第196話・虎と幻庵

side:織田信秀


 北条長綱ほうじょうながつなか。三郎五郎からは油断ならぬ者だと急ぎの書状が届いたが。


 それと、随分と若い小姓が控えておる。忍び衆の報告ではタダ者ではないようだ。当人や周りは隠しておるつもりらしいが、長綱以外はまだまだ甘いな。


 旅先でもただの小姓にしては周りの扱いが違うようだからな。北条一族の子であろう。


 長綱め、食えぬ男のようだな。


「さすがは関東にまで名を轟かせておる弾正忠殿ですな。老骨にむち打ち来た甲斐がありました」


 型通りの挨拶を済ませた長綱は旅の話を始めた。


 小田原から駿河の様子は口にせぬが、駿河からは尾張まで陸路で来たようだな、今川領の安定した様子を語りながら尾張の話に移るか。


「飢えぬように領民を食わせておるようで、某も感服致しました」


「口の悪い者は織田は銭を出さねば、何もできぬと言うがな」


「なんの。無益な戦をせずに食わせるのは、理想でございましょう」


 最初に言うたのは領民を食わせておることか。南蛮船や金色砲の話でないところに少し驚きを感じるな。


 知っておるのであろうな。領民を食わせる利を。尾張の中でさえ無駄だと考える者がおるというのに。


「領民を思いやるは伊勢宗瑞公もしたこと。今更、珍しくもあるまい。領内の検地など、北条家には学ばせてもらっておる」


 一馬が長綱を欲しいと言うたのも分かるな。検地のこともそうだ。北条の出自である伊勢家は幕府の政所執事にて幕府を支えておる家だからな。


 力で治めるのではなく、まつりごとで治めるのが得意と言えば得意なのか。その辺の田舎武士と比べる方が間違っておるわ。


「弾正忠殿にそう言っていただけるとは、亡き父も喜びましょう」


 さて北条はワシに何を求めるのやら。




side:北条幻庵


 織田弾正忠信秀。やはり並の男ではないか。


 この場にて父上のことを持ち出すとは。これで北条の織田に対する印象は変わる。西堂丸を連れてきて良かったわい。


 半分は世辞かもしれぬが半分は本音であろう。思い当たる節はあるからの。



「凄い……」


「ほう。これはまた……」


 守護の斯波様への目通りは明日になった。今宵は弾正忠殿と平手殿などと会食することになるようじゃ。


 まずはと運ばれて来た物が目に入れば、途端に西堂丸め、不調法にも声を出しおって。素性を明かさぬという約束を忘れたのか。


 だが、それも仕方ないの。運ばれてきた酒は見知らぬ物に入っておった。


 透明で中の金色酒が透けて見えるあれは何なのだ? 焼き物ではあるまい。


「ささ、一献いっこん


「これは何で御座いましょう?」


「それは硝子がらすという南蛮渡来の品でしてな」


「素晴らしい。金色酒とはこれほど美しい物だったとは……」


 硝子の徳利とっくりと硝子のさかずきは、この世の物とは思えぬほど美しく輝いておる。


 蝋燭ろうそくの炎に照らされながら平手殿に金色酒を注いでもらった硝子の盃には、ワシでさえ興奮が抑えられぬようじゃ。




「これは……」


 明や南蛮の料理が尾張にはあると聞いたので期待したが、料理は一見すると普通かの? いや、味噌汁は色が少し違う。


 なんだ? この味噌汁は。そもそもこれは味噌汁なのか!?


