11 隣の部屋
高瀬さんは目を大きく見開いた。その顔にははっきりとした感情が表れていて、もはや人形のようには見えなかった。
わたしは立ち上がり、逃げるように店を出た。
長日部君に名前を呼ばれたけれど、振り返ることすらできなかった。ただただ店から遠ざかるためだけに走り、電柱に手をついて息を整える。
(……ああ。何やってんだろ、わたし……)
ヤシロさんに対する高瀬さんの言葉に、過剰な反応をしてしまった。
夢、という言葉のせいかもしれない。
ずっと蓋をしていた記憶が、隙間からするすると立ち上がってきてしまったんだ。
――「お父さんは、どうしてお医者さんになったの?」「子供の頃からの、夢だったからよ」――
小学校に上がる前くらいにかわされた、お母さんとのやりとり。
こぼれ出たのは、そんな記憶だけじゃない。
もう二度と話せない人に対する、行き場のない感情だった。
小児病院の勤務医だったお父さんは、わたしが小学四年生のとき、病気で死んでしまった。
ほとんど家に帰らず、職場である病院で日々の大半を過ごしていた。家にいた姿なんて、数えるほどしか覚えてない。家族で出かけたのも、同じようなものだ。
わたしが三歳のときに行われた家族旅行は、最初で最後の、お父さんとの貴重な時間だった。
神社のさいせん箱を前に、目を閉じて何かをお願いしていたお父さんの横顔。
旅行から帰った翌朝、枕元にそっと置かれていた、おみやげ屋さんの袋。
その中に入っていたさいせん箱形の貯金箱は、しばらくのうちはベッドの上でわたしを見守っていた。いつしか机の上に移動し、最後は押し込められるようにカラーボックスの隙間に収まった。
お父さんとかわした言葉。わたしはそれを、何ひとつ覚えていない。
もともと、寡黙な人だった。あのとき、旅行先の神社で何をお願いしていたのか。どうしてわたしに貯金箱を渡したのか。
いくらそれを聞こうとしたところで、お父さんと会話をすることは、二度とかなわない。
死んでしまった人は、もう生きられない。続きの人生がない。どうあがいても、同じ名前と人生で生き直すことは、二度とできないんだ。
小鬼だって言っていた。「よみがえり」の申請は、通らないって。
ヤシロさんだって、また漫画が描きたいと思ったって、どうにもならないんだ。
その思いを、「浅はか」なんて言葉ひとつで片づけられたくない。
(でも……)
ふーっと、後悔のため息がもれる。
高瀬さんに、ひどいことをしてしまった。ヤシロさんが亡くなったという事実だけをつきつけて店を飛び出すなんて、ぶしつけすぎる。まるで子供の意地悪みたいじゃないか。
しばらくすると、自転車を引いた長日部君が追いかけてきた。
「束原さん、待って」
「……ごめん」
わたしは長日部君の顔を見ることができずに言った。
「なんだか、抑えられなくて。あんなこと、言うつもりじゃなかったんだけど」
「わかってる。謝らなきゃいけないのは、僕のほうだ」
「え?」
思いがけない言葉に、思わず長日部君に顔を向ける。
「僕も、束原さんのことを『優等生』として見ていた。それは、束原さんの一部を表す言葉でしかないのに。僕は、知らないうちに束原さんを勝手な色で塗りつぶそうとしていた。すごく、失礼な行為だ。だから、謝る。束原さん、本当にごめん」
「えっ……ええ?」
深々と頭を下げた長日部君に、わたしは困惑の声をもらした。
「そ、そんなの、べつにいいってば。知り合ったばっかりだし、そんなこと、誰だってするでしょ?」
言いながら、急に罪悪感が頭をもたげる。現にわたしだって、長日部君のこと、千里の言った「オカルトマニア」って言葉でもって見てしまってた。
「長日部君。わたしも、ごめん。長日部君のこと、その……ちょっと、変な人だって思ってた」
「いいよ、気にしないで。それは、その通りだから」
長日部君が、表情を変えずに言う。なんと、自覚があったのか。
「問題は、高瀬さんだ。あの感じだとおそらく、ヤシロは高瀬さんのことを今でも苦々しく思ってる」
長日部君の真剣な声で、さっきの高瀬さんの冷たい表情を思い出す。
「そう、だね。うるさい人だって、煙たがってたのかもしれない」
「もしかしたら、それ以上かも」
「それ以上?」
「憎いのかもしれない。漫画に熱中することを否定した、高瀬さんのことが」
(憎い……)
ずきんと、胸が痛む。
ヤシロさんは、高瀬さんのことをどう思っていたんだろう。自分が一生懸命取り組んでいることを馬鹿にされたり、「やめろ」って言われたら、「憎い」なんて感情が出てきてしまうのも当然かもしれない。
ヤシロさんはきっと、高瀬さんに反発し続けたんだろう。周りに何を言われたところで、あの人が自分のやりたいことを手離すとは思えない。
死ぬときまでずっと、追い続けた夢。
ちょっと、うらやましいかもしれない。
何を差し置いてでも、やりたいこと。熱中したいこと。
わたしには、そんなもの、何もないから。
「残念だよ」
長日部君がため息まじりに言った。
「高瀬さんに赤い糸はなかった。でも、イズミさんは高瀬さんに片思いしている。はっきりと見えたよ。かなり強く思ってるみたいだ」
「赤かったの?」
「イズミさんのほうだけね。ついでに言えば、高瀬さんの糸……元々細くて色も冷え切っていたけど、さらにひどくなってた。あんなのは、そうそう見ない。昔はもっと普通で、ほんのり赤い糸もあったのにな」
糸が細くて、冷え切ってた……?
