19 まぶしい中庭

 一夜明けた、土曜の午前。

 わたしは、英語の宿題に取り組もうとしていた。けれど、どうしてもやる気が起きない。

 昨日の夜は、結局ヤシロさんも小鬼も姿を現さなかった。漫画の作業は、当然無しだ。

 わたしは机の引き出しを少しだけ開けて、そこに入ったままの描きかけの原稿をのぞいた。

 昨日はいろいろと話を聞いてもらったのに、悪いことしたな……。

 引き出しを閉め、息をつく。そうして、ノートの表紙に書かれた「ヤシロ」と言う文字を、なんとなく指でなぞった。

 気分を切り替えなきゃ。お昼まで、まだ時間がある。近所のコンビニでアイスでも買ってこよう。

 がちゃり、と玄関ドアを開けて外に出る。その途端、隣の部屋の前に立っていた人と目が合った。

「あっ、よかった。会いたいと思ってたんだ」

 驚くことに、そう言ってわたしに歩み寄ってきたのは高瀬さんだった。

「高瀬さん。来てたんですね」

「ちょうど今、お線香あげてきたところ。お母さんと、いろいろ話し込んじゃった」

 昨日の今日で来るなんて、びっくりだ。けど、ヤシロさんのお母さんとの約束を果たせたことに、ほっとする。

「ね、わたしこの後学校行くんだけど、よかったら一緒に来ない? 校内を案内してあげる」

 ……そうだった。わたしが黎開学園を志望しているという話は、まだ訂正していなかったんだ。

 わたしは少し迷った。志望している、ということは嘘だけど、興味がないわけじゃなかった。今からがんばって勉強すれば、手が届かない高校ではないのかもしれない。

「いいんですか? お願いします」

 わたしがそう言うと、高瀬さんはにっこり笑った。

 初めて会ったときの人形のような印象は、もうどこにもなかった。


  *


 バスで来たという高瀬さんとともに、わたしもバスに乗って高校へ向かうことにした。自転車で二十分の距離は、バスだとあっという間だ。

「土曜日も学校なんですね」

 バス停から降りて、歩きながらわたしは言った。

「ああ、第一と第三土曜は普通に授業があるんだけどね。今日みたいに本来なら休みの土曜も、わたしは学校で委員会の仕事をしていることが多いの」

「委員会、かけもちで大変そうですね」

「好きでやってることだから。やりがいもあるし、大変だけどやってて楽しいの。一人一人が自分の仕事を果たすことで組織がうまく回っていくっていうのは、すごく気持ちがいいことなの」

「なるほど。皆さん、仲が良いんですか?」

「まあ、良いか悪いかと聞かれれば、良い方なんじゃないかな。イズミ君みたいに変な子もいるけど、仕事はちゃんとやる人だから、信頼はしてる」

 高瀬さんの口からイズミさんの名前が出たことに、わたしは驚いた。変な子、と言ってはいるが、信頼しているという情報は大きい。

「たぶん今日も来てる。あの子はなんていうか、犬みたいにくっついてくるんだよね」

 犬……。

 いや、ペットが恋人に化けるって可能性も、万に一つくらいはあるかもしれない。

「束原さんは、どんな漫画を描いているの?」

 校門をくぐったところで問われ、どきっとする。そうだ。わたし、「漫画家志望」ってことになってたんだった。

「あの、高瀬さん、ごめんなさい。実はわたし、漫画家になろうとは思っていないんです。あれは、その……」

「あ。やっぱり、そうだったんだ」

「なんというか、会話の流れで……って、え?」

 きょとんとしたわたしに、高瀬さんはくすりと笑った。

「長日部君がそう言ったときの束原さんの反応で、なんとなくそうじゃないかと思ったの。何か別の目的があって、話のとっかかりを作ろうとしただけだったんだろうって。ねえ、本当の目的は何だったの? ヤシロ君のことを、わたしに伝えること?」

