ヤシロさんは成仏できない

七海 まち

1 さいせん箱泥棒

 その日は、どこまでも普通の、ありふれた一日だった。

 いや、正確には、そうなるはずだった。

 自分の部屋で、泥棒を見つけさえしなければ。

(――え?)

 部屋のドアを開けた瞬間、足が止まった。

 中学からアパートに帰ったら、わたしは奥にある自分の部屋に直行する。ドアを開けたわたしの目に飛び込んでくるものは、いつもであれば正面の窓と机、その隣にあるカラーボックスだ。

 けれど、その日わたしが見たものは、黒いスウェットを着た男の背中だった。

(なっ、何これ? 不法侵入? 泥棒?)

 そう思った瞬間、泥棒が勢いよくこちらを振り返った。その顔を見て、思わず息をのむ。

 泥棒の正体は、アパートの隣の部屋に住む男子高校生、ヤシロさんだったのだ。

「やべっ!」

 ヤシロさんは小さくそう言うと、あわてた様子で窓に足をかけた。そのまま体を持ち上げ、外に飛び出そうとしている。

 わたしはカバンを放り出し、その黒い背中めがけて手を伸ばした。

 不思議と、怖さはまったくなかった。それは、相手があのヤシロさんだからだろう。ヤシロさんとは、その日の朝、アパートの駐輪場で言葉をかわしたばかりだった。

「ちょっと、待って!」

 あと十センチほどで、その背中をとらえようとしたとき。

 ヤシロさんは、こつぜんと姿を消してしまった。

 いなくなってしまったのだ。それこそ、魔法か何かでぱっと透明になるように。

 机に手をつき、身を乗り出す。住宅街を映すガラス窓は、ぴっちりと閉まっていた。

 ここは二階だ。足場になるものはないし、下の路地を見渡しても、ヤシロさんらしき人影は見当たらない。もう一度部屋の中を見回したけれど、ヤシロさんの痕跡はどこにもなかった。

 わたしはしばらく、呆然とそこに立ち尽くすしかなかった。


  *


「意味わかんない。幻覚じゃないの?」

 次の日の朝。比良坂ひらさか中学二年三組の教室で、クラスメイトの千里ちさとが疑わしそうな表情で言った。

「違うって。現に、モノが盗られてるんだから」

 千里のあきれたような顔に、むっとして言い返す。まぼろしを見るほどにまいっているわけではないし、目だって悪くない。

 あの後、もう一度部屋の中をよく調べてみた。すると、カラーボックスに置いてあったさいせん箱形の貯金箱がなくなっていることに気づいたのだ。

「その貯金箱って、いくら入ってたの?」

「べつに。たいしたことないよ」

「とか言って、相当貯めこんでるんじゃない? 勉強と同じく、コツコツ着実に。何しろ優等生だもんねえ、エマは」

 千里の言い方は皮肉めいていて、言われてもいい気持ちがしなかった。

 べつにわたしは、好きで「優等生」をやってるわけじゃない。勉強に打ち込んだ結果、気がついたら学年トップになっていたというだけだ。これを言うと、千里にはいつも「あんたが憎い!」って言われてしまうのだけど。

「家に帰って、もう一度よく捜してみたら? ひょっこり出てきたりするんじゃない?」

「昨日、くまなく捜しました!」

 そう。ヤシロさんが消えてから、わたしは貯金箱と一緒にヤシロさんがどこかに隠れていないか、部屋中どころか家中を捜し回ったのだ。狭い家だから時間はかからなかったけれども、結局どちらも見つけることはできなかった。