「それ、どういうこと?」
「今の高瀬さんは、他人に興味がないんだ。好きとか嫌いとか、そういう感情すらない。普通、できはじめの糸は白いんだ。高瀬さんの糸は細くてほとんどが白、もしくは透明に近いほど薄かったよ」
白か、透明……。
それって、つまり。
「高瀬さんは、他の人と関係を作る気がないってこと?」
「そういうことだね。なんとか高瀬さんの考え方を変えられればいいんだけど、それは相当難しそうだ。縁結びは、大変なものになるだろう」
最後にそう言うと、長日部君はそろったまつ毛を静かに伏せ、息をついた。
*
アパートに戻ったわたしは、家の鍵を開けようとカバンに手を入れた。すると、背中に視線が向けられているのを感じた。
振り返ると、黒いワンピースを着たすらりとした中年女性が立っていた。
その顔を見て、すぐにヤシロさんのお母さんだとわかった。茶色がかった大きな目が、ヤシロさんにそっくりだ。
お母さんはわたしを見て微笑み、会釈をした。
「束原エマさんですね? ヤシロです」
「ど、どうも」
「このたびはお母様に大変お世話になりました。ありがとうございました」
「いえ、そんな」
深々とわたしに頭を下げるお母さんを前に、わたしはとまどってしまう。何しろあいさつ以来ほとんど顔を合わせたことがないし、それに大事な一人息子を亡くしたばかりなのだ。
そういえば、今日がお葬式だった。ヤシロさんは、自分のお葬式に行ったんだろうか。
「あの……お悔み申し上げます」
わたしは月並みな言葉をかけるしかなかった。お母さんは頭を上げ、小さく笑顔を作った。悲しい笑顔だった。この気丈さを見ていると、胸が苦しくなる。
「ご丁寧に、ありがとうございます」
お母さんはそう言うと、もう一度頭を下げて、「では」と外階段を上がろうとした。わたしはあわててその横顔に言った。
「あの」
お母さんが振り返る。ヤシロさんとは雰囲気は似ておらず、気品がある。
「あの、わたし、話したんです。その……息子さんと」
そういえば、わたしはヤシロさんの下の名前を知らない。お母さんに聞いておけばよかった。
ヤシロさんのお母さんは体をわたしに向け、言った。
「話したって……いつ?」
「おとといの、朝です。アパートの、駐輪場で」
お母さんはそれを聞くと、何かを確かめるようにじっとわたしの顔を見つめた。そして、にこりと笑った。
「よかったら、お茶でもどう? あがっていってちょうだい」
同じアパートに暮らしているといえども、大家であるうちの住居スぺースは一階だけでなく二階もあり、他の住人の部屋とは違う造りになっている。こうして他の部屋に足を踏み入れるのは、初めてのことだった。
居間に入ってすぐ、壁際に置かれた骨壺と遺影が目についた。ヤシロさんはもう死んでしまったのだ、という事実に、改めてどきりとする。
「それね、中学校の卒業アルバムの写真なの。それ以降、写真なんて撮ってなかったのよねえ」
お母さんはキッチンでお茶を用意しながら言った。遺影のヤシロさんは学生服に身を包み、噴き出す寸前のような顔で目を見開き、こちらを見ていた。
「変な顔でしょ、それ。あの子は昔から、カメラを向けられるとなぜか笑いが止まらなくなるのよねえ。撮った中では一番マシだったらしいの」
「じゃあ、写真は全部笑った顔なんですか」
「基本的にはそうね。よく笑う子だった。生きてるのが楽しくて仕方がないみたいに、いつも笑ってた」
お母さんはそう言いながら、お盆にお茶を乗せて居間にやって来た。
「でも、中学に行かなくなってからかしら。全然笑わなくなってしまって」
「どうしてですか」
「真剣だったんだと思うの。漫画家になりたくて」
「漫画家に……」
お母さんはわたしに水色の湯のみを差し出して座ると、ふうと息をついた。
「一日中机にかじりついて漫画を描いてたの。漫画家になるのに学歴はいらないなんて言って、せっかく入った高校もほとんど行ってくれなくてね。どんなに説得しても、考えを変えてくれなかった。きちんと大学を出て就職するのが一番の幸せへの近道だって信じてたけど、ユウにとってはそうじゃなかったのよ」
ユウ、というのはヤシロさんのことだろう。どんな字を書くのだろう。ユウで全部なのか、ユウジとかユウタロウの省略形なんだろうか。
お母さんは続ける。
「目を覚ましてほしかった。夢を見て生きていくことがどれだけ大変かってことを、わかってほしかった。苦労させたくなくて、何度も説得したわ。それがあの子のためだって、信じてたから」
(ヤシロさんのため……)
ふと、高瀬さんのことを思う。高瀬さんがヤシロさんに学校に来るように説得していたのは、学級委員の仕事としてだと思ってた。
だけど、そうじゃなかったとしたら?
