第6章 第9話 待ち受けるもの

 宿場町で待っていたのは今にも壊れそうな、一台の箱形馬車だった。

 鉄製の車体にはさびが見られ、腐食の深刻な屋根は今にも穴が空きそうである。馬車に馬を繋ぐ木製のながえも、すでに二頭の馬がつながれてはいるものの、その表面の塗料はげ、ささくれ立って、馬を傷つけそうでさえある。


 異形の兵たちの侵攻に恐れをなしたヨツンヘイムの国民たちはこぞって馬車を駆り、隣国のアールヴヘイムや諸国連合へと逃げ出したため、貸馬車屋にも馬車は、すでにこの一台しか残されてはいなかった。

 この馬車に金貨十枚という法外な対価を支払い、ユミルは三人の客人を馬車の中へと案内した。


 色あせた馬車の客席にはシアルヴィとフィアナが後ろ向きに、そしてジークとユミルが前を向くようにして、四人が向かい合って座る。ジークもシアルヴィも、膝に手を降ろしてはいるものの、それぞれ片手は剣の柄へと添えられている。

 御者台に乗った魔法兵が鞭を振るい、ゆっくりと馬車は走り始める。

「あの、おききしてもよろしいですか?」

動き出した馬車の中、フィアナが静かにユミルへと問う。


「あの……あなた方はどうして、あの平原におられたのですか?」

フィアナの問いかけにユミルだけでなく、ジークもシアルヴィも、それまで伏せていた顔を上げる。

「あの平原にはかつて異形の怪物が現れ、一つの魔法が怪物も、人も、全てを飲み込んだときいています。そして、その犯人だと思われたジークさんたちがあなた方に襲われたということも。」

「……あなたは、随分とききにくいことを、あっさりときかれる方なのですね。」

「すっ、すみません!」

ユミルの返答に、フィアナは顔を下げ、肩をすくめる。


「いいのですよ。こうしてまた巡り合わせたのも何かの縁でしょう。」

そう言ってユミルは乗り合わせた三人をゆっくりと見回し、そして静かに語り始める。


「あなた方が連れ去られた後、私達はあの平原へと向かいました。そこにはあなた方がおっしゃられたように、人ならざる者となったわが同胞たちが魔法による傷を受け、多数倒されていた。私達はあなた方二人が我が同胞たちを怪物へと変え、さらには魔法をもって倒したのだと、その時点では、そう、確信しました。」

 シアルヴィがゆっくりと下を向き、まぶたを閉じる。

 そう考えられたのも無理はない。ずっとジークを、そして魔族を目にしてきたシアルヴィにさえ、なぜそれが巻き起こされたのかといった理由に、いまだ確信を持つことはできずにいる。ましてユミルを前にしてあれほどまでに怯えていたジークを見れば、彼がