2 幻覚神社
わたしはしばらく言葉を返すことができなかった。
亡くなった? つまり、死んでしまった……?
まさか。そんな。
「昨日って、いつ」
「昨日の午前中らしいわ。自転車で、川に落ちてしまったんですって」
昨日の午前中、だって?
おかしい。わたしが貯金箱泥棒をしているヤシロさんを見たのは、昨日の夕方だ。
「それ……本当なの?」
「こんな嘘ついて何になるの!」
お母さんは少し怒ったように言った。わたしは力なく自分の部屋に入り、カバンを床に置いた。
「ごはんは買ってきてあるからそれ食べて。じゃ、行ってくるわね」
隣の部屋から聞こえるお母さんの声に、わたしは答えることができなかった。
意味がわからない。貯金箱泥棒をしたヤシロさんは、ヤシロさんではなかったんだろうか。いや、違う。あれは絶対にヤシロさんだ。その日の朝会ったばかりの人の顔を、間違えるはずがない。
ほらやっぱり幻覚ね、という千里の声が聞こえてくるようだった。
お母さんが出かけた後、一人になった家で、冷めた牛丼を食べながら考えてみる。けれどもどう考えても、納得のいく答えを出すことはできなかった。
わたしはもう一度貯金箱を捜そうと決め、足早に階段を上った。部屋に入り、明かりのスイッチに指をかける。
その途端、違和感を覚えた。ぼんやりとした月明かりに照らされた机の上に、あるはずのないものが見える。
ぱちん、と音を立てて電灯をつけると、さいせん箱型の貯金箱が、ただいま帰りましたとでも言うように真正面をこちらに向けて座っていた。
「……なんで?」
貯金箱を持ち上げる。軽い、と思ったと同時に、机に一枚の紙きれが置かれていることに気づいた。
『白山神社にて待つ』
そこには一言、こう書かれていた。少し震えてはいるけれど妙に機械的な文字で、手で書いたようには見えなかった。
白山神社は、ここからそう遠くないところにある神社の名だ。小さい頃、お祭りに行ったことが一度だけある。
貯金箱を持ち上げ、その様子をくまなく点検する。どこにも傷はついていないし、汚れたところもなかった。
(いったい、どうして……)
震える手で貯金箱を置く。ふと、消えたヤシロさんの黒い背中が頭をよぎった。
わからないことだらけだけど、待つと言われたなら、行くしかない。
わたしは紙きれをスカートのポケットに入れ、家を飛び出した。
*
夜の神社の境内はしんとしていて、人どころか動物のいる気配すらしなかった。
お守り袋をぎゅっと握りながら、ヤシロさんの顔を思い浮かべる。
そうして、家でずっと考えていたことを思い返した。
――ヤシロさんは、死んでいない。
わたしはどこかで、そう信じているのだ。
そうすれば、昨日の貯金箱事件のことだって説明できるし、千里に「幻覚」だなんて言われなくてすむ。
いや、そんなことはどうでもいいのだ。
ヤシロさんが生きていると知ったら、ヤシロさんのお母さんはどれだけ喜ぶことだろう。
ヤシロさんは、ご両親の離婚を機にうちのアパートへ引っ越してきたらしい。母一人、子一人の、二人家族。
うちと、同じだ。
朝早く家を出て夜遅くに帰ってくるヤシロさんのお母さんのことを、わたしは入居時のあいさつ以来、ほとんど見たことがない。息子のほうも部屋にいるんだかいないんだかわからないし、お母さんと同じく、あいさつ以降はほとんど姿を見なかった。
わたしにとって、隣のヤシロ家は幽霊家族だった。
物音がしない。気配がしない。「YASHIRO」という表札は出ているし、郵便物は届く。自転車も二台ある。でも、本当に住んでいるのかどうか、何しろ姿を見ないからよくわからない。
わたしは、聞いた話でしか、ヤシロ家のことを知らない。
昨日、ようやく自転車置き場で出会って言葉をかわし、「知り合い」になれたように思えた。幽霊じゃなくほんとに生きてるんだ、隣に住んでいたんだと、実感することができた。そうして、どこかでほっとしていたのだ。
その矢先に、お通夜だなんて。
「信じたくないよなあ、そりゃ」
「……ひっ!?」
耳元で声がして、わたしは飛び上がった。
子供の声だった。あたりを見回す。誰もいない。
(何、今の……!?)
