5 オカルトマニア
「おはよう、エマ」
次の日の朝。眠気でぼうっとした頭のまま教室に入ると、千里がやってきた。
「どうしたの? 眠れなかった?」
「なんで?」
「死人みたいな顔」
死人、という言葉に、思わずどきっとする。
確かに、昨日はいろんなことがありすぎたせいか、よく眠れなかった。でも、わたしは死んでいない。死んでしまったのは、ヤシロさんだ。
「そういえば、英語の宿題やった? 『わたしのお気に入り』」
言われて、思い出す。「あなたのお気に入りのものについて、その理由とともに二文以上の英語で書くこと」という、英作文の宿題だ。締め切りは、来週の月曜。
「ううん。まだ、やってない」
「え、そうなの? エマにしては珍しい。どんな感じか、参考に見せてもらおうと思ってたのに」
気楽な様子の千里を前に、細く息をつく。ゆうべは、宿題どころじゃなかったんだ。
昨日の夜、わたしは家に帰りながら、神社であったことは夢だったんじゃないかと思い始めていた。あんまりにも非現実的で、信じられないことばかりだったからだ。
部屋に入ってすぐ、わたしは貯金箱の下から小さな紙きれがはみ出ているのを見つけた。震えた字で「ありがとう よろしくな 小鬼」と書かれているのを見て、観念した。やっぱりあれは、全部本当のことだったのだ。
千里に昨日のことを話すわけにはいかない。話したところで信じるわけがないし、またひどい幻覚を見たのだと言われるだけだろう。
そのとき、千里が教室の入り口のほうをちらりと見た。
「ねえ、エマ……さっきからあいつ、こっち見てない?」
つられて見てみると、そこには色白の細身な男子が立っていた。廊下から半分だけ体を見せて、教室の中……というよりも、わたしと千里をじっと見ているようだ。
「誰? あれ」
「知らないの? 二組の
再び男子を見た千里が言う。二組の長日部……聞いたことがない。
「一見きれいな顔してるけど、見た目にだまされちゃだめ。オカルトマニアの変人って噂よ。あ、やだ、エマ。もしかしたら、昨日の幻覚の話と関係あるんじゃない?」
千里はそう言って眉をひそめた。
冗談じゃない。ヤシロさんと小鬼だけでも手一杯なのに、そのうえ変人のオカルトマニアの相手なんかしている余裕はない。
わたしは長日部君の視線から逃れるように、教室の入り口に背を向けた。
*
その日の放課後。
学校の駐輪場で自転車を出そうとしていると、背後から声をかけられた。
「君」
振り返ると、すぐ目の前に男子の顔があった。色の白い顔、切れ長の目、そろったまつ毛。あまりの近さに悲鳴をあげそうになったけれど、ぐっとこらえる。
信じたくなかったけれど、それは今朝教室の入り口に立っていた、あの長日部君だった。
「なっ……なに?」
「糸」
長日部君はそれだけ言うと、わたしの頭の上に手をかざした。
「ひっ」
身がすくむ。すると彼は手を止め、わたしの頭からゆっくりと視線を上に上げた。
「糸が見えるんだ。グレー、
最後のほうは、ほとんどひとり言だった。
(千里の言った通りだ。この人、すごく変)
わたしはその手から逃れるように、自転車と一緒にそろそろと移動した。
「あの、わたし急いでるから」
「気をつけたほうがいい」
長日部君は静かに手を下ろした。
「なにか得体の知れないものとのつながりができているようだ。用心に越したことはないよ」
それだけ言うと、わたしの存在など目に入っていなかったかのように横をすり抜け、さっさと歩いて行ってしまった。
「糸」って、何のことだろう。わたしはそっと頭の上に触ってみた。クモの糸でもついているのかと思ったのだ。
でも、何もない。念のため、校舎の窓ガラスに姿を映してみたけれども、やっぱり何もない。
……今のこそ、幻覚だったのかもしれない。
というか、そう思いたい。
*
「ヤシロの死の原因だが、妙な痕跡が見つかったんだ」
「妙な痕跡?」
小鬼がうなずく。夕方の境内は人が少なく、社殿の裏に回ってしまえば、わたしたちの話し声を聞けるのは林の鳥や虫くらいしかいなかった。
指を左右に動かして草を突き抜けさせる遊び(?)をしていたヤシロさんは、それをやめて小鬼を見上げた。
「そう。昨日、ヤシロの死は予定外だったと言ったろ? それについて調査したところ、まだはっきりと特定はできていないんだが、ヤシロに対して何らかの『力』が働いたらしいことがわかったんだ。その力のわずかな痕跡が現場に残っていたらしい。もっと言えば、ヤシロの部屋や駐輪場にもだ」
『おい、それどういうことだ?』
「ヤシロ。おいらは担当者として、おまいの人生での出来事は、大体は把握している。けど細かい部分、おまいと関係を持った人間の感情まではカバーできないんだ。だからこう聞く必要がある。おまい、誰かに恨まれてたってこと、ないか?」
小鬼の言葉に、ヤシロさんの表情が硬くなった。
『恨み? って、もしかして……おれが死んだのは、誰かのかけた呪いのせいだった、とか、そういうことか?』
「まあ、その可能性がなくもない、ってことだ」
『……まじかよ』
つぶやくようにそう言うと、ヤシロさんは視線を落とした。
(呪い……?)
