17 糸の色
そう言った、まさにそのときだった。
ヤシロさんが突然、強風にあおられたようにのけぞった。かと思うと、そのまま壁を突き抜け、外まで飛んでいってしまった。
一体、どうしたと言うのだろう。わたしは空になった席を呆然と見つめた。
はっとして、スカートのポケットに入っている水晶に手を伸ばす。いや、違う。わたしはヤシロさんを、害だなんて認識しない。それは長日部君も当然、同じはずだ。
周りにいる客を見る。新聞に見入る中年男性、おしゃべりに花を咲かせる若い女性たち。
誰かに弾き飛ばされたわけじゃなさそうだ。それならなおのこと、どうして。
「そう、だったのかな」
高瀬さんは、少し考えるように間を置いてからそう言った。当然だけど、ヤシロさんがいたことには気づいていないようだ。
「単に、迷惑だったんじゃないかな」
「そんなことないです。ヤシロさんは、胸を張って高瀬さんに漫画を見せたかったんです。だからそれができるまで、顔を合わせたくなかったんだと思います」
これは、間違っていない。ヤシロさんの記憶を夢に見て、そしてヤシロさんと話したわたしだからこそ、わかることだ。
高瀬さんはしばらく黙っていた。そして突然、
「ちょっと、ごめんね」
そう言って何かを思い出したように立ち上がった。そのまま、入り口近くにあるマガジンラックのほうへと向かっていく。
「もしかして、今ヤシロがいた?」
すかさず長日部君が小声で聞いてきた。わたしはうなずく。
「でも、急にいなくなっちゃったの」
「僕も気配は感じたよ。どこへ行ったんだろう」
長日部君は窓から外を見やった。わたしもつられてそちらを見たけれど、外に置かれた大きな鉢植えにさえぎられ、通りの様子はよくわからない。けれども長日部君の視線は、なかなか戻ってこようとしなかった。
ややあって、高瀬さんが雑誌を手にして戻って来た。
「わたし、毎月見てるの、これ」
そう言って差し出したのは、漫画雑誌だった。開いたページには、「新人賞結果発表」と書いてある。
「いつかここに、ヤシロ君が載るんじゃないかって思って。ばかみたいだよね」
そう言って笑った高瀬さんの目は、少しだけうるんでいるように見えた。
「わたしね。本当は漫画に、興味があったの」
「え?」
「昨日、束原さんに言われたでしょう。優等生だと決めつけられて、いらだたないのかって」
「あ、あれは……!」
昨日の失礼な発言を思い出し、かあっと顔が熱くなる。
「すみません。わたし、何も知らないくせに、えらそうなこと言って……」
「ううん、そんなことない。束原さんに言われて、改めて考えてみて、気づいたの。わたし、人の期待に応えて『優等生』を演じているうちに、本当の自分を見失っちゃったんだって」
「優等生を、演じる?」
長日部君が、静かに繰り返す。
「最初は、周りの人が言う通りにしているだけだった。でもね。なんでも知ってるとか、すごいとか、そう言われることが増えていくにつれて、その通りの自分でいないといけないって思うようになって。それで、たくさん勉強するようになったの」
高瀬さんが目を伏せる。どきどきと、胸の鼓動が激しくなっていった。
「でも、それはよかったの。わたし、もともと勉強することは嫌いじゃなかったから。だけど、中学生のときにね、ある漫画が、すごく流行ったことがあったの。みんな、学校にこっそり持ってきて回し読みしてた。わたしも興味があって読みたいって思ってたけど、なかなか言い出せなくて。でもある日、『高瀬さんも読む?』って言ってくれた子がいてね。うれしくて、すぐに受け取ろうとしたんだけど、近くにいた別の子が言ったの。『高瀬さんが漫画なんか読むわけないでしょ』って」
「漫画なんか?」
思わず声を出したわたしを見て、高瀬さんは微笑んだ。
「そう、『漫画なんか』。わたしもそのとき、ちゃんと言えばよかったの。わたしもそれ、読みたいって。でも、そうだよね、って漫画が引っ込められて、わたしは何も言うことができなかった」
