第192話・酪農の始まりと望月親子

side:久遠一馬


「うわぁ、へんな牛だ!」


「牛乳がいっぱい出る牛なのよ~」


 夏も半ばを過ぎた頃、牧場村では子供たちが騒いでいる。


 表向きには南蛮から買い付けたことにして、宇宙で飼育していたホルスタイン種とジャージー種を船で運んできたんだ。


 いや、買い付けようかと思ったけど牛は宇宙で飼育してたし。DNAも同じだからいいかなって。


 子供たちは特にホルスタインの白い体に黒の模様が珍しいようで騒いでいて、リリーが嬉しそうに説明してる。


「南蛮の牛か」


「ええ。牛乳の消費量が結構増えたので取り寄せました」


 信長さんに至っては子供たちと一緒に、黒の模様が汚れでないのかと洗って確かめてるね。どっかで聞いた逸話に似てるなぁ。


 牛乳はこの時代の人は基本的に飲まない。ただ、ウチの家臣や牧場村では飲むし料理にも使う。面倒だから薬になると言ってるけど。


 最近では信秀さんも飲むようになったみたいで、信秀さんの子供たちにも飲ませてるんだとか。定期的に牧場村から清洲に牛乳を献上しているからね。


 チーズやバターなんかは結構料理にも使うから、本格的な酪農を始めることにした。在来の牛も飼ってるんだけどね。牛乳を搾るならホルスタインとジャージーがいい。


 本当は肉牛も飼育したいんだけどね。いきなりあれもこれもと増やしても大変だからさ。


 前に持ち込んだヤギも元気に居るよ。でも、ヤギ乳はあんまり美味しくないんだよね。


「牛の乳は美味いな。この前の海老の焼き物のタレはあれを使ったのだろう?」


「そうですよ。若様は他にも知らぬ間に食べてますし」


 信長さんはお酒より牛乳が好きみたいなんだよね。それに穢れとか全く気にしないし、ウチで出した料理は中身を聞く前に食べちゃうから。


 オレたちが食べるなら大丈夫だろうと考えてるみたいで、細かいことは気にしないらしい。




「ここの者たちも見違えるようになったからな。捨て子だったようには見えんぞ」


「みんな育ち盛りですからね」


 それと信長さんばかりか信秀さんまでもが牛乳を飲むようになった訳は、牧場村の子供たちが原因にある。


 孤児院の子供たちは基本捨て子だ。当然、来た時は栄養が足りずにガリガリだったりするけど、数ヵ月で見違えるように元気になってるんだよね。


 顔色もよく肌艶もいい。オレはちょくちょく来てるからあまり実感ないけど、たまに来る信秀さんとか政秀さんはびっくりする。


「ここの者は下手な武家よりいい物を食べておるからな。羨ましいくらいだ」


「そこまで贅沢はさせてないんですけどね」


 ここに来ればみんながいい物を食べさせてると言うけど、実際にはそこまで贅沢はさせてないんだよね。


 乳製品と卵。それと肉と魚とかは食べさせてるけどさ。乳製品と卵と肉はこの時代の人が食べないだけだし、魚は下魚と言われるような魚とかも食べてるんだけど。


 調味料は確かに醤油とか高級品なんだろうけど、ウチの商品は基本原価はあってないような物だからね。


 でも、尾張の食料事情は着実に改善している。


 一番はこの時代にはなかった大型の網をあちこちに貸し出したから、魚の漁獲量が増えて値段も下がった。


 特に肥料にするつもりだった干した鰯は、安いから農村なんかでも買える値段になっている。


 賦役もあちこちでやってるから、銭は農民にも回ってるしね。


 雑穀に山菜や野草を入れた雑炊が主食の農民も、最近では魚が食べられると喜んでいる。


 未来だと煮干しになるような魚なんだけどね。有りがたいって感謝されると、どうしていいか分からなくなるよ。




side:望月千代女


「父上。また人が増えましたね。さすがにそろそろ問題になるのでは?」


 お方様のお供として伊勢から戻ると、また甲賀者が増えています。そのうち、五十三家の出身者が揃いそうな勢いです。


 尾張でも久遠家に甲賀者が多いのは有名です。中には大丈夫なのかと疑念を抱く声も無くはないようです。


 尤も織田の大殿と若様は全く気にしていないので、問題にはなってはいませんが。


「六角家には新たに硝石を売ることになった。甲賀衆の引き抜きとは関係がないが、こちらには文句は来るまい。甲賀の里に対する締め付けはあるかもしれんがな」


