18 優等生の不安
『おい、このせんべい、これおれの?』
ぐったりとした心と体を引きずって部屋に入ると、ヤシロさんがあぐらをかいて座っていた。その前のミニテーブルには、お母さんが置いただろうせんべいの小袋が数個置かれている。
「……違うけど」
『おれのために置いといたんだろ? 一枚くれよ。いや二枚』
わたしは返事をする気力もなく、うつぶせにベッドに倒れ込んだ。ヤシロさんが声をかけてきたけれども、何も話す気がしない。
突然いなくなったと思ったら、のんきにわたしの部屋でせんべいを眺めてたのか。この人は、自分の立場をわかってるんだろうか。本気で徳を貯めてくれないと、わたしが困るのに。
……ああ、いやになる。わたしってほんと、自分のことしか考えてない。
『おい、どうしたんだよ優等生』
「……優等生じゃないし」
『嘘だ、成績いいんだろ。小鬼に聞いたぞ』
「べつに、好きで優等生やってるわけじゃないから」
投げやりな調子で言い放つ。
優等生。響きはいいのかもしれないけれど、わたしはこの言葉が好きじゃない。ものすごく窮屈で、なんだかすごく、嘘くさい。
『何だ、それ。意味わかんね』
ヤシロさんの声が、途端に鋭くなる。
『勉強、好きなんだろ?』
「べつに、好きじゃない」
『じゃあ、なんでやってるんだよ』
心の中にたまっていたモヤモヤに、イライラが足されて大きくなる。わたしはわざと大きくため息をついて、ヤシロさんとは反対方向へ顔を向けた。
『なんか、夢があるから勉強してるんじゃないのか? 医者とか、弁護士とか。エマ、そういうの似合いそうだよな』
――ボフッ!
鈍い音とともに、枕が壁にぶつかってどさりと落ちる。
『おわっ。何すんだよ、いきなり』
「みんながみんな、夢を持って生きてるとは思わないでよ」
『なに怒ってるんだよ』
ヤシロさんの声が近くなる。わたしは布団に顔をうずめた。
「怒ってない」
『怒ってるだろ。なんかヤなこと言っちまったんなら、謝る。悪かった』
「だから、怒ってないってば。謝るなら、わたしじゃなくてお母さんとか、高瀬さんに謝ったら?」
『は? なんでそうなるんだよ』
どこまでもとぼけた様子のヤシロさんの声に、かあっと頭が熱くなるのを感じた。
「だって。だって、まわりにいる人のことより、夢を大事にしてたじゃない。夢を優先させて、そのまま死んじゃったんじゃない」
言葉が、止まらなかった。
途中で、まずいと思った。違うと思った。でも、止まらなかった。
出しきってしまうと、急に頭が冷めてきた。かと思うと冷たくなって、目からじんわりと涙がこぼれた。
「ごめん。わたし……」
『小鬼から聞いたよ。エマの親父さんのこと』
「え?」
ヤシロさんの落ち着いた声に、ゆっくりと顔を上げる。ベッドの上にあぐらをかいて浮かんでいるヤシロさんは、ぼんやりと宙に視線をただよわせていた。
『つっても、四年前に亡くなったってことだけだけどな。同じ母子家庭でも、うちとは違う。うちは離婚だからまだどっかで生きてるし、会いに行こうと思えば行けるからな』
「そう……なんだ」
知らなかった。というより、知ろうとしていなかったのかもしれない。
『おれは、たしかに夢を大事にして死んだ。それは、否定のしようがねえ』
「あ、違うの! あれは……」
『わかってる。けど、死ぬなんて思ってなかった。そりゃ、人間だからな。いつかは死ぬってことはわかってた。だけど、それが明日だとか思わねえじゃん。人生は一度きりだし、大事なもんはひとつじゃねえ。エマの親父さんのことは詳しく知らないけど、、夢を大事にすることが、エマを大事にすることにつながるって信じてたのかもしれない』
「わたしを……?」
おぼろげな記憶の中の、静かな横顔がよみがえる。
医者になることが夢だったお父さん。わたしじゃない、たくさんの病気の子供達と向き合い、助けていたお父さん。そして、わたしという娘を持つ父親だったお父さん。
それらは、全部本当だ。どれも全部、本当のお父さんの姿だ。
『ま、本人と話してみないかぎり、わからねえけどな。とんちんかんなこと言ってたらすまん。だけど、親父さんもきっと、おれと同じだったんじゃねえかな。こんなに早く死んじまうなんて、これっぽっちも考えてなかったはずだ。ずっと続く未来を、思い描いてたはずだ』
わたしは、ヤシロさんのぼさっとした後頭部を見つめた。実際にそうは言わなかったけれど、最後に「おれみたいに」という言葉が付け加えられたような気がした。
「ごめんなさい」
