9 高瀬先輩

 わたしは、しばらく窓の外を眺めていた。少し待てば、また戻ってくるような気がしたのだ。

「まったくガキだなあいつは! あきれたよ」

 小鬼がそう言って天を仰いだ。

「何が起きたんだ?」

 不思議そうな顔の長日部君に、わたしはヤシロさんの言葉と、急に窓から出て行ってしまったことを伝えた。

「なるほど。しかし突然出て行くなんて、妙だな。そのタカセさんと、過去に何かあったのか? 小鬼、何か知ってるんだろう」

「そういえば、ヤシロさんの人生は全部知ってるって、前に言ってたよね」

 わたしが言うと、小鬼は渋い表情をした。

「知ってるっちゃ知ってるんだが……おいらも細かいことまで、全部把握してるわけじゃないからなあ」

「それでも、教えてよ。その、タカセさんのこと」

 わたしが言うと、小鬼は腕組みをして座り込んだ。

「タカセ・ハルカは、ヤシロが中三のときの学級委員で、エマみたいな優等生だったんだ」

 優等生、という言葉に、少しどきりとする。

「ヤシロはその頃、学校に行かずに、家でずっと漫画を描いていた」

「漫画?」

 思いがけない単語に、わたしと長日部君の声が重なった。

「ああ。あいつは死ぬときまでずっと、漫画家を目指してたんだ」

(ヤシロさんが、漫画家……)

 意外だった。ヤシロさんがそういう形のある夢を持っていたなんて、全然考えもしなかった。

 小鬼の話によると、ヤシロさんは中三の途中から家で漫画を描くことに没頭し、学校に行かなくなったそうだ。タカセさんは、学級委員としてたびたびヤシロさんの家を訪れ、学校に来るよう説得していたらしい。

 それを聞いたとき、わたしの中のある記憶がよみがえった。

「そのタカセさんって、長い髪を後ろでまとめてて、メガネかけてた?」

「ん? ああ、そうだな。そうだった」

 やっぱり、と思う。

 わたしはそのタカセさんを、去年何度か見かけている。すらっとした、ちょっと地味ではあるけれども、なかなかの美少女だった。ヤシロさんの家の前で立っていたこともあれば、アパートの階段ですれ違ったこともある。

 タカセさんは、いつ見ても無表情だった。その堂々とした歩き方やたたずまいは、まるで仕事をこなしているように見えた。だから、ヤシロさんの知り合いだろう、とは思っても、彼女だろう、とか、友達だろう、とは思わなかった。

「しかし、困ったな。ヤシロはほとんど友達らしい友達がいなかったから、タカセ・ハルカを除外するとなると、それこそエマくらいしかいなくなってくる。なあエマ、ここはいっちょ、恋してみないか? ヤシロのためにも、自分のためにも」

 小鬼に言われ、わたしは改めて考えてみる。

 恋、かあ。

 ……恋、ねえ…………。

「……いや、やっぱり無理。ごめん」

「そうか……」

 小鬼はため息をついた。

 申し訳ないけど、わたしには恋というものがよくわからない。したこともないし、しようと思ったことも、今のところない。あちこちで聞こえる「誰それが好き」という会話を楽しく聞いたことも、一度もない。

 でも、顔を輝かせているクラスメイトたちを見ていると、少し、うらやましくは思う。恋って、そんなにいいものなのかな。

「しかし、ヤシロがタカセさんの縁結びを拒む理由がわからない。気にかけてくれていたのだから、普通は感謝するものだろう」

 長日部君がそう言ったとき、小鬼がぽんと手を叩いた。

「思い出した。タカセ・ハルカは、ヤシロの描く漫画について否定的だったんだ」

「否定的?」

「漫画なんか描いても何にもならない、とか、そんなことを言っていた気がする」

「なるほど……」

 タカセさんは、ヤシロさんが学校に行かずに漫画を描いていたことをよく思わず、家に通ってお説教をしていたのかもしれない。

 それにしたって、それだけのことで縁結びをあそこまでいやがるものだろうか。

「漫画、か……」

 長日部君が、何かを思い出すようにあごに手を当てた。

「まあそのへんはもう一度、記憶再生装置で洗い出してみるよ」

「記憶再生装置? 何、それ」

「その名の通り、死者の記憶を見ることができる装置だよ」

 小鬼はわたしの問いかけに答えながら、さっと窓辺に移動した。

「急で悪いが、今ちょっと仕事が立て込んでてな。今日はここまでにしよう。明日はなんとかヤシロを捕まえて、連れてくるよ」

 そう言うとひらりと飛び上がり、窓を通り抜け、夕暮れの空に溶けるように消えていった。

「確かにタカセさんは、漫画を読むタイプではなかったな」

 突然、長日部君がぼそりとつぶやいた。え、と声をもらしたわたしを、試すように見やる。

「高瀬遥。全国模試で、成績優秀者として冊子に名前が載ったこともある。束原さん、知らない?」

「知らないけど……長日部君、高瀬さんのこと、知ってるの?」

「ああ、書道部の先輩なんだ。僕が一年のときに部長だった。この地区のトップ校に推薦で入ったことで有名だよ」

 なるほど、長日部君って書道部なんだ。少し意外。

 って、そうじゃなくて!

