前線に出る立場ではないでしょうし、常に護衛がおるので当然でしょうが」


 父が気にしておったのは久遠殿の武芸か。確かに凄かった。手にしておった鞘から刀を抜きながら一太刀で飛騨守を斬り捨てた。


 奥方のふたりも凄かったが、あのふたりが武芸を得意とすることは事前に調べがついておったからな。いずれかと言えば武芸が苦手だと聞いておった久遠殿のほうが驚きは大きい。


「新九郎よ。わしは織田に臣従を申し出るつもりだ」


「そこまでせねばなりませぬか?」


「織田がもし畿内に野心があるならば今が好機。臣従の価値はあろう。しかし……」


「しかし?」


「畿内に野心がない場合は臣従するのは時期尚早かもしれぬ。いずれがいいとは言えぬが、ここで態度をはっきりさせねばならぬ。源平を紐解いても旗色きしょくを見せぬ立場では邪魔者として扱われかねんのだ」


 臣従とは。確かに父が臣従を考えるのはわかる。だがそれは頃合いを見計らってからのはずでは? 此度の失態にそこまで必要なのか?


「もしあの場でわしが飛騨守に味方すれば、わしとそなたは討たれておったのかもしれぬ。気付いておったか? 噂の今巴の方と氷雨の方がわしと婿殿に一足いっそく一刀いっとうの立ち位置から動かんかったのだ。しかも、飛騨守が刀を抜いても動揺一つせんかったのだぞ」


 なっ、そんなことが……。


 確かにその両名は武勇に優れておると聞き及んでおる。特に今巴の方は鹿島新當流のあの塚原殿に勝ったとも噂されておる。女と甘くみるのは愚かだと思うが。


 いや、和睦が成りながら、先頃まではかりごとが常に生じ出でる有り様で、敵地も同然だったのだ。無策や安易なそなえで来るほど愚かなわけはないか。


 では最悪あの場で……。




Side:久遠一馬


 斎藤飛騨守とその家臣の遺体は斎藤家の家臣により片付けられた。


 ケティは我関せずと診察を続けていたし、すずとチェリーも何事もなかったように手伝いに戻った。


 チェリーは初めからオレや斎藤家の人が来るまで、待っている気だったんだろう。さすがに他国で勝手に『無礼だから』と斬り捨てるほど馬鹿じゃない。ただ相手が逃げられないように決闘と言い出したんだと思う。


 若干考え方が幼い様に見えても、チェリーもアンドロイドなんだ。そのくらいの知恵は回る。まあ外交的にやばくなったらエルに丸投げする気だったんだろうけど。


「さて、久遠殿には改めて詫びよう。相済あいすまぬ事であった。衆人の面前で奥方の容姿を侮辱するなど、戦になっても文句は言えぬ」


 稲葉山城に戻ると返り血で汚れた服を着替えて、改めて道三と義龍さんと顔を合わせた。


「構いません。けじめは付けましたので」


 道三が真っ先に詫びると斎藤家の者が少し驚いている。それなりに話を聞いたんだろうが、やはり道三ほどの人が謝罪するのは珍しいのだろう。


「だがこれで斎藤家と織田家の間に亀裂が入るのは困る。そうよな。此度の一件は斎藤家が織田家に臣従することで収めたいが、いかがか?」


 しかし道三はやはりただ者ではない。信長さんもオレもこの件を大きくする気はないが、信秀さんや織田家中が収まらない可能性に気付いたか。


 でもさ。この場でいきなり最大のカードを切るか? あまりに突然のことに信長さんを筆頭に織田側の人も義龍さんたち斎藤家の人も固まってるんですけど。


 ちらりとエルを見ると少し笑みを浮かべてる。道三の判断に面白いとでも考えているんだろうか。


「それは面白い冗談ですね」


「ほう、冗談か?」


 信長さんは迷ったのか言葉を発しない。政秀さんは保護者の顔で見守ってる。仕方ないのでオレが答えるか。もともと道三がオレへの謝罪ついでに言った言葉だ。オレが答えても問題ないだろう。


「斎藤家が現状で織田に臣従することは、両家の利になりません」


 蝮の本領発揮かな。最大のカードを切りつつオレたちを試しているようにしか見えないな。そもそも臣従はオレや信長さんの権限では判断出来ない。本来は、持ち帰り報告するというのが無難な答えなんだろう。