急に、自分がすごく小さく恥ずかしいもののように思えて、わたしは頭を下げた。
「わたし、あんなこと言うつもりじゃなかった。ヤシロさんは、誰にも謝る必要なんかない。好きで死んじゃったわけじゃないのに、ひどいこと言って、本当にごめんなさい」
『べつに、謝らなくていいって。気にしちゃいねえよ。でもエマ、帰ってきたときから、なんかいつもと違ったよな。何かあったのか?』
長日部君の顔を思い出し、あわてて首を振る。
「ううん! べつに、何も。ただ、えっと……わからなくなって」
『わからない?』
「うん。たとえば、なんで勉強してるのか、とか。将来、何をすればいいのか、とか」
『ふーん、なるほどな。中学生らしい悩みだな』
妙に年上らしい言葉を吐いたヤシロさんに、私は思わず笑いをこぼした。
「ヤシロさんは、いつ漫画家になりたいって思ったの?」
『ああ。小学校一年の頃だな。休み時間に漫画を描いてたら、先生に褒められたんだよ。上手いうまい、漫画家になれるって。今思えば本気で言ったわけじゃなかったんだろうけど、褒められることなんてめったになかったから、うれしかったんだろうな。それで本気になって、暇さえあれば漫画を描くようになったんだよ』
「人に言われて、なの?」
『それだって、立派なきっかけだろ? そもそも、いくらその気になったからって、楽しくなけりゃ続けてねえ。おれには漫画が合ってたんだ。エマは違うのか? 勉強が合ってないと感じるのか?』
「そういうわけじゃないけど」
むしろ、勉強は楽しい。繰り返し練習したり、教科書をよく読んで理解したりすれば、テスト問題は簡単に解ける。わかることだらけで、自分の頭の引き出しの中から答えを見つけ出す作業がすごく楽しい。だからこそ、続けてこれた。
『でも、好きじゃないんだろ』
「わからない。さっきはそう言ったけど、嫌いってわけでもない気がする」
『じゃあ、続けてりゃいいじゃねえか。理由なんて必要ねえだろ』
「だけど、不安なの。これでいいのかって」
『不安? なんでだ?』
「ヤシロさんも、長日部君も、みんな将来のこと考えて、夢に向かって進んでる。でも、わたしにはそれがない。勉強だけしてるうちにあっという間に大人になっちゃって、たくさんある選択肢の中からどれを選べばいいのかわからなくて、迷ったあげく、間違えて後悔するんじゃないかって、不安になるの」
言葉に出しながら、そうか、とわたしは不思議に納得していた。
わたしは、怖いんだ。自分の中に、目指すべき未来の姿がないことが。
だから、どっちに進んだらいいのかわからなくて、道の途中でじたばたしているんだ。
『死んだらもう、間違うことすらできねえんだぞ』
「え?」
ヤシロさんは、真剣な顔をずいっとわたしに近づけてきた。
『たしかに、おまえだっておれと同じように、いつ死んじまうかわからねえ。でも、今は生きてる。生きてんだぞ。おまえは、おれとは違う。何だってできる。もったいねえよ! 今のこの時間を、大事にしろよ』
おれとは違う、という言葉が、胸に刺さった。
わたしは、「うん」と大きくうなずいた。
「ごめん。そうだよね。ありがとう、ヤシロさん。わたし、何か考えてみる」
わたしの言葉に、ヤシロさんはふっと表情をゆるめた。
わたしの、やりたいこと。なんだろう。突然、大きな草原の真ん中にぽんと放り出されたような気分だ。
今までわたしは、こんな自由さの中から何かを選び取ろうとしたことなんて、一度もなかった。
わたしが、本当にやりたいこと。あるのかどうかもわからないそれを、わたしはちゃんと、見つけることができるんだろうか。
『ま、勉強はしとくに越したことはねえかもな。大人になってから、もっと勉強しときゃよかったって後悔してもおせえし。遊び歩くのはそこそこにして、そろそろ勉強に身を入れたほうがいいかもな』
「遊び歩くって何! 誰のせいでこうなってるわけ? 今日だって、大変だったんだから」
言いながら、長日部君の顔が浮かぶ。逃げるようにして帰ってきてしまったこと、やっぱり謝らなきゃ。
『そういえば、今日おれを弾き飛ばしたのはどいつだ? やっぱ長日部か?』
「え?」
急に言われてわたしは聞き返す。
『喫茶店だよ。おれがいたの、おまえも見ただろ。いきなり何かに飛ばされたんだよ。おまえか長日部かどっちかだろ』
「まさか。そんなこと、するわけないでしょ。自分で出て行ったんじゃなくて?」
『違うって。ていうか、あの高校の近くに行くと飛ばされることが多いんだよな。あそこなんか結界でも張ってあるのか?』
高校の近くに?