 高瀬さんが、真剣な目つきでわたしを見つめる。まさか、本当のこと――成仏のための縁結びだなんて、言えるわけがない。

「そうです。ヤシロさんのことを、伝えたかったんです」

「それだけ?」

 高瀬さんが首をかしげる。肩までの黒髪が、さらりと揺れた。

「違ったら、申し訳ないんだけど。束原さん、この間から、何か悩んでるように見えるの」

「悩んでる? わたしが、ですか?」

「うん。黎開学園を志望しているっていうのもわたしを呼び出すための口実で、本当は、何か別のことを話したかったんじゃない?」

 ぎくりとする。さすが、高瀬さんだ。この人に隠し事をするのことは、実はとんでもなく難しいことなのかもしれない。

「――ごめんなさい。口実っていうのは、確かにその通りです」

 わたしは、観念したように言った。けど、縁結びのことを話すつもりはない。

「ええと……わたし、将来の夢とか、何もなくて。自分が何をしたいのか、何ができるのか、全然わからないんです」

 もう、できれば嘘はつきたくなかった。わたしは、ぎゅっと拳を握って続ける。

「だから、悩んでるように見えたのなら、それが原因かもしれません。心配していただいて、ありがとうございます。わたしは大丈夫ですから」

「なるほどね。それは、よくわかるよ」

「え?」

 昇降口を前に、わたしは足を止めた。高瀬さんは素早く校内履きに履き替えると、わたしのために来客用のスリッパを出してくれた。

「わたしも同じだったんだ。勉強は好きだったけど、自分が将来何になるかっていう具体的なイメージは、全然わかなかった。だからこそわたしは、この高校に来たの」

「だから、こそ?」

 お礼を言ってスリッパを履き、微笑む高瀬さんを見上げる。

「この学校はね、生徒の自主性を重んじているから、行事や学校生活に対して、先生方がほとんど口を出さないの。普通の学校より自由の範囲が広い。だから、他の学校ではできない、いろいろなことができる。わたしがたくさんの組織に所属しているのは、いろんな仕事を通して、自分に何が向いているのかを知るためなの」

 高瀬さんは、前に立って廊下を進んだ。軽く振り向いた横顔が、いきいきとしている。

「もちろん、自由には責任も伴うし、楽しいことばかりじゃない。でも、だんだん見えてきたの。わたしはイベントの企画や運営をするのが好きだってこと。スケジュール管理能力や、リーダーシップがあるらしいってこと。おかげで、広告代理店に就職するっていう目標ができたんだ」

「広告代理店」

 へえっと目を丸くする。詳しくは知らないけど、CMの企画をしたりする会社だったはず。確かに、高瀬さんに合っていそうだ。

「だから、やりたいことがないって思ってる束原さんには、ぴったりの学校かもしれない。ここは、自分の可能性を見つけられる場所なの」

(自分の、可能性……)

 ぱっと、目の前が明るく開けた気がした。

 そうか。わたしの中には、何もないわけじゃない。可能性の種が埋まっているんだ。

 今はまだ見えないけど、大事に育てていけば、きっと芽を出し、花を咲かせてくれるはず。

「高瀬さん。ありがとうございます。わたし、この高校に入ること、考えてみます」

 われながら、心地よい声と言葉だった。高瀬さんは「そう」とうれしそうに微笑んだ。

「束原さんなら、きっと入れる。待ってるよ」


  *


 この間は校門付近から見上げただけだっ生徒会室に、わたしは足を踏み入れた。そこは机が中央に四角く並べられた教室だった。壁際の棚や黒板、ホワイトボード、掲示板にいたるまで、ごちゃごちゃとさまざまな紙や文字で埋め尽くされている。