 そこでわたしは、こう考えてみた。

 ヤシロさんは窓に足をかけてそこから逃げたと見せかけて、実はものすごいスピードでわたしの後ろを取り、別の場所から外に逃げた……と。

 でもやっぱり、それはちょっとおかしい気がする。果たしてヤシロさんに、そんなアクロバティックな動きができるものだろうか。

 ヤシロさんは、もうずっと学校に行っていない。いわゆる、ひきこもり状態なのだ。

「まあ、もしそれが事実だとするなら、そのヤシロさんとやらに聞いてみるしかないんじゃない?」

 チャイムが鳴り、千里は席に戻りがてら言った。

「消えたっていうのはよくわからないけど、確かに隣の人だったんでしょ? あれこれ考えてないで、さくっと確かめちゃいなさいよ」

 千里のツヤのある黒髪を見送りながら、わたしは静かにため息をついた。

 どうしてだろう。

 どうしてヤシロさんは、たいして重くもない、あの貯金箱を持っていったんだろう。

 あの貯金箱は、貯金箱でありながら、その役目を果たしてはいない。

 お金なんて、一円も入っていないのだ。持ち上げると、その軽さに驚くほどだった。

 だけど、わたしにとっては、ずっしりと重たい存在だった。

 いらないのに、捨てられない。見たくないのに、しまうこともできない。

 なくなったことに気づいたとき、一瞬、ほっとした。けれども、すぐに心臓がうるさく騒ぎ出した。それからずっと、そわそわと落ち着かない気持ちが続いている。

 もう一度、ため息をつく。よりによって、なんであの貯金箱だったんだろう。

「おはよう。今日はなんだか肌寒いな!」

 先生が教室に入ってくる。やがてホームルームが始まると、わたしは窓の外に目をやり、駐輪場にいたヤシロさんの丸まった背中を思い返した。


 ――昨日の朝。

 その日の夕方、貯金箱を盗まれることになるなんてこれっぽっちも知る由もなかったわたしは、アパートの駐輪場でめずらしい人を見つけた。

「おはようございます」

 わたしの自転車のすぐむこう側に、黒のスウェットの上下を着たヤシロさんが立っていた。もう長いこと散髪に行っていないのか、伸びた前髪は横に流れ、うなじにも髪の毛がかぶさっている。

 うちが大家をしているこのアパートにヤシロ家が引っ越してきたのは、今からだいたい二年前のことだ。ヤシロ家、といっても、お母さんと彼の、二人だけだったけれど。

「あ……オハヨ」

 ヤシロさんは大きな目をぎょろっと動かしてわたしを見た。朝日を浴びるその瞳は、少し茶色がかっているように見える。

 その足下に、自転車の空気入れが見えた。どうやらヤシロさんは、自分の自転車のタイヤに空気を入れているところらしかった。

 わたしは自転車のカゴにカバンを入れ、スタンドを蹴ってはね上げる。ヤシロさんはその様子をじっと見ていた。

「何ですか」

 思わず言ってしまう。じろじろ見られるというのは、あんまりいい気分じゃない。

「いや、ずいぶん早いんだなと思って」

 言われて、わたしは今の時刻を考えた。七時四十分。そんなに早い時間じゃないのだけど。

「普通ですよ。いつもと同じです」

「そうなの? おれが中学のときは、もっと遅かった気がするけど」

 そう言えば、この人も比良坂中学出身なのだ。わたしが一年生のとき三年生だったはずだけど、朝も帰りも、そして学校でも、ほとんど姿を見かけたことがなかった。

「ヤシロさんの息子さん、中学生の頃から学校に行っていないみたい。高校も、入学式しか行かなかったらしいわ」

 数か月前にお母さんからそう聞いて、わたしは初めてヤシロさんが部屋にこもっていることを知った。 

 今は、十月。ヤシロさんはもう、半年間高校に行っていないことになる。

「どこか行くんですか」

 好奇心から、わたしはそう尋ねていた。今思えば、失礼な言い方だったと思う。本来なら学校に登校するはずの高校生に、「どこか」だなんて。

「あ? ああ。ちょっと、ひさしぶりに外の空気が吸いたくなって」

 ヤシロさんはすぐにそう答えた。

「そうですか」

 わたしは急にばつが悪くなって、自転車を引いて立ち去ろうとした。すると、

「あと二年で十八になるって気づいたらさ。ちょっと焦ってきちゃって」

 ヤシロさんが、まるで何かの言い訳をするように言った。

「十六、十七は、まだいいよ。でも十八って! いきなりすごい大人感じゃない? やべえよ」

「はあ」

 十八歳って、やべえものなんだろうか。よくわからない、という気持ちが、そのまま声に出てしまう。

「だからまあ、なんていうか、その準備」

 わたしは何もわからないまま、「なるほど」と言って自転車にまたがった。そろそろ、時間が気になりだしていた。

「いってらー」

 最後にヤシロさんは、妙に明るい声でそう言った。わたしは振り返り、軽く会釈をした――。


(準備って、一体何だったんだろう)

 ヤシロさんの少しとぼけた調子の声を思い出しながら、わたしは窓の外に広がる高い空を見上げた。


  *


 放課後。貯金箱やヤシロさんのことをぼんやりと考えながら家路についたわたしは、玄関のドアを開けて「あれっ」とつぶやいた。仕事に行っているはずのお母さんの靴が、少し乱れた形で脱いである。

 お母さんが仕事から帰るのは、大体夜の七時頃だ。短い廊下を通り、リビングダイニングキッチンへの扉を開けると、真っ黒な人影が視界に映った。昨日のヤシロさんを思い出して、ぎょっとする。

「エマ」

「なんだ、お母さんか」

 それは、黒いスーツに黒いタイツ姿のお母さんだった。首元の真珠のネックレスだけが、白く光っている。

「その格好、どうしたの? 何かあったの?」

「これからお通夜なのよ。連絡があって早退してきたの」

「誰の?」

 わたしはあまり会っていない親戚の顔を何人か思い浮かべた。お母さんは、やりきれないといったふうに悲しげな顔で言った。

「202号室のヤシロさんの息子さん。昨日亡くなったんですって」

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