第96話・妻たちの花見
side:柴田勝家の妻。ふみ
「体はいかがだ?」
「はい。労咳など嘘のように良いです」
穏やかな春の日。暖かな日差しと心地よい風が吹き抜ける中、私は旦那様と共に清洲へやってきました。
いつ以来でしょう? まさかこんな日が迎えられるとは、夢にも思いませんでした。
旦那様も以前は私の身を案じてばかりでしたのに、最近は笑顔を見せてくれます。それが何よりも嬉しゅうございます。
私は不治の病と言われる労咳を患っております。
祈祷に医師や薬師の治療まで、旦那様は無理をして頼んでくれました。聞けば弾正忠様が費用を出してくれたこともあったそうです。
それでも一向に良くならない私は、旦那様に離縁していただくように何度かお願いしました。
妻としての役目も果たせぬ私は、旦那様の重荷になるばかり。ならば離縁していただき、新たな妻を迎えるのが旦那様の幸せ。
しかし旦那様は離縁してくれませんでした。離縁どころか、つまらぬことを考えるな。そうお叱りを受けました。
故に私は祈りました。自らのためではなく旦那様のために、せめて子を産みたいと。
そんな願いが通じたのでしょうか。あの日やってきたケティ様は、不治の病のはずの労咳から私を救ってくれました。
労咳を治すには、薬を長い間飲まねばならないそうです。
ですがきちんと薬を飲めば治り、殿の子を産むこともできると言われております。
まだ労咳は完治してないようですが、今日はこうして織田家の花見の会に供をできるほどになりました。
皆様に感謝して心から礼を言わねばなりませんね。
side:エル
織田家中の主要な武士の奥方様たちですが、あいにくと私も知りうる情報は多くありません。
武士ですら歴史に名が残らぬ人が多いこの時代。女性で名が残るのはほんの一握り。その名も正式な名ではなく通称なのですから、後の情報など
「お久し振りです。エル殿、ケティ殿」
「お久し振りでございます。くらの方様」
一応礼儀作法は最低限押さえていますが、実際のところ妻たちの関係や序列がどうなっているかは未知の領域ですからね。
あまり目立たぬようにというのは無理でしょうが、せめてでしゃばらぬようにとしていると、大橋様の奥方様であるくらの方様が声をかけてくださいました。
弾正忠様の娘にして若様の姉であるくらの方様は、二十代半ばでしょうか。津島に来た頃には、不便はないかと声をかけてくれた私たちの数少ない顔見知りです。
どうやら
「御方様へのご挨拶はまだでしょう? 一緒に参りましょう」
「ありがとうございます」
今回も私たちが慣れぬことを見越して、助け船を出してくれたようです。
奥方様たちの中心は当然、弾正忠様の継室であらせられる土田御前様。馴染みの方や重臣の奥方様達から挨拶に出向いていますが、私たちはタイミングが難しいですから。
江戸期のように共通する作法や決まり事があれば、まだ楽なのですが。無論最低限の作法や決まり事はあるようですが、そこまで厳格でもないのは、織田家がまだ歴史が浅いことも関係するのでしょう。
「お久し振りでございます。御方様」
「おお、くらか久しいの。一緒に居るのは久遠家の者か?」
「はい。エルと申します」
「同じく、ケティ」
土田御前様。弾正忠様の継室と言われる御方。元の世界の一般的なイメージよりは穏やかそうな方ですね。
「いろいろ気を使わせておるの。そなたたちからの献上品は娘や息子共々、有り難く使っておる」
「有りがたき幸せに存じます」
胸の内までは私も読めませんが、話してみても悪い御方ではないようですね。まさか献上品の返礼を言われるとは、少し予想外でした。
彼女の実家は諸説ありますが、織田弾正忠家の地位や力を考えると、大名クラスでない可能性が高い気がしますね。
それなりに苦労をしてきたと言えば、失礼になるのでしょうか。少なくともこの時代の武家の正室として、配慮や気遣いができる御方と見るべきですね。
史実の信秀公死去の後は、信長公があまりにも常識を逸脱していたのは確か。家中を纏めようと考えての行動と受けとることも可能でしょう。
現状の土田御前様と若様との関係は、少し疎遠だと聞いていますが不仲とまでは言われていません。若様は少し気難しい一面がありますからね。少しコミュニケーション不足でしょうか。
後継者問題も弾正忠様が健康なので、あまり表だった話には出ていないようですから。史実の土田御前が推した信行様は、まだ元服前。注意を払わねばなりませんが、林兄弟も排除済みであまり過度に気にする必要はないかもしれません。
「ケティ様」
土田御前様と話を終えると、十代後半くらいの一人の女性に声を掛けられました。
私は初対面ですが、どうやら柴田殿の奥方のようです。
「薬は飲んでる? それだけが心配」
「はい。言い付け通りに飲んでおります」
ケティは何度か往診に行っているようで、いろいろ相談を受けているそうです。主に子供のことのようで、彼女はまだ若いのでしばらくは治療に専念するようにと、アドバイスをしたようですが。
「焦ったら駄目。必ず治るから」
「はい。心得ております」
この時代の柴田殿は、織田家の中の立場はまだ高くありません。無論低いとも言えませんが。
ただ愛妻家のようで、彼が妻の治療にあちこち駆けずり回っていたのは、尾張では有名な話だとか。
そんな奥方が元気になり姿を見せたことで、各家の奥方様たちも驚いていますね。この機会に声を掛けて挨拶しておきましょう。
健康や食事の話などできれば、親しくなれるかもしれませんからね。
side:平手政秀
「もし良ければ尾張へ来ぬか?」
朝廷へ献上品を届ける役目を終えたワシは、そのまま京の都と畿内を見聞しながら人集めに歩いておる。
鍛冶職人は元より大工・木工・染め物・織物など、欲しい職人は多い。
本当は堺辺りで集めた方が早いんだろうが。堺の商人や畿内の座に警戒されても困るからの。
それに必ずしも名の知れた、一流の職人でなくても構わんのだ。それなりにできるならば仕事はいくらでもある。
「これは……、凄いのう」
畿内で誰が力を持つかは、町を見れば分かるのやもしれん。阿波の三好と寺社が特に力があるようだの。
ワシはそのまま少し足を延ばして、京の都でも噂になっていた石山本願寺まで来たが。ここは凄いわ。
寺と町を
若は戦のない世を考えておられるようだが、城を構え武力で物を言う寺社をいかがする気か。
加賀に至っては、悪い噂しか聞かんしの。やはり一向衆の扱いは気を付けねばならぬな。
やはり沢彦殿のような僧は、多くはないのであろう。御仏もさぞや嘆いておられような。
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