「あ、高瀬さん。……と、こないだの中学生!」

 声だけがした、と思うと、死角になっていたホワイトボードの陰からイズミさんが姿を現した。相変わらず茶髪がツンツンしている。

「イズミ君。あなただけなの?」

「さっきまでワラワラいたんだけど、みんなコンビニ行っちゃって。おれ一人でアンケート集計して、終わらせたぜ。えらい?」

「はいはい、えらいえらい」

 高瀬さんは慣れた口ぶりで言うと、イズミさんから受け取った紙に目を落とした。

「あ、束原さんは適当に座って。飲み物買って来るね。お茶でいい?」

「いやいや、おれが行くよ。束原さんも一緒に。好きなの買ってあげるよ」

「あ、あの、こないだの喫茶店のお代……」

 わたしが財布を取り出そうとすると、イズミさんは急に真面目な顔をして首を振った。

「中学生からお金は取れないよ。言っただろ、あれはおれのおごり。ほら、行こう。ついでに学校案内してやるよ」

「ちょっとイズミ君、それはわたしの役目なんだけど。そのつもりで連れて来たんだから」

「高瀬さんは仕事があるだろ? おれに任せなって。これでも面倒見はいいほうなんだから」

「どうだか」

 そう言いながらも、高瀬さんはイズミさんの提案を認めたようだった。

「束原さん、変なことされたら大声出すんだよ」

「しないって! 高瀬さんが言うと冗談に聞こえないだろ」

 なるほど。高瀬さんが冗談を言う余裕があるくらい、この二人は親しいらしい。高瀬さんは笑って手を振った。

「行ってらっしゃい。あんまり遠くまで行っちゃだめだからね」

「まったく、高瀬さんはお母さんみたいだな」

 イズミさんがそう言ったとき、高瀬さんの顔にふっと影が差したように見えた。夢の中のヤシロさんの言葉を思い出す。高瀬さんもきっと、イズミさんの言葉によってヤシロさんのことを思い出したのだろう。

 やっぱり、高瀬さんの中に、ヤシロさんはまだ生きている。


「高校ってムダに広いよなー。特別教室棟も体育館も遠いから、移動がけっこう大変でさ。休み時間がほとんど移動でつぶれるっていう」

「え、そんなに遠いんですか?」

「ちょっと大げさだけどね」

 イズミさんはそう言って楽しそうに笑った。

 白い廊下は、窓からの光を反射してつやつやと光っている。窓側と教室側にそれぞれ並ぶロッカーの群れや、その上に置かれたスニーカーや竹刀などの雑多なありさまが、さきほどの生徒会室のごちゃごちゃ感と似て、中学にはない空気感を作り出している。

 そこにはあこがれを抱かせるようなわくわく感があって、わたしは思っていた以上に楽しい気持ちで校内を見学することができていた。

「ここ、いい学校だよ。束原さんが入ってくれたらうれしいな。一緒に委員会やろうよ。束原さん、仕事できそうだし」

「そんなことないですよ」

 そう言いながら、わたしはここで過ごす高校生活を思い浮かべていた。がんばって勉強を続ければ、きっと入れる。そうしてわたしも、高瀬さんみたいに、自分の可能性を探るんだ。

 そのとき、ふとひとつの面影が頭に浮かんだ。

(長日部君は、どこの高校に行くんだろう)

 ずきんと胸が痛んだ。中学を卒業したら、彼とは会えなくなる。

 いや、その前に、もうわたしとは話してくれなくなるかもしれない。あんなふうに、話の途中で逃げ帰ってしまったんだ。

 謝ることができないまま週末になってしまって、次に会えるのは月曜の学校。そのとき謝ったとしても、もう遅いのかもしれない。

 長日部君抜きでは、縁結びも難しくなる。そうなったら、どうする? 心をこめてトイレ掃除、五十回する?

 にわかに、気持ちが焦ってきた。わたし、こんなことしてる場合じゃない。今すぐ長日部君に謝って、これからどうするか話し合わなきゃ。

 高瀬さんの縁結びは、長日部君が言うように、きっと難しいだろう。高瀬さんの中で、ヤシロさんの存在は、きっととても大きかった。そして唯一色のついていた糸はおそらく、ヤシロさんの死によって切られてしまった。

