3 渡り賃

 目の前に立つヤシロさんは、昨日の朝に駐輪場で会ったときと同じ黒のスウェットを着ている。ついでに、一応確認してみたけれど……足も、きちんとある。

 ああ、よかった! やっぱり、死んだなんて嘘だったんだ。

「いや、死んだよ」

 言ったのはヤシロさんではなく、小鬼だった。やっぱりこいつ、人の考えを読んでいるみたいだ。

「だって、ここにいるじゃない。足だってあるし」

「そりゃ間違って定着したイメージだ。幽霊だって足はある。ちなみに三途の川の渡り賃が六文ってのもウソさ」

 わたしの反論に、小鬼はふんと鼻を鳴らして答えた。あいにく、渡り賃六文なんてのは初耳だ。小鬼はそうと知ってか、拍子抜けしたような顔をした。

「知らないのか。まあこいつも知らなかったしな。というより、ヤシロ! 人の話はしまいまできちんと聞けよ」

 小鬼は空中に飛び上がり、ヤシロさんの頭をぽんとはたいた。

『いて! 何すんだよ!』

「渡り賃が足りないとは言ったが、誰もそれが金だとは言っていない。よりによって最後に言葉をかわした人間のもとに盗みを働きに行くとは、とんだ問題児の担当になっちまったもんだよ」

『うるっさいな。おまえの説明の仕方が悪いんだろ? 渡り賃が足りないと川渡れなくて成仏もできないって言うから』

「だからって話の途中で泥棒に行くこたねえだろ!」

 小鬼は出会ってから一番の大声でどなった。

 ……待て待て。少し整理しなければ。

「あの、ヤシロさん。ヤシロさんにもこれ見えてるの?」

 わたしは小鬼を指さして言った。

『ああ。あ? ていうかなんでキミにも見えてんの?』

「その必要があったからだ。おまいのせいだぞ」

 小鬼がヤシロさんの肩をこづいた。

「あの、これは一体何なの? 小鬼とか、三途の川とか言ってるけど、ヤシロさん、無事だったんでしょう?」

『ああ、いや。死んだよ』

 ヤシロさんはさらりと言った。

『最初は自分でもわかんなかったんだけどさ。自転車が土手で滑って川に頭から突っ込んだんだよ。そんときに頭ぶつけたんだな、気絶して、気がついたら雲の中にいたんだよ』

 なるほど。わかった。

「そのときに頭をぶつけたせいでおかしな夢を見てるんだ。そのせいで変な幻覚見ちゃってて、それがわたしにも影響してるってことね」

「おいおい! おまいさん、まだ信じてなかったのかよ! 二人同時に同じ幻覚なんて見れるわけねえだろ!」

 小鬼が騒いだけれど、わたしはそれを無視した。

「さ、帰りましょう。お母さん心配してますよ」

『いやだからほんとに死んだんだって。幻覚でもねえよ』

 嘘つけ。

「だって触れるし、ここにいるじゃない」

 スウェットの腕をつかむと、確かに人の腕の感触がした。ヤシロさんは困ったように眉の端を下げる。

『いやそうなんだけど、でも死んでるんだよ』

「死んでたら触れないでしょう」

「いやそれが、おまいさんなら触れるんだよ」

 小鬼が口を挟んだ。

「生きていたときに、最後に言葉をかわした人間。そいつは死んだ人間の姿が見えるし、声も聞こえるし、こうして触ることもできる。川を渡る前の短い時間だけだけどな。ヤシロが最後に言葉をかわしたのがエマ、おまいさんなんだよ」

「……最後に?」

 まさか、あの駐輪場での会話が? あんなたわいもないおしゃべりが、ヤシロさんの人生最後の会話だったってこと?

「エマ、おまいさんを呼び出したのはおいらだ。あの手紙、読んだだろう?」

「え? ああ、手紙っていうか、紙きれね。ていうか、なんでわたしの名前知ってるの?」

「おいらは霊界に勤める小鬼だぞ? 名前を知ることなんて簡単だ。それにおまいさんなら、手紙を見れば絶対ここに来るってこともわかってた。調べによれば、真面目な優等生らしいからな」