「まだ人が足りぬのですか?」


「ああ、足りぬ。久遠家の商いはすでに東は関東から西は畿内まで広がっておる。この先まだまだ広がるのだ。とても足りぬよ」


 さすがに甲賀衆が集まり過ぎているのではと不安になりますが、まだ足りないとは。


 しかも、硝石を売ってまで黙らせるとは。殿も本気で甲賀衆をまだまだ求めているということでしょうか。


「甲賀の方は大丈夫なのですか?」


「今のところ領地を捨てたのは滝川家のみ。それに三雲のように六角家に近い家からは来ておらん」


「しかし、甲賀の望月家からもまた人が来たのでしょう?」


 今や甲賀衆は食うに困れば尾張に来ている気がします。同じ忍び働きならば久遠家の方が待遇も報酬もいいのです。当然のことですが。


 望月家でさえ甲賀から来る者が増えました。叔父は所領を守るつもりのようですが、残念ながら久遠家での暮らしと待遇を比較すると、あの所領を守りたいのは年寄りと重臣くらいかもしれません。


 仮に私に所領をやるから戻れと言われても、断固お断りします。


「六角の御屋形様は所領を維持さえすれば文句は言うまい。所領を捨てたところで、待遇を変えてまで引き留めるのは六角家では難しいからな」


 皮肉なことなのでしょう。甲賀衆を一番評価しているのは六角の御屋形様ではなく我が殿なのですから。


 ここに至っても六角家では甲賀衆の立場は変わらずですか。久遠家としては好都合なのでしょうね。


「尾張者も頑張ってはおるが、いかんせん若い者ばかりなのだ。久遠家譜代の者は本領の維持と船による交易で精いっぱいとなれば。八郎殿の苦労がよく分かる」


 久遠家の弱点はやはり人が居ないことですか。


 手広く商いをしているのです。日ノ本の外にも各地に拠点があるのでしょうし、人が足りないのも仕方ありませんね。


「どうなるか不安でしたが、八郎様とは上手くやっているのですね」


「家中で争う余裕などないわ。それにお前とて自ら禄を貰っておるではないか。争う暇があったら仕事をした方が銭になる」


 久遠家ではいろいろ変わっています。所領らしい所領が尾張にはないので禄は全て銭で頂きますが、父上が望月家として頂く禄の他にも個々で働いて貰う禄もあります。


 私も直接殿から禄を頂いておりますが、他の殿方に負けぬほどの禄を頂いております。


 滝川家も望月家もみな自ら働いて禄を得てますからね。対立や争いがないのは本当に良かった。


「それに八郎殿は人に仕えるのに向いておる。忍び働きよりもな。殿と家中を上手く繋ぎ纏めておるのは八郎殿だ」


 八郎様は武芸も忍び働きも、あまり得意ではないと以前おっしゃっていました。しかし、久遠家を纏めているのは確かに八郎様です。


 考えてもみれば八郎様も主らしい主に仕えたのは、初めてなのかもしれません。甲賀衆はそうによる合議で動きます。従って一族を代表するような身分でもなければ六角の御屋形様に直接仕えることはありませんから。


「皮肉ですね。甲賀にいれば生涯明らかにならなかった才なのでしょう」


「ああ。織田の大殿や若様も、八郎殿を高く評価しておる。織田一族の中にも久遠家に家老を出したい者はおるが、全て止められておるからな」


 八郎様の待遇と評価は甲賀でも話題になっていました。


 余所者である一介の陪臣が、頻繁に大殿に目通りが叶うのは驚きですから。


 この先も甲賀から人は来るでしょう。


 ただ、いつか六角家とぶつかった時には甲賀衆は敵味方に分かれることになりそうですね。


 その時に問題が起きねばいいのですが。




――――――――――――――――――

 天文17年。夏に久遠家が欧州から牛を取り寄せたことが久遠家記に記されている。


 日本では武士の台頭により途絶えていた乳製品や牛乳を飲むことを再開させたのは久遠家だと言われていて、当初は薬として飲まれていた。


 医聖である久遠ケティの推奨もあり、織田家では早くから飲まれていたという。


 取り寄せた牛はホルスタイン種とジャージー種のようだが、詳しい入手ルートは不明。


 この二種は現在も日本圏ではお馴染みであり、長い歴史の影響か欧州の同種の牛とは別物と扱われている。


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