 四十九日までまだ時間はあるけれど、その間に高瀬さんとイズミさんを両想いにするのは、ちょっと無理な気がする。

 イズミさんが高瀬さんを見ているようには、高瀬さんは彼のことを見ていない。高瀬さんは、いまだにヤシロさんのほうを見ている。

 そして、長日部君も。彼は、わたしのほうを見ていない。視界にすらない。どれだけこちらが見つめたとしても、振り向いてはくれないんだ。

「そういえば、こないだの子って彼氏?」

 イズミさんに言われ、びくりとする。長日部君のことを考えていたことを見抜かれたようで、答える声が裏返った。

「ち、違いますよ! ただの、友達、です」

「そうなの? お似合いだったけど」

「い、イズミさんと高瀬さんも、お似合いですよ?」

 無理やり話の焦点を変えようとする。イズミさんは「そう?」とあからさまにうれしそうな顔になった。

「高瀬さん、いいよね。あこがれてるやつ多いんだよ。でも、どんだけアピールしてもスルーされちゃうんだよね。たぶん高瀬さん、こないだの、その……ヤシロ? ってやつのこと、まだ好きなんだと思う」

 その意外な言葉に、わたしは驚いた。

「イズミさん、ヤシロさんのこと、ご存知なんですか?」

「んー、ちょこっと小耳に挟んだというか、ね。高瀬さんからは何も聞いてないけど」

 そうだろう。高瀬さんがヤシロさんのことをイズミさんに話す理由はない。じゃあ、喫茶店のときの話だけでヤシロさんのことを知って、その後ヤシロさんについて調べた……ってこと?

 でも、調べるって、どうやって? ヤシロさんのこと、高瀬さんのヤシロさんへの思い、それをこの人は一体どこから……

「そういえばさ、話変わるけど、ここの歴史、知ってる?」

「え?」

 突然話題が変わったことに、わたしはとまどった。イズミさんは階段を下りながらだんだんとその足を早めている。そういえば、飲み物を買いに来たはずなのに、一体どこまで行くつもりなのだろう。

「あ、自販機、この下にあるから」

 ――まただ。

 ぞわりと、いやな感覚が体を走る。

 この人、わたしの心を読んでいるんじゃないだろうか。

 いや、でも、そんなことってありえるだろうか。小鬼のことがあるから、ただの偶然を超能力に結び付けて考えてしまっているだけかもしれない。

 そもそも、長日部君のような特殊能力を持つ人間が、身近にそう何人もいるわけがないじゃないか。

 そんな思いとは裏腹に、心臓の鼓動が速くなっていく。

 イズミさんは、身を固くするわたしを見上げ、にっと笑った。

「高瀬さんの言ったこと心配してる? そんなに警戒しないでくれよ。学校内で、変なことできるわけないだろう」

 わたしは答えなかった。そのかわり、スカートのポケットにそっと手を触れ、その中にある水晶の感触を確認した。イズミさんが笑う。

「ほら、そこから外に出られるから」

 階段を下りた先に扉があった。非常口の印が緑色に光る下で、イズミさんはその扉を勢いよく開けた。まぶしい太陽光が、暗い階段に差し込んでくる。

 わたしは扉からのぞくように外を見た。大きな木が植えられた四角い芝生と、それを囲む石畳。いくつかのベンチと、居並ぶ自動販売機の群れ。

 少しだけ、ほっとした。イズミさんに続き、わたしも外に出る。

 中庭には誰もいなかった。自動販売機で緑茶を買うと、イズミさんはそれをわたしに手渡した。

「ここ気持ちいいんだよね。そうそう、歴史の話なんだけどさ。ここは昔、寒村だったんだ」

 イズミさんはカフェオレのボタンを押しながら言った。

「でさ、口減らしのために老人や子供を殺してたんだって。そうしないと生きていけなかったんだ。悲しい話だね」

 わたしは、ゆっくりイズミさんから後ずさった。

 何を言おうとしている? わたしを怖がらせようとしているのだろうか。一体、何をしようと……?

「でさ、いま君が立ってるここ、この中庭。この下に、殺された村人が大量に埋められてるんだ。この話自体は有名なんだよ。心霊好きの間では、近くにある公園がそうだってことになってるらしいけどね。それは違う、正しくはここ。そしてそれを知ってるのは、このおれだけ」

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