『なんだエマ、優等生なのかよ』

 ヤシロさんに初めて名前を呼ばれたわたしは、いきなりの呼び捨てにむっとした。

束原つかはらです」

『そうそう、束原エマ。そんな名前だった』

「おい、ヤシロ」

 言いながら、小鬼はクスノキの枝に飛び乗った。

「まずはエマに、おまいが死んでるってことを証明してやってくれないか。それを信じてくれないと、話が進められないんだ」

 言われてヤシロさんは、ぽりぽりと面倒そうに頭をかいた。

『ううーん。仕方ねえなあ……』

 ヤシロさんはクスノキに向かって立ち、拳を思いっきり後ろに引いてから突き出した。

「……あ!」

 当然クスノキの太い幹にぶつかると思った拳は、音もなく幹の中に吸い込まれた。

「な、何これ……どうなってるの? 手品?」

『手品なわけあるか! よく見てみろ! 突き抜けてるんだよ!』

 ヤシロさんは言いながら拳を出したり引いたりした。そのたびに、拳は幹の中に消えたり現われたりを繰り返す。

「ちょ、ちょっと触ってもいい?」

 言うなりわたしはヤシロさんの返事も待たず、幹に吸い込まれている腕に触れた。普通の腕。でも、手首から先は存在しない。手首が幹とぴったりくっついているかのように、どれだけ調べてもヤシロさんの手を見つけることができなかった。

「ほんとに……幽霊、なの?」

 どうしても認めたくないわたしは、ひとりごとのようにつぶやいた。ヤシロさんは拳を元に戻してから言った。

『ああ。おれ、ほんとに死んだんだよ。雲の中でふわふわして、ああこれが意識不明って状態か、早く体に戻りたいと思ったところで、こいつが現れたんだ』

「たまにいる予定外の死人だったから、急いで出張ったんだ。こいつは本来、死ぬべきじゃなかった。というか、死んじゃ困るんだ、こっちが。渡り賃が足りない死人なんて自殺以外じゃそうそう出ない。極めてイレギュラーなケースなんだ」

 小鬼は真面目な顔でそう言った。

 ううーん……。これは悔しいけど、どうも信じるしかなさそうだ。そうでないと、さっきのヤシロさんのイリュージョンの説明がつかない。

 信じたくないけど、とりあえず話を聞いてみるか……。

 それにしても、「予定外の死人」ってどういうことだろう。さっきから言っている「渡り賃」というのも、よくわからない。

「ああ、そうそう、渡り賃な。ようやく本題に入れるな」

 わたしの考えを読んだらしい小鬼が、うれしそうに緑の目をきらりと光らせた。

「いいか、人は死んだらまず、おいらたち子鬼の案内で三途の川の渡し場に行くんだ。三途の川を越えることで、人はこの世とのつながりを断って、成仏に向けて第一歩を踏み出すことができる」

 ヤシロさんは、小鬼の話を聞いているのかいないのか、夜空を見上げながらふわふわと空中浮遊している。そうか、幽霊だから飛ぶこともできるのか。初めからそれを見せてくれれば、もう少しすんなり信じられたかもしれない。

「さっき、渡り賃が六文銭ってのはウソだって言ったよな。だけど三途の川を渡るには、渡り賃が必要になるんだ」

 小鬼の言葉に、ヤシロさんが不機嫌そうに眉根を寄せた。

『金じゃないなら何だってんだよ』

「徳だよ」

 ……とく?

「そう。徳貯金から払ってもらうんだ。徳貯金ってのは、生きてる間にした『いいこと』に対するポイント付けみたいなもんなんだ。あの世の集計システムが、行動を常に監視し、記録している。たとえば、落ちているゴミを拾って捨てれば、それで三徳になる」

「さんとく?」

「徳の単位だよ。三ポイントってことだ」

『しょぼ。なんだそりゃ』

「行動に対して割り当てられる徳は決められている。すべての徳の合計が、死んだ時点でのその人間の『徳貯金』の総額になる。ちなみにこの徳貯金は、三途の川を渡るだけじゃなく、その後の諸々の手続きでも必要になってくる、重要なものなんだ。まあそこは守秘義務で言えないがな」

 なるほど。徳、ねえ。

 ……なんだか、わかるようでわからない話だ。

「結論を言うが、渡り賃として必要なのはヤシロの場合、二百徳なんだ」

『にひゃく? そんなに?』

「いや、普通に生きていれば余裕でクリアできる数字だぞ。ちなみにこの渡り賃は、生きた年数に応じて変わってくる。七歳以下は無料だしな」

『七歳ってことにしてくれよ』

「無理だ阿呆!」

「で、ヤシロさんの徳は、何徳だったの?」

「そいつが問題なんだ」

 小鬼はそう言うと、急に神妙な面持ちになった。

「聞いて驚け。ゼロだ」

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