どうしよう。幻覚どころか、幻聴まで聞こえるようになってしまった。千里のにやにや顔が思い浮かぶ。
まさか、幽霊? 冗談じゃない! わたしは震える体を両腕で抱きしめるようにして、きょろきょろと周りを見た。
「ここだよ」
その声と同時に、頭をぽん、と軽く叩かれる感触がした。
「ぎゃっ!」
見上げると、参道わきのクスノキの太い枝に、赤い着物を着た人形のようなものが腰かけているのが見えた。
人形は、おびえているわたしを見下ろして、おかしそうにけたけたと笑った。そうして、ひょいと飛び降りる。
「な……何?」
わたしのすぐ前に立ったそれは、身長が三十センチほどの人間の子供のようだった。おかっぱのような黒髪の頭から小さな鹿の角のようなものが二本生えている。緑色の目、小さい鼻、大きな口。着物の袖や裾は大きく広がりひらひらと波打っていた。どこぞのゆるキャラのように見えなくもない。
「おいらは
――三途の川、だって?
いや待って、落ち着こう。
これは、幻覚なんだ。実際には存在しない、まやかしだ。認めたくないけれど、千里が言ったように、わたしは幻覚を見る体質になってしまったんだろうか。
それにしても、なんで三途の川? わたしはそういう話好きじゃない、というよりそもそも信じていないんだけど。
とにかく、しっかりしなくちゃ。
気持ちを強く持てば、こんなものは一瞬で消え去るはず!
(ぬううん……っ!)
わたしは幻覚が消えるように、意識を現実へと集中させた。わたし以外誰もいない、静かな境内。心地よい夜風。ああ、気持ちいい。
ちらりと人形のほうを見る。まだ消えていない。すると人形はわたしを見て、おやと首をかしげた。
「何してんだ? 現実逃避はよくないぞ。あと人形じゃないから。言うなら小鬼と言ってくれ」
この幻覚は、どうもわたしの考えていることを読んでいるらしい。でもわたしの作り出した幻覚なら、それも当たり前だろう。
とりあえず逃げよう。夜の神社なんかにいるせいで、こんなろくでもない幻覚が見えてしまうんだ。
「幻覚じゃないって。ほら、感じるだろう」
「ひゃ!」
小鬼はひょいと飛び上がり、わたしの顔を両手で挟んだ。子供のように柔らかく、あたたかい手の感触が伝わってくる。思わず鳥肌が立つ。
「あ……あなたは、何なの?」
「さっき言ったろう。三途の川の水先案内人。この世とあの世の橋渡し役さ」
「この世と、あの世の……? そ、それじゃあ、わたしをあの世に連れていくつもり?」
言いながら、背筋が冷えるのを感じる。そんなホラーな展開は勘弁願いたい。
小鬼はわたしの不安を感じ取ったのか、笑って首を振った。
「勘違いしないでくれよ、おいらは死神じゃない」
「じ、じゃあ、どうして……」
「おまいさん、おいらの手紙を見てここに来たんだろ? おいらはおまいさんを、あいつに会わせるためにここに呼んだんだ」
小鬼はクスノキを指さした。
その幹の中から、ぼうっと何か黒いものが浮かび上がってくる。それがだんだんと人の形になっていくのを見て、思わず後ずさった。
けれども、そこに現れた人物を見て、わたしはぎょっとした。
「泥棒!」
言われたその人は、わたしの言葉に不満げな顔をした。
『……失礼な。返しただろ?』
もやに包まれたような、ぼわんとした声だった。
この声は、忘れもしない。
ヤシロさんだった。
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