20 黒い影

 何を言っているのだろう。作り話?

 違う。わたしは、思い出していた。喫茶店で、長日部君と心霊スポットの話をしていたときだ。

「廃墟とかトンネルだけじゃない。実はこの近くの……」

 長日部君は、確かにそう言っていた。きっと、その公園のことを言おうとしていたに違いない。

 イズミさんの言ったことは、本当なのかもしれない。

 わたしは思わず足元を見る。

「悪霊って信じる?」

 イズミさんはカフェオレを開けて一口飲み、言った。

 その余裕のある表情が、生徒会室にいたときから少しも変わっていないことに気づき、ぞっとする。

「さっきから、何の話ですか。わたしそういうの、興味ないんです」

 わたしは騒ぎ出した心臓の鼓動を悟られないように、あくまでも平静をよそおって言った。

「でも幽霊が見えるし、しゃべってるじゃん?」

 イズミさんのその言葉に、一瞬頭の中が真っ白になった。

 ヤシロさんのことを言っているんだろうか。

「……何の、ことですか」

「ごまかしても無駄だよ。おれには見えるんだ。この世をさまよう、すべての霊の姿がね」

「嘘でしょう」

 ひきつった顔で、わたしはなんとか言った。

「嘘じゃないよ。見えるだけじゃなく、操ることもできるんだ。悪霊たちを使えば、自転車を川に落とすことくらい、簡単なんだよ」

「……え?」

 心臓が止まるかと思った。

 今、何と言った?

「まさか……」

「タイミングがよかったよ。ひきこもっていたはずの奴は、なぜか外に出た。奴を見張らせていた悪霊の知らせでそれを知ったとき、おれはすぐに命令を出したんだ。自動車事故でもよかったが、関係ない他人を巻き込むのはおれのポリシーじゃない。みっともない死に方だが、あいつにはお似合いだろう」

 わたしは、怒りで体が震えるのを感じた。

 この人、だったんだ。

 この人が、ヤシロさんを殺したんだ。

 ヤシロさんの前向きな気持ちを利用して。

 ヤシロさんの夢を、将来を、全部踏みにじったんだ。

「どうして……どうして、そんなひどいことを」

「ジャマだったんだよ。高瀬さんの中からヤシロとかいう奴への思いが全然消えないからさ。そいつが死ねば、忘れてくれるだろうと思ってね」

 そうしてイズミさんは、カフェオレを一口飲んだ。しみ出た涙に、視界が一瞬ぼやける。

「おれ、人の思考も読めるんだ。単語レベルでしかわからないけど、それでもじゅうぶん予測できる。こういう力を与えられた、選ばれし人間ってわけ。君とは違ってね」

 ひゅっと喉が鳴った。やっぱり、そうだった。わたしの思考は、すべて読まれていた。

 ヤシロさんに関することも、そこから知ったんだ。

 震える手を、そっとポケットに入れた。水晶の冷たい感触を確認し、ぎゅっと握りしめる。

「そんな小さいの、何の役にも立たないよ」

 イズミさんは笑った。

「しかし、ヤシロにはまいったよ。死んだのに、全然成仏しないじゃないか。こんなの初めてだ。しかも霊の状態で高瀬さんの周りをうろつき出して、高瀬さんも見えていないはずなのに相変わらずヤシロのことばっか考えてるし、もう心底うざくなったんだよ。この間も喫茶店にいたから追い払ったけどさ、これで」

 そうしてイズミさんはおはじきを飛ばすように指を弾いた。あのとき風のようにいなくなったヤシロさんは、イズミさんによって追い払われていたのだ。

「さすがのおれも、人の記憶や認識をいじることはできないからな。高瀬さんをどうこうすることはできない。だからせめて、ヤシロが成仏できないんなら、悪霊にして高瀬さんの周りをうろつかないようにしてやろうと思ってさ。知ってる? 悪霊って、もう理性を持たないんだよ。もちろん人格も何もない。強い負の感情の力だけで動く、獣みたいなものなんだ。だからさ」