 家臣や西堂丸もざわつき顔色が変わっておるわ。


 味噌の風味はある。されど塩辛さなどの雑味はない。何かの奥深い味はあるが、まさかこの歳で一杯の味噌汁に驚かされるとは。


 しかも具は鮭ではないか!? 高価な鮭を贅沢に味噌汁の具にするとは。だが美味い。鮭の味が何か分からぬ深みに絶好の彩りをえておる。


「それは粕汁かすじるという料理です。詳しくは某も存じませぬが澄み酒を造る際に生まれる物だとか」


「ほう。それは知らなんだ。尾張にはこのように美味い料理があるとは……」


「いや、今宵の料理は久遠殿の差配によるもの。某や殿も初めてですな」


 姿が見えぬので残念に思っておったが、まさかここで久遠殿の名が出るとは。


 若さをあなどる気など毛頭ない。されどワシの予想をこうも簡単に超えてくるとは……。


 料理とはただの飯ではない。その者の生まれや知識に文化にも通じるというもの。


「これもまた味が違いますが、味噌ですかな?」


「今宵は味噌で趣向を凝らしました。久遠家には某も知らぬ味噌が幾つかあるようでしてな」


 当然ながら汁だけではなかった。


 魚は鯛のようじゃが味噌漬けにしてある。じゃがその味噌が甘くて何とも言えぬ美味さじゃ!


 鯛の味を決して損なわぬこの味噌は、また汁の味噌と全く違う。


 むっ!? 菜もやはり違うの。こちらは少し辛みがある。野の菜を焼いたのか? いやこれは油か? 少し辛みのある味噌がまた野の菜の甘さによく合う。


 じゃが、この細く短い野の菜は何であろうか。


「それは毛也之もやしですな。本来は薬なのですが久遠殿はよく料理に使いまする」


 なんと! 毛也之を料理に使うのか!?


 歯応えがよく確かに美味い。贅沢というならばこれほど贅沢な使い方はそうはあるまい。




 良かった。本当に来て良かった。


 これは自ら来なければ決して分からぬものであったろう。


 ただ銭があるだけではないな。


 織田を敵に回してはならぬ。何があろうとな。


 予定にはなかったが、西堂丸には明日にも正式に挨拶をさせるか。




side:北条新九郎氏親(西堂丸)


 大叔父上の小姓のふりをして尾張に行けと父上に命じられた時は、正直驚いた。


 当然ながら母上や近侍きんじの者は危険だと反対したが、父上や大叔父上は北条を継ぐ者として、今川や織田を知らねばならぬと押しきった。


 今川はよく知らぬが、織田は知っておる。船で酒や砂糖を持ってくるところだ。


 男たちは酒が飲めると喜び、女たちが甘い菓子が食べられると喜んでおったからな。




 旅は驚きと楽しさの連続だった。


 だが、貧しき村や荒れ果てた田畑を見た大叔父上は、何とも言えぬ表情をされておった。


 他国のしかもこの間まで敵対しておった今川の領地であり、他の者も不思議に感じておったが、世が乱れねばここも平和な村だったかもしれぬとおっしゃった時には、皆が大叔父上を尊敬しただろう。


 そして目的地の尾張は、相模や駿河とは全く違っておった。


 領民は武士を信じ、武士は領民を守り食わせておる。曾祖父の宗瑞様のようだ。と大叔父上が呟いた時、皆が驚いておったほどだ。


 荒れた田畑を皆で直しておるのも、織田領に来て初めて見た。


 また、病院なる大きな診療所にて武士から領民まで富める者も貧しき者も、分け隔てなく医者による治療が受けられると聞いた時には、にわかには信じられなかった。


 北条は織田より劣っておる。そう言われたようで悔しかった。




『お前たちもよく見ておくがいい。いずれ、お前たちは織田と戦うか同盟をするか従うか、選ばねばならぬ時が来るであろう』


 大叔父上が病院なる診療所と学校なる学びやを見て、おっしゃった言葉が忘れられぬ。


 北条はいつか織田と戦うのか?


 負けぬ。絶対に負けぬ。


 されど戦をせずに済むのなら、それもまたいいのではないか?


 分からぬ。決めるのは父上や大叔父上だ。


 だが……いつか北条を継ぐ時が来たら、相模をこんな領地にしたい。そう思える。




◆◆

北条新九郎


北条氏政の兄。史実では若くして亡くなった人。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る