「その人、悪気はなかったんでしょうけど、勝手ですね」
長日部君が苦々しい表情で言う。高瀬さんは答える代わりに小さく息をついた。
「そのときからなの。わたしが、『漫画』を敵視するようになっちゃったのは」
「敵視、ですか」
「じゃなきゃ、『浅はか』なんて言葉はすぐに出てこないはずだよ」
そう言って、高瀬さんは笑った。わたしはきまりが悪くて、思わずうつむく。
「読みたくても読めないって状況が、すごくつらかった。そのいらだちを、漫画をがんばっているヤシロ君にぶつけていたんだと思う。その状況を作ったのは、自分自身なのに。本当に、どうしようもなく子どもだった」
(状況を作ったのは、自分自身……)
高瀬さんの、漫画にまつわるエピソード。それがヤシロさんへの態度や「浅はか」という言葉につながったのだということに納得しつつも、わたしの頭の中に最後まで残ったのは、その言葉だった。
勉強するようになった経緯は、わたしとは違う。なのにどうして、高瀬さんの言葉がこんなに胸に刺さるんだろう。
優等生になりたくてなったわけじゃない。わたしは昨日、そう言った。それは、その通りだ。勉強に打ち込んだ結果、たまたまそう呼ばれるようになっただけで―……
(……あれ?)
突然行き止まりにつきあたったように、わたしは目をしばたたいた。
わたしはどうして、勉強に打ち込むようになったんだっけ――?
「ああ、なんだか」
高瀬さんが、ほおづえをつく。
「急に、ヤシロ君に会いたくなっちゃった。束原さんのおかげかな」
高瀬さんはわたしを見ると、にっこりと笑った。それは初めて見る、高瀬さんの笑顔だった。
「決心ついた。ありがとう、束原さん。近々、ヤシロ君に会いに行くよ」
*
「結局イズミさんの話、できなかったね」
わたしは、自転車を引きながら言った。
同じく自分の自転車を引いている長日部君は、力なく笑う。
「なんだか、そういう空気じゃなかったしね」
「でもよかった。高瀬さん、前より表情が出てきたし、ヤシロさんのこと話してるとき、なんだかうれしそうだった」
あの後高瀬さんは、ヤシロさんの中学時代の思い出話をしてくれたのだった。普段はやる気がないくせに、行事のときだけは張り切るヤシロさんのことを、高瀬さんは頼もしいと思っていたらしい。
「なんだかんだ言って、みんなに頼られてたの。口は悪いし、つっけんどんだし、近寄りがたかったから、友達らしい友達はいなかったけどね」
あるとき高瀬さんが見かけたのは、ヤシロさんの落書きだらけのノートと教科書だった。高瀬さんがきちんと授業を聞くように叱ると、「これがおれのやるべきことなんだ」と言って逆に誇らしげに見せてきたらしい。
「だから、急に学校に来なくなったときは、なんだかモヤモヤしてね。わたしは……夢を追う彼の姿を、見ていたかったのかもしれない」
そうして遠くを見るように視線をそらした高瀬さんの顔は、はっとするほどきれいだった。
(夢……か)
ふと、長日部君のほうに目を向ける。黙って自転車を引く彼の横顔を見ながら、わたしは静かに尋ねた。
「長日部君。長日部君には、将来の夢とか、あるの?」
「夢?」
長日部君は、わたしを見返してちょっと目を見開いた。それからすぐに、「そうだな」と視線を暮れかけてきた空のほうへと上げる。
「具体的には、何も考えてないけど。祖母みたいに、能力を生かして人を助けていきたいと思っているよ」
「おばあさんみたいに?」
「ああ。祖母は占い師として、相談に来る人の縁結びや縁切りに力を貸しているんだ。最近ではオンラインでも依頼を受け始めて、けっこう忙しくしてる」
「お、オンライン? って、画面越しでも糸が見えるの?」
「ああ、見える。僕も最近は修業がてら、横から見学させてもらうことも多いんだ」
な、なんと。水晶を持ち歩いているところから、古風なスタイルを維持している家系なのだろうと勝手に思っていた。超能力者も、時代の変化に適応していくものらしい。