 だけど道三を味方にするには、ここで無難な返答では失格だろうね。そんな気がする。


「斎藤家にあたいはないか?」


 だからそうやって毒を言葉に交えるのは止めてほしい。オレは化かし合いは苦手だ。


「そういう問題でないのはご存知のはず。現状で織田が斎藤家を正式に臣従までさせてしまえば、周囲が騒ぐかもしれないことはご承知でしょう」


「畿内か。好機ではないのか?」


「現時点では、織田は畿内への興味はありません」


 やっぱり気付いてたね。織田がこれ以上大きくなると周囲が放っておかないことを。というか道三でも織田が畿内を狙っているかもと考えているのか。本当に迷惑だ。


「ふむ、潰しあっておるうちに力を蓄えたいか」


 お願いだから言葉はもう少しオブラートに包んで言おうよ。


 美濃と尾張は史実のこの時代でさえ石高に換算合計すると百万石は軽く超える。それがウチの商いで商圏が広がって、経済的には史実より圧倒的に伸びた現状では、倍を超える国力すらあるかもしれない。


 どう考えても周辺勢力が黙ってはいないはずだ。『打倒三好に兵と銭を出せ』なんて言われかねない。織田には、畿内に兵も銭も出す気など全くない。厄介ごとに巻き込まれるのはごめんだ。


 織田と斎藤は実質臣従なんて言われているが、お互い油断出来ない相手であり、様子見をしている。そんな状況が当分は望ましい。


 まあ。ほとんどエルの分析なんだが。


 六角バリアーに斎藤シールドは当分維持したい。こっちは国内の統治と改革に忙しいんだ。


「それは弾正忠殿も承知の考えか?」


「ええ。もちろんです」


 当然だ。信長さんと信秀さんとは話し合って事前に調整している。畿内に威を示すだけならば、確かに好機に見えるかもしれない。だけどそんなことをすれば、畿内で果てしなき消耗戦に引き摺り込まれる。六角と織田を使って三好打倒なんて迷惑なことを考え言い出しかねない人がいるからね。


「わしは蝮などと呼ばれておるが、織田と比べたら可愛いものじゃな」


 人聞きの悪いことを言わないでほしい。こっちは戦を極力減らして平和な世を作りたいんだ。


 それと周囲の斎藤家の皆さん。まるでオレが策士みたいな、それこそ目の前の道三以上に恐ろしいモノを見るような目を向けないでほしい。


 斎藤家だって畿内の戦で消耗戦なんかしたくないでしょ?




◆◆◆◆◆◆◆◆


 天文十八年春、織田信長と久遠一馬は美濃の斎藤家の居城である稲葉山城を訪れている。


 その際に起きた井ノ口騒動は久遠歌舞伎十八番のひとつとして有名で、現代では物語としてもよく用いられる事件になる。


 事の発端と経緯は『織田統一記』や『久遠家記』にある内容だと、井ノ口にて薬師の方こと久遠ケティが診療を行った際に、待たされることに難癖を付け、ごね出した斎藤飛騨守が、止めに入った久遠チェリーを侮辱したことによる諍いであったという。


 飛騨守は止める斎藤義龍の言葉も聞かずに更に一馬までも侮辱するなどしてしまい、織田と斎藤両家の者に緊張が走る中、ひとりの野次馬の子供が飛騨守を非難すると飛騨守は激怒をしてしまい、刀を抜き、子供を斬ろうとしたという。


 そんな飛騨守を一馬自身が一太刀で斬り捨てたのがこの一件の概要である。


 この時一馬は子供を斬るのは許さんと語ったとあり、後の世で一馬の人物像に大きな影響を与えている。


 実は一馬自身この時代としては珍しくあちこちに出向くことを好んでいたこともあり、この手のトラブルの逸話は豊富にあるが、歌舞伎や芝居に映画やドラマの題材として一馬が人気になった一因はこの一件にあったと思われる。


 ただ日頃から刀どころか脇差すらを持ち歩かないことも珍しくなかったといい、一馬自身が斬った記録は多くはない。


 現代では時代劇のせいか悪人を成敗するイメージが強いが、一馬はどちらかと言えば温和で当時の人からは甘いとすら言われていたという。




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