第60話・とある未来の電子自由百科事典

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 清洲城の戦い


 天文16年(1547年)に尾張国清洲にて行われた合戦。




 戦争:戦国時代(日本)


 年月日:天文16年(1547年)12月


 場所:尾張国清洲


 結果:織田弾正忠軍勝利、織田大和守家断絶



 交戦勢力


 織田弾正忠軍          織田大和守軍



 指導者・指揮官


 織田信秀            坂井大膳

 織田信長            織田三位

 織田信光            坂井甚介

 平手政秀            

 大橋重長

 水野信元




 戦力


 5,000           500~1000



 損害


 軽微              壊滅




 概要


 尾張の下四郡守護代配下の織田信秀が、名実共に尾張を統一するために、主家である清洲の織田大和守家を攻めた一戦。


 この合戦により織田弾正忠家はようやく名目上の主家を排除して、戦国大名として大きな一歩を踏み出した。




 合戦の経緯


 合戦前の情勢


 尾張国は守護だった斯波氏が没落する一方、織田弾正忠家が急速に力を付けて勢力を広げていた。


 当時織田弾正忠家は、西は美濃の大垣から東は三河の安祥城まで勢力を広げていて、すでに事実上の尾張の戦国大名であった。


 しかし当時の織田信秀は、表向きは守護代配下の三奉行のままであり、特に主家であった清洲の織田大和守家とは、微妙な関係が続いていたことが窺われる。


 ただ、この年に織田信秀の嫡男である織田信長に久遠一馬が臣従したことで、尾張の勢力の均衡が破れたことがこの合戦の遠因ではと見られている。



 合戦までの経緯


 久遠一馬による南蛮貿易と南蛮技術が織田弾正忠家に入ると、織田信秀はその財力に注目して、戦による侵略戦争から銭による経済戦争に方針をガラリと変えていた。


 方針転換には織田信長の進言があったとも、久遠一馬の進言があったとも言われるが、織田信秀がそれを受け入れ実行したのは確かである。


 当時は戦による略奪で生きていた戦国大名の中で、経済戦争を真っ先に理解して仕掛けた織田信秀は、画期的なことであった。


 経済戦争の発想の元は久遠家と見られていて、実際に織田弾正忠家が支配していた津島や熱田の力も使い、久遠家が手に入れた産物を中心に売り捌くことで、巨万の富を得たとも言われる。


 直接の切っ掛けはこの冬に蔓延した、風邪かインフルエンザと思われる流行り病の対策であった。


 近代医学の祖として名高い医聖久遠ケティが、自ら陣頭指揮を執り流行り病の対策をしたことだと思われる。


 織田信秀は彼女の進言により、支配領域ばかりか尾張国中に流行り病の流行を知らせて注意を促す書状を発給している。


 彼女の流行り病対策は、患者を隔離して久遠家が集めた漢方薬と食事を与えるというシンプルなものだったが、その効果は絶大でその後の流行り病対策のお手本となるほどだった。


 しかしここで問題になったのは、あまりにも効果がある対策は周囲との明確な差が、誰が見ても明らかなほど生まれてしまったことである。


 織田信秀はこれを利用して、知多半島から三河西部に領地を持つ水野信元を臣従させると、長年微妙な関係だった清洲との対決姿勢を強めた。


 この頃久遠一馬は織田信長の居城であった那古野に居たようで、那古野の流行り病対策が一番進んでいたようだ。


 那古野から近い清洲では、そんな織田信秀の力と名声を落としたいと考え、流行り病に罹った子供や老人を那古野方面に追放するという対策をした。


 しかし織田信秀は追放された患者を受け入れつつ、これを利用して清洲との境に関所を設置して、更に砦を築く姿勢を見せたことで清洲を圧迫した。


 対する清洲の織田大和守家は守護の斯波氏と守護代の織田信友が傀儡とされていて、重臣だった坂井大膳などが実権を握り治めていたようだ。


 関所と砦に危機感を募らせた坂井大膳たちは、流行り病対策の中心的立場であった久遠家を、追放した患者に紛れ込ませた者で襲撃を試みるも、襲撃者が久遠家に内通したことで失敗。


 織田信秀はこれを口実に、織田大和守家に手切れの使者と開戦の通告をして戦になる。




 清洲の合戦


 織田信秀は那古野に尾張国内の支配地域から僅か一日で五千もの兵を集めた。


 経緯は不明だがこの日出陣する際には、何故か清洲に居るはずの守護の斯波義統と守護代の織田信友が居て、織田大和守家を私物化する坂井大膳以下重臣を討伐するとの名目で清洲に進軍する。


 守護と守護代がどうやって那古野に来たかは不明で、一説には傀儡とされていた両者が隙をついて逃げ出したとも、織田信秀が救出させたとも言われるが定かではない。


 なお俗説として久遠家が抱える滝川忍軍が救出したとの話もあるが、これは後世の創作と言われる。


 御輿を失った織田大和守家はろくな兵も集まらず、元々坂井大膳の専横に嫌気がさしていたと言われる河尻与一らが離脱して、集まった兵は千を切っていたと見られる。


 坂井大膳らは町に引き込み火を放ち殲滅しようとするも、数の違いと織田信秀が流行り病の患者を助けた仏の殿様と噂になってることから、兵たちがあっさり逃げ出して失敗。


 清洲城に籠城する方針に転換するも、こちらは久遠家が用いた金色砲(青銅砲)によりまたもや兵たちが逃げ出して失敗。


 しかも織田信秀は金色砲と火縄銃と弓による火力集中で敵の士気を挫いたらしく、坂井大膳はあっさりと降伏して終わる。




 合戦後の情勢と影響


 織田大和守家最後の当主織田信友が隠居したことにより、織田大和守家は断絶した。養子で織田大和守家を継いだうえに実権がなかった織田信友は、大和守家には未練がなかったようであっさりしていたと言われている。


 織田信秀は守護を擁したことにより、ようやく尾張統一の大義名分を獲得した。


 織田弾正忠家で言えば美濃の大垣から三河の安祥城まで支配下に治めていたが、それらの統治には人口が多く交通の要所である清洲が必要不可欠だった。


 この戦以降、不安定だった織田信秀の地位と織田弾正忠家の領地は安定していくことになる。


 なお本合戦を久遠一馬の初陣と捉えていたようで、それを祝う書状が現存する。


 それと日本で初めて合戦に大砲を用いたのはこの戦だと言われていて、磨きあげた青銅製の大砲は夕日に照らされ金色に輝いて見えたとの逸話があり、織田信秀により金色砲との名を貰い久遠家の代表的な武器として後世で有名である。




 合戦を巡る議論


 一連の情勢と結果から、織田信秀は流行り病が無くても知多半島と清洲を領有化しようと考えていたと思われ、久遠家が金色砲を用意していたことからも、一連の策には久遠家が深く関わっていたとも言われるが、歴史的な証拠は今のところない。


 ただ久遠家仕官の前後で織田信秀が変わったのは事実で、大きな影響を与えたのは確かと思われる。



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