「それじゃあ長日部君も、将来は占い師になるんだね」
「といっても、それだけで食べていくつもりはないよ。まずは勉強して、能力以外の部分で自分に何ができるのかを知っていきたいと思ってる。だから、大学は出るし、普通に就職もするつもりだよ」
聞きながら、ひそかに感嘆の息をもらす。
外から見ただけでは全くわからないけれど、長日部君、しっかりと将来のことを考えていたんだ。
何の目的もなく、ただ勉強してるだけのわたしとは、全然違う。
「今回のことは、僕の初めての仕事だと思ってる」
長日部君が、まっすぐ前を見つめながら言った。
「ヤシロの成仏だよ。束原さんの運命を変えるためにも、僕は全力で取り組むつもりだ」
力強い口調に、どきんと胸が鳴る。長日部君の切れ長の目が、わたしをじっと見つめている。
「そ、そうだね。縁結び、がんばらなきゃ」
「ただ、問題がある」
「え?」
突然の言葉に、わたしは思わず足を止める。
「前、高瀬さんにはほんのりと赤い糸があったと言っただろう。あれは、ヤシロとつながる糸だったんだろう。高瀬さんは、ヤシロのことが好きだったんだ」
はっと息をのむ。驚いた。それは、わたしがずっと考えていたことだったからだ。
「長日部君、それ、いつ気づいたの?」
「ついさっきだよ。ヤシロのことを語っているときの彼女の表情は、見たことがないほど柔らかかった」
わたしに合わせて足を止めていた長日部君が、ゆっくりと歩き出した。高瀬さんの表情を思い出しながら、わたしもそれについていく。
「高瀬さんにはもうヤシロとの糸はないから、糸で確認することはできないけど。ヤシロがいなくてよかったよ。知ったら未練が残って、ますます成仏できなくなる」
「でも、知らないままで成仏するほうが、悲しいことじゃない?」
「そうかな」
長日部君は落ち着いた口調で続けた。
「今一番大事なのは、ヤシロを成仏させること。束原さんの運命に関わってくることなんだから、これは譲れない。だから僕は、もう縁結びはやめたほうがいいと思う。高瀬さんとイズミさんを結ぶのは無理そうだ。別の方法を考えよう」
いきなりの発言に、わたしはただ口を開けて長日部君の横顔を見ることしかできなかった。縁結びをやめる、だって?
「で、でも! 四十九日まで時間も限られてるし、他の方法は、難しいものばっかりだったじゃない。高瀬さんの縁結びは無理かもしれないけど、誰か他の人でやってみるとか……」
「他の候補はいないって、小鬼が言っていただろう。それともやっぱり、束原さんの縁結びにする?」
「えぇっ? やめてよ、冗談言わな……」
言いかけたとき、長日部君が足を止めた。つられて止まったわたしの顔を、じっと見つめてくる。その表情は、どこか切なげだった。
「な、何?」
「束原さんに、言わなければいけないことがある」
長日部君はそうして目をそらした。
「実は、その……束原さんの、糸が」
糸、という言葉を聞いたその瞬間、冷たい風がひゅっと胸に差し込んだような感覚がした。
「わたしの、糸?」
――もしかしたら。
いやな予感が走った。
「糸が、どうしたの」
やっとのことで聞く。長日部君は相変わらず目をそらしたままだったけれど、しばらくしてから言いづらそうに口を開いた。
「その……色が、変わってきていて」
心臓が飛び跳ねるようにドクンと鳴った。まさか。まさか、そんな。
「色って……」
「うん」
長日部君は、視線をわたしの顔に戻して言った。
「赤く……」
その瞬間、わたしは自転車に飛び乗った。呼び止める長日部君の声を背中に受けながら、逃げるようにペダルをこいだ。
――恐れていたことが、起きてしまった。
わたしは、長日部君のことを、好きになってしまったのだ。
そして、長日部君にそれを知られてしまった。
わたしの、赤い糸によって。
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