「高瀬さんと知り合いなら、なんでもっと早くそう言わなかったの!」

「ごめん、最初は僕の知っている高瀬さんと同一人物なのか、確信が持てなかったんだ。でも見た目や漫画に否定的って情報から、間違いなくあの高瀬先輩だと思えたんだよ」

 なるほど、そういうことか。

 うーん、世間って、狭い。

「ヤシロが乗り気でないのは確かに問題だ。けど、縁結びを達成するまでにヤシロをその気にさせればいいのなら、僕らだけでもできることはある」

 長日部君はカバンを持ち上げた。

「高瀬さんの高校は黎開れいかい学園。ここから自転車で二十分程度だ。聞いたところによると、さまざまな委員会に所属していて多忙だと言うから、きっとまだいるだろう。見に行こう」

「え、何? まさか、今から会いに行くつもり?」

「可能性を見に行くんだよ」

「可能性?」

 長日部君はふっと笑った。

「高瀬さんの、糸だ」


  *


 黎開学園高校は、緑色のおしゃれな制服が好評の私立高校だ。モダンな校舎も清潔感があり、美しい。広い校庭では、さまざまな運動部がまだ活動をしていた。

 長日部君に言われて仕方なくまた自転車の荷台に乗っていたわたしは、この高校の名前がしばしばあこがれとともに語られるのを聞いたことがあるのを思い出していた。推薦入試も、相当成績が優秀でないと受けることすらできないらしい。そんな難関をくぐりぬけたなんて、高瀬さんはよっぽどの「優等生」なんだろう。

 長日部君は、高瀬さんを誰かと縁結びできそうなのであれば、それが一番いいと考えているようだった。

 正直わたしは、ヤシロさんがあんな態度なら、高瀬さんはやめたほうがいいんじゃないかと思っていた。大事なのはヤシロさんの「やる気」だ。つまり、「高瀬さんを誰かと恋人同士にしたい」と思う気持ちだ。

 それがなければ、ヤシロさんの徳にはならない。だから高瀬さんよりもまず、ヤシロさんを説得するのが先なんじゃないだろうか。

 そう言ったわたしに、長日部君は言った。

「あくまでも可能性の視察だよ。直接話したことがないからわからないけど、どうもヤシロって奴は頑固で、一筋縄ではいかない性格のようだからね」

 うん、それは間違ってないかも。

「小鬼もヤシロの記憶を洗い出してくれるって言ってたし、ヤシロの説得については明日考えよう。とりあえず、何か今日の成果が欲しいんだ」

 長日部君はそう言って、自転車を高校のフェンス前に止めた。

 確かに、可能性に賭けてみるっていうのは、アリかもしれない。

 もし高瀬さんに赤い糸があれば、縁結びはやりやすくなる。その相手と高瀬さんの縁を結んであげる、つまり両想いにして、恋人同士にすればいいんだから。

 けど、そう簡単にうまくいくものなんだろうか。人の気持ちを思い通りに変えることなんて、それこそ神様でもなければ無理だ。

「あの、すみません」

 一足先に自転車から降りていた長日部君が、校門から出て来た一人の女子生徒に話しかけた。わたしはあわてて荷台から降りる。

 髪を複雑に編み込んだ女子生徒は、長日部君の顔を見てにこりと笑った。そうして、ちらりとわたしを見た。

「何?」

「僕たち、この高校を志望してる中学生なんですが、今日見学をさせてもらうことになってるんです。それで、一年生の、高瀬遥さんと約束をしてるんですが、待ち合わせの場所がわからなくなってしまって。あの、高瀬さんご存知ですか?」

「ああ、知ってる。生徒会の子でしょ?」

 女子生徒はあっさりとうなずいた。高瀬さん、生徒会役員でもあるのか。

 それにしても、長日部君はいつこんな嘘……いや、セリフを考えたんだろう。

 わたし、志望する高校なんて、まだ全然考えたこともないのに。

「二階の生徒会室にいることが多いから、行ってみたら? あの階段を上って入ったらすぐのとこだから」

 女子生徒はそうして校舎の端に設けられている外階段を指さした。長日部君が頭を下げる。

「ありがとうございます、助かりました」

「いいえ。じゃ」

 女子生徒はそう言うと、駅のほうへと軽やかに歩いて行った。

「親切な人でよかった。さて、二階か」

 そう言うと、長日部君はさっそく外階段へと体を向けた。

「え、ちょっと、中に入るつもり?」

「大丈夫、自由な校風だから、見つかってもたいして問題にはならないよ。何より僕は、高瀬さんとは部活の先輩後輩の関係だしね」

 そうか、そういうものか。

 ……いや、すごく不安なんですけど。

「君たち」

 背後から声をかけられて、びくっとする。男の人の声だ。

 振り返ると、さわやかな笑顔を浮かべる男子が立っていた。この高校の制服を着ている。わたしは思わず長日部君の陰に隠れようと後ずさった。

「君たち、高瀬さんの知り合いなの?」

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