第226話・温泉へ入ろう
side:久遠一馬
翌日には幻庵さんの案内で箱根の温泉に行くことになった。
ついでに箱根権現と早雲寺にも参拝する予定で、こちらもみんな喜んでるね。オレやエルたちは観光気分だけど、他のみんなはリアルに神仏を信じてるから目的が違いそうだ。
小田原から箱根は意外に近い。ただし、この時代の箱根は街道の難所だし、当然ながらそこまで道の整備もされてないけどね。普通に山登りだから当たり前か。
あっ! 富士山が見える。昔貰ったお土産の絵ハガキとか思い出すなぁ。
「奥方たちは馬に乗るのもお上手ですな」
「ええ。まあ」
ああ、エルたちはここでも馬に乗ってる。みんな尾張でも馬に乗ってたからね。ただ北条家の人からすると、身分のある女性は
あからさまにジロジロと見てはいないが、兵の人たちなんかは物珍しそうに見ている。エルたちは気にしてないようだ。慣れたのだろう。
箱根湯本に到着すると、オレたちはさっそく早雲寺に来ていた。ここは北条早雲の遺言で創建された寺だったはず。どうも湯本が門前町らしいね。
何と言うか。かなり立派で広いお寺だ。極論かもしれないが寺社をきちんと整備するかどうかが、この時代の武家の統治能力を測るひとつのバロメーターなのかもしれないな。
「これほど寄進と供物を頂けるとは。ありがとうございまする」
早雲寺をお参りすると、応対してくれたお坊さんに寄進と供物を納める。寄進は関東では明銭が人気みたいだから明銭で三百貫。供物は伊勢の時より少ないが、長旅なので許してほしい。
関東と北条家に織田の力と意思をきちんと見せるには寄進と供物は必要になる。
というか今夜の宿は早雲寺になるのね。そりゃそうだよなぁ。オレたちはお客さんだし寺社か城に泊まることになるよね。
この時代だと下手なところに泊まると何をされるか分からないし仕方ないか。
「いかがですかな?」
「いいですね。この辺りも整備すれば、
オレたちがウチの家臣のみんなと宛がわれた部屋で休憩していると幻庵さんがやってきた。
地形的な理由かあいにくと富士山は見えないが箱根の山はよく見える。温泉もあるし寺社もあるから道を整備すればもっと栄えるようになるはず。
現状でも臨済宗の禅寺としてはかなりの規模だし凄いんだけどね。
「人を大勢ですか……。武家はあまり考えませぬな」
「土地を治めるのか人を治めるのか。どちらも必要だと思いますけどね」
箱根は整備すれば観光名所になりそうなんだよね。幻庵さんについ口を滑らせてしまった。
ただ幻庵さんには少し不思議そうな顔をされた。人を集めて観光名所にするという概念はあまりないんだろうな。
そもそもこの時代の旅は危険が付き物だ。山賊や盗賊に海賊ばかりではない。普通の村人もよそ者を殺して荷物を奪うなんて平気でやるらしい。
もちろん尾張ではそんなことをやらせないように努力してるけどさ。極論を言えば死人に口なし。バレなきゃ問題無いという考えはあると思う。自分たちだけが大事で、よそ者はどうでもよいと考えているのだろうな。
警備兵の訓練はそんな犯罪捜査もあるからね。苦労している。科学的な捜査まではできないけど論理的な捜査は必要だからね。
この時代だと捜査というか詮議というか非論理的な方法で犯人を決めつけるからなぁ。関係者全員から個別に話を聞いて、矛盾点が無いかぐらいは調べてほしいよ。
とはいえ箱根に来たからには温泉だ。近くにある温泉宿に足を運んでようやく温泉に入れる。
いや、それはいいんだよ。エルたちが一緒なのも構わないとしよう。一応夫婦なんだから。
何で侍女の皆さんまで一緒に入るの?