 イズミさんがカフェオレを地面に置いた。同時に、足元から黒い影が立ち上り、重い鎖のように下半身に巻き付いた。しまった。そう思ったときにはもう遅く、わたしは水晶を取り出そうとした手ごと体を拘束されてしまった。拳の中に、水晶の硬く冷たい感触だけを感じる。

「悪霊に君を食べてもらうんだ。そうしたら君は悪霊に取り込まれ、晴れて悪霊としてここで生きていくことができるんだよ。そうだな……高瀬さんには、急に用事ができたと言って帰ってしまったとでも言えばいい。その後、君は行方不明者として名前だけがこの世に残ることになる」

「いや……やめて! 離して!」

「むだだよ。ヤシロを恨むんだね。すべてはヤシロを悪霊にするためだ。どうしてだか君とつながっているヤシロは、君が悪霊になれば引きずられて一緒に悪霊になってくれる。そうして高瀬さんの周りをうろつけないよう、ここに閉じ込めてやるのさ。ねえ、君はどうしてヤシロとつながりを持っているんだ? 何か特別な関係だったのか?」

 特別な関係……。

 違う。わたしとヤシロさんは、ただのお隣同士だった。そして、ヤシロさんが死んでしまう直前に初めて言葉をかわした、たったそれだけの関係だった。

 でも今は、そうじゃない。不思議な縁で結ばれた、大事な友達だ。そもそもヤシロさんがいなければ、長日部君と出会うこともなかったのだ。

 そうだ。ヤシロさんが、長日部君とわたしの縁を作ってくれた。

「あなたはどうして、こんなことをするの」

 しめつけられた下半身の感覚がなくなっていく。その中でも、わたしは水晶だけはぎゅっと握りしめていた。長日部君がくれたものだと思うと、心が不思議と落ち着いた。

「こんなことをしたって、高瀬さんの気持ちはあなたには向かない。高瀬さんがあなたの正体に気づかないとでも思うの」

「気づくわけないだろう。高瀬さんは頭がいい子だ。幽霊だの特殊能力だのいう話を、思いつくはずもない」

「どこかでこれを、見てるかもしれない」

 中庭を囲む校舎の窓を見ながら言った。イズミさんは笑う。

「あのさ、この中庭は異空間に入ってるわけ。さっきまでいた現実世界じゃないんだよ。おれが作り出した隙間の世界。悪霊たちの家。あの世でもこの世でもない、処刑場なんだよ。使うのは初めてだけどね。君が記念すべき最初の犠牲者だ」

 まさか。中庭に出た瞬間、異世界に入っていたということなのか。

 わたしはいよいよ絶望を感じた。体に巻き付く黒い影は今や大きな渦となり、イズミさんの姿が見えないくらいにわたしを覆っていた。

 苦しい。息ができない。意識がだんだんと遠のいていくのを感じる。

 ――だめ。だめ。なんとか、持ちこたえなきゃ。このままじゃ、ヤシロさんが……

 薄れる意識の中で、イズミさんの声がぼんやりと響く。

「ジャマ者がいなくなれば、高瀬さんはおれを見てくれる。そうして、高瀬さんをおれだけのものにするんだ」

 イズミさんの笑い声が、渦とともにわたしの体を縛るようだった。

(そうか……)

 ふっと、目を閉じる。

 ようやく、わかった。

 わたしはずっと、わたしのことを見てほしかったんだ。

 わたしを見てって、訴え続けて。それが、永遠に叶わない願いになって。

 その願いを忘れるために、頭の中を別のものでいっぱいにしようとした。

 わたしが勉強に打ち込んだのは、あの人……お父さんのことを、考えなくて済むようにするためだった。

 涙が、頬を伝った。

 これは、罰なのかもしれない。

 お父さんのことをずっと無意識に責め続けた、わたしに対する罰。

(ごめんなさい。お父さん、ごめんなさい)

 ヤシロさん。小鬼。ごめんなさい。わたしのせいで、ごめんなさい。

 長日部君。本当にごめんなさい。


 わたし、みんなに、会いたいよ。


 最後に、そう願ったとき。


 ――からん。


 なつかしい響きが、包み込むようにわたしの意識に蓋をした。

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