「浅はか」と思いながらも、いや、そう思ったからこそ、ヤシロさんのためを思って、学校に来るように説得していたんだとしたら……?
「ユウが死んでしまった日の前の晩も、けんかしたの」
お母さんの言葉で、はっと我に返る。
「賞に投稿する漫画の進み具合を尋ねたのよ。そうしたら全然進んでないうえに、自分には漫画を描くのに必要な経験が足りないなんて言い出すから、ほら見なさいって言っちゃってね。高校生活を知らないユウに、高校を舞台にした漫画が描けるわけないって」
そう言うと、お母さんは硬い表情で目を伏せた。
「思えば、それがあの子との最後のまともな会話だったわ」
――最後の、会話。
その言葉で、ぼんやりとした光景が頭の中によみがえってきた。
白い部屋。白い人たち。赤いワンピースの、取り乱したお母さん。
「エマ、お父さんの手、握ってあげて!」
叫ぶような、涙のまじったお母さんの声。
ベッドの上で目を閉じている、眠っているようなお父さん。
手を握った途端、お父さんは、それを合図にしたように、心臓の動きを止めてしまった。
温かみを帯びた、白い大きな手。少しがさついたその皮膚の下に、確かにあったはずの命。それが、わたしの手の中からするするとこぼれ落ちていく。
あのときわたしは、何かを言おうとしていた。でも、言葉が口から出る前に、その行き先が永遠に失われてしまったんだ。
今ではもう、確かに聞いたはずのお父さんの声すら、はっきりと思い出すことができない。
「エマさん。あの日の朝、ユウとなんて話したの? あの子は、なんて言ってた?」
そう言われたわたしは、改めてヤシロさんの言葉を思い出す。わたしとヤシロさんの、最初の会話。ヤシロさんにとっては、最後の会話。
「外の空気が吸いたくなったって、言ってました。それと、もうすぐ十八になるって思ったら焦ってきたって……その準備だって、言ってました」
「準備……」
お母さんは、ほおづえをついて何かを考えるようにぼんやりと宙を見た。
ヤシロさんが言ったことは、これだけだ。思えば本当に、たいした会話をしていない。
もしかしてヤシロさんは、お母さんの言葉がきっかけで変わろうとしていたんだろうか。お母さんの言う「正しさ」を受け入れて、前に進もうとしていたんだろうか。
それが、「バイト情報誌を買いに行く」という選択となって、あの日のヤシロさんを外に連れ出したのかもしれない。
するとお母さんは、ひとりごとのように小さな声でつぶやいた。
「やっぱり……死のうと思ってたのかしら。わたしのせいで……」
……まさか!
思いがけない言葉に、わたしはあわてて首を振った。
「違う、違います! 事故です」
「え?」
「あ、いや、その……」
わたしは言葉を止めた。これから言おうとしていることは、死後のヤシロさんから聞いたこと。つまり、本当は知っているはずがないことだ。
でも、お母さんには伝えなければいけない。
だって、知らないままなのは、つらいから。
残された人は、ずっとずっと、知らないことに、苦しまなければならないから。
だから、伝えなきゃだめなんだ。
わたしは、くっとあごを上げてお母さんを見つめた。
「最後に会ったとき、ヤシロさんは、バイト情報誌を買いに行くって言ってました。だから、自殺じゃ、ないです。事故なんです」
わたしの言葉を聞いたお母さんは、しばらく目を丸くしたまま、くちびるを震わせていた。
「そう……そうなの」
やがてそう言うと、目をゆっくりと窓の外へと向けた。わたしはそこにヤシロさんの姿を期待したけれど、夕闇の迫る空の藍色しか見ることができなかった。
「ふふ……そうだったのね」
そうしてお母さんは頭を下げると、声を出して笑い出した。
「よかった。ほっとしたわ。ありがとう、エマちゃん」
そう言って顔を上げたお母さんの目に、小さな涙が光っていた。
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