不思議だ。水晶をかざさなくとも、幽霊を追い払う方法が何かあるんだろうか。
「どこかに、盛り塩でもしてあるのかな。それか、お札とか」
『見た感じ、そういうのじゃなさそうなんだけどな。取材ができなくなるから、困ってんだよ』
「え? 取材?」
『漫画の背景だよ。実際の高校を見て描いたほうが手っ取り早いだろ』
なるほど。知らない間にヤシロさん、そんなことしてたんだ。
「ねえ、ヤシロさん。漫画は、完成まであとどれくらいかかりそうなの?」
『それなんだが、ちょっと思いのほか時間がかかりそうなんだよな。そんで、考えたんだ。エマの体を借りなくとも、漫画を描けるようになる方法がないかって』
「え、それはさすがに無理でしょ? 幽霊用の漫画道具なんて、ないだろうし」
『いや、それがあるんだよ。見たほうが早いな。これだ』
突然ヤシロさんは、机の上を指さした。わたしはベッドから下り、机の前に立った。英語のノートが置かれている。
今夜は金曜だ。週明けの月曜に提出する英語の宿題をやる予定だった。けれども、いつもと様子の違うノートにわたしは絶句した。
その表紙には、ミミズのはったような細い文字で「ヤシロ」と書かれていた。
「……何これ」
『小鬼も、おれと同じことを考えてたらしくてな。さすがに毎晩徹夜は厳しいらしい。だから上司にかけあって、おれに特殊能力を与えてくれたってわけよ。それがこれ、念力だ』
「ねんりき?」
『まず、精神を集中させてペンを持ち上げる。そしたら、書きたい線をイメージするんだ。めちゃくちゃ疲れるけどな。まだまだ思うようにはできねえけど、練習すれば、自力で漫画を描けるようになるはずだ。これなら小鬼も楽になるし、長日部もエマの体を借りることについてうるさく言わなくなるだろ?』
「あのこれ、英語のノートなんだけど……」
そう言ってから、わたしは消しゴムに手を伸ばした。ヤシロさんはかまわず続ける。
『そうだ、長日部と話すときの筆談にも使えるな。時間はかかるだろうが。ていうか何してんの』
「消してるの」
『なんで!』
「だからこれ、英語のノートなの。月曜に提出しなくちゃいけないの。なんでよりによってここに書いたわけ? こんな目立つところに」
『いや、それしかなくて。どうしてもエマに見せたかったから、あんま深く考えなかったわ。悪い』
どれだけ力を入れて消しゴムをかけようとも、文字は少しも薄くならない。
『……あのさ、エマ。悪いんだけど、そろそろせんべいくれない? もうせんべいの口になってて、いい加減待ちきれないっていうか、とにかく食いたい』
そののんきな言葉に、わたしの中で何かが爆発した。せっかく調子を持ち直せそうだったのに、台無しにされた気分。
「出てけっ!」
『えっ、ちょっと待っ、せんべ……』
わたしはポケットの水晶を取り出し、勢いよくヤシロさんにつき出していた。ヤシロさんはふわりと転がるように、窓から外へと放り出されていった。
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