幻庵さんが気を利かせて男性陣とウチの女衆を分けてくれたんだよね。だからこの温泉はウチの女衆だけで使えるんだけどさ。
「せっかくですから侍女たちも入れてやりたいので」
嫁入り前の娘さんたちと混浴って気が引けるな。普通に考えてオレたちの立場だとお風呂にも人が付くのはさすがに理解する。
ウチの屋敷だと付かないけどね。
ああ、オレたちより先に入るのもまずいし。後で入って待たせるのもまずいのか。対外的に。
でもさ。年頃のお嬢さんが混浴を期待した目で見ないでほしい。何か違うでしょう。
そもそも侍女のみなさんには十分家族を養えるくらいの禄は出してるのに。玉の輿狙いですか?
「それが普通だと思う」
だからケティさんや。オレの顔色を見て突っ込むのは止めてほしい。
むむっ。しまった孔明の罠だ。信長さんたちの方に行けば……。
いや、あっちもあっちで衆道があるんだった。あっちに行けば別の意味で困る。
……うん。手を出さない限りはセーフなはずだ。今は温泉を満喫しよう。
箱根の温泉は小田原攻めの際に秀吉が入ったことでも有名だ。メンバーはエル・ジュリア・ケティ・メルティに千代女さんと資清さんの娘さんのお清さん。他数名。
オレ以外は全員女性です。うーん。太田さんに旅の記録係を頼んだのが仇となった。オレのことは書かないように頼むか?
駄目だよなぁ。偽りなく書くのが太田さんの素晴らしさなんだ。オレがそれを汚すわけにはいかない。
というか誰も嫌がりも過剰な意識もしてない。さすがに恥ずかしげな人は居るが。
えーと。側室にはしないから。変な期待はしないでほしい。
温泉自体はいいお湯だ。羨ましいなぁ。蟹江の温泉も早く掘らせたいけど、長島からの人足衆に割り当てた工事が一段落しないと温泉掘りを見られるからなぁ。
見られても問題は無さげだけど見られたくないのが心情だ。まだどうなるか分からないからね。長島も。
「うふふ。いいお湯ね」
「効能もある」
「絵にでも描きたいわね」
露天風呂だから景色もいい。ジュリアもケティもメルティも初めての本物の温泉に上機嫌だ。
ただメルティさんや。この光景を絵にするなんて言うのは冗談でも止めてください。
「凄い……」
「浮いてます……」
侍女のみなさんはエルの胸を見てがく然としてる。前にも言ったがこの時代だと胸に性的な意味はない。とはいえ自分と違う部分に興味があるのは女の本能みたいなものかね。
「貴女たち。無礼ですよ!」
そんな侍女のみなさんを千代女さんは一喝した。いつの間にか千代女さんは若い独身の侍女さんたちの纏め役になりつつある。
もちろん資清さんの奥さんとかは居るし、全体としては彼女たち年配が纏めてるけど。資清さんの娘のお清さんは纏め役に向かないからな。ちょっと天然っぽい子だし。
ああ、そろそろ彼女たちの嫁ぎ先も本当に決めないとなぁ。この時代だと、ほんの少しでも身分や立場があると、自由恋愛がまずないからな。
それでもエルに頼んで恋仲になる人は一緒にさせてやりたいと様子を見てるけど。それも簡単じゃないんだよね。
この時代の常識はもちろんだけど、恋仲になっても別れることも当然あるから。
問題なのはリアルに側室か駄目なら妾を期待する子も多いことか。というかほとんどはそれらしい。おかげでなかなか他の人と恋愛関係にならないんだとか。
そんなことをしなくても粗末に扱わないんだけどね。それがこの時代の常識なんだろう。
戦国武将だと家族を殺されて側室にさせられるとか普通にあるからな。それと比べればウチが天国なのは理解してる。
正直なところ領地開発や経済政策より、家中の細かい問題の方が悩みの種だよね。
女性陣はいつの間にか女子校の修学旅行みたいに楽しげな様子だ。お肌の手入れ方法を話したりしている。
戦国時代の常識とは違うけど、ウチはこれでいい気もするね。オレを肉食獣の目で見ないでくれれば。
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天文関東道中記には織田一行が箱根に足を運んだことが記されている。
早雲寺や箱根権現に参拝したようで、温泉で旅の疲れを癒したとある。
太田自身は北条家の気配りを絶賛していたが、その内容に一馬と奥方たちが信長たちとは別の温泉を貸し切ったことも書かれていた。
そのため後世では箱根に来ても一馬は変わらないと半ばネタのように言われている。
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