思わず眉をひそめる。幽霊や小鬼がいるのなら、「呪い」だってあってもおかしくないかもしれない。でも、そんなものがあるなんて、ちょっと信じたくない。
しばらく黙っていたヤシロさんは、不意ににやりと笑った。そうして、声のトーンを上げて言う。
『ま、何しろ、徳貯金がゼロなんだからな。そんな人間、恨まれないほうが難しいんじゃねえの?』
「開き直るな。まあ、呪いってのは、あくまで可能性の一つだ。まだ調査の段階だから、確かなことは何も言えない。そうだ、念のため聞いておきたいんだが、おまい、最近変な匂いをかいだことはないか?」
『匂い?』
「ああ。おまいのような浮遊霊は、悪霊の匂いを感じとることができるはずだからな」
え、呪いの次は、悪霊?
悪霊って、映画とかで人にとりついて脅かしたり悪さをしたりする、あの悪霊?
考えただけで、ぞわっと背筋が寒くなる。
でも、そうか。幽霊のヤシロさんが存在するんだから、悪霊がいたとしても何ら不思議はないのかも。
『いや、べつに感じねえな。どんな匂いだ?』
「すぐにそれとわかるような異臭だ。ま、悪霊でないなら結構だ。悪霊といっても、あいつらにはもう人格はない。負の感情のカタマリのようなもんだから、暴走すると危険なんだ。最近も巨大悪霊集団が……」
小鬼はそこまで言うと、急に口をつぐんだ。
巨大悪霊集団? 何だろう、それ。
『おい、それって犯罪集団か何かか? 穏やかじゃねえな。詳しく聞かせろよ』
「いや、何でもない。そんなことより、さっさと会議を始めるぞ。おまいさんたちには、やらなきゃいけない大事な仕事があるだろ」
ええ? 「話がある」っていきなりしゃべり始めたのは自分のくせに。なんて勝手なやつなんだ。
「エマ、いちいち心の中でおいらに文句を言わないでくれよ……」
「あ、やっぱり人の心を読んでるんだ?」
「ああ。おいらたち霊界で働く小鬼には、それぞれ特殊能力が与えられるんだ。『読心』がおいらの能力さ」
「それ、いい気持ちしないから、やめてくれない? 人の心をのぞくとか、デリカシーなさすぎ」
『え、ってことはおまえ、おれの心の中も読んでんの?』
ヤシロさんが両手を胸に当てて飛び上がる。
「残念だが、生きてる人間の考えしか読めないんだ。それも全部聞こえてるわけじゃなくて、読もうと思わないと心の声は聞こえない」
「じゃあ思わなければいいでしょ!」
「いや、ついクセで……それにせっかく能力があるんだから、使わなきゃもったいないだろ?」
そういうものだろうか。何にせよ、変なこと考えないように気をつけなくちゃ。
「じゃあ、本題に入るぞ。早速だが、これが行動別獲得徳の一覧だ。ざっと目を通してくれ」
小鬼はそう言うと、懐から取り出した巻物の紐をほどき、ヤシロさんとわたしの前に広げてみせた。
トイレ掃除、八徳。
電車で席を譲る、十徳。
人の仕事を手伝う、三十徳。
寄付をする、四十徳……
なるほど。確かに、十六年生きていれば二百徳なんて難しくないように思える。小鬼ではないけれども、ヤシロさんが一体どういう生き方をしてきたのか考えてしまう。
『……どれも幽霊のままじゃできないんじゃねえの、これ』
ヤシロさんが言う。その通りだ。
「幽霊の状態でできない行為については、エマにやってもらうしかないな。その場合、ヤシロにその行為に対する心からの熱意があることが、徳になる条件だ。まあどれを選ぼうが、エマの力を借りた場合、ヤシロが獲得できる徳はこの半分になっちまうから気をつけてくれ」
なるほど、半分。
って、ん?
「ちょっと待ってよ。それじゃたとえば、本来この人のやらなきゃいけないトイレ掃除をわたしが代わりにやるってこと?」
『おう、それがいい。半分ってことはえーと、エマが五十回トイレ掃除してくれれば終わりだな。よし、決まり!』
「はあ!? 冗談じゃない! 誰がそんなこと!」
「もう少し現実的に考えろ。ヤシロが五十回も熱意を持ってトイレ掃除に取り組めるわけがない。やっぱり、そういう肉体を持っていないとできないものは除外したほうがいいな。ヤシロの徳にするには難しいだろう」
なるほど。じゃあ、そういうのは外すとなると……。
「ほとんどないじゃない!」
「まあ、かなり限られてはくるな。あまり時間がないことを考えると、なるべくたくさんの徳を稼げるものがいいんだが……」
小鬼はそう言って巻物の終わりの方を見た。獲得できる徳が多いものが載っている。わたしはその中のひとつを指さして言った。
「これなんかいいんじゃない? 縁結び、五百徳。わたしが手伝ったとしても二百五十だから、一発でクリアでしょう?」
すると小鬼は苦い表情になった。
「まあ、そうだが……あまり勧められないな」
「どうして?」
「縁結びは本来神の仕事だ。いくらエマの手を借りようとも、こいつがそんな大層な仕事をやり遂げられるとは、おいらにはどうも思えない」
『失礼なヤツだなおまえは。おれの何を知ってるってんだよ』
「生まれたときからのこと全部知ってるよ。そのうえで言ってるんだ」
ヤシロさんは小鬼をにらんだかと思うと、はあっと大きく息をついた。
『あー、面倒くさ。他に方法ないの? そもそも縁結びとかする気ないから。おれ自身誰とも付き合ったことないのに』
誰もヤシロさんの恋愛事情に興味はない。
「その通り、興味ないぞそんな話」
『その通りってなんだよ。エマ、おまえも興味ないのか? 女子中学生なのに?』
ヤシロさんがそう言ったときだった。
その背後、社殿の陰から、ぬっと人影が現れた。
「君……一人? 誰と話してたの?」
それはなんと、あの変人の長日部君だった。
どうしてここに? まさか、わたしを尾行してた……とか?
『エマ。こいつ誰だ?』
そんなヤシロさんの声も聞こえず姿も見えない長日部君は、ヤシロさんの体を通り抜けてわたしの目の前に立った。相変わらず、顔が近い。
後ずさりしながら見回すと、小鬼の姿はすでになかった。どこかに逃げたのだろうか。
『ストーカーか? そんな感じの顔してるよな』
ヤシロさんが長日部君の横に立ち、その顔をじっくりと観察している。
「やっぱり……糸が太くなっている。それに、何かいる気配が……」
長日部君はわたしの頭の上に手をかざした。まただ。一体何なんだろう。
「話していた相手はどこ?」
「だ、誰とも話してないけど」
「いや。確かに、君の話し声が聞こえたよ」
「話してません」
長日部君はさらにわたしに顔を近づけてきた。切れ長の目で、じっとわたしを見つめる。
「嘘はつかなくていいよ。僕は君の味方だから。行こう」
そう言うと、長日部君は急にわたしの左手をつかみ、ひっぱるようにもと来たほうへと歩き出した。
「ちょ、ちょっと、痛い!」
『おい、勝手にエマを連れてくなこの変態中学生!』
ヤシロさんが長日部君の頭を数回はたく。しかし手はむなしく空を切るばかりだった。するとヤシロさんの手がわたしの右腕をつかんだ。
『エマ、大丈夫だ。おれが守ってやる』
「ま、守るって……痛い痛い!」
両腕を反対方向にひっぱられ、わたしは悲鳴をあげる。
「束原さん!」
長日部君は振り返ると、わたしをつかむ手に力を入れ、もう片方の手を拳にしてヤシロさんに向かって突き出した。あれ、この人はどうして、わたしの名前を知っているんだろう。
「悪霊退散!」
『は? 何言って……』
ヤシロさんはその手を見て軽く笑った。かと思うと、突風にあおられたように空に浮かび上がり、そのままものすごい勢いで林のむこうまで飛んで行った。
(なっ、何、今の……!?)
「大丈夫?」
長日部君はわたしの右腕を見て言った。
「あの……今のは?」
「もういなくなったから大丈夫だよ」
長日部君は拳を広げ、手のひらを見せた。そこには、白っぽい四角い石が置かれていた。
「水晶だよ。魔除けになるから、いつも持ち歩いてるんだ。普段は布に包んで力を溜めていて、いざというとき使おうと思ってた。今日役に立ってよかったよ」
そう言った長日部君は、にこりと笑ってわたしの肩に手を置いた。
「安心して。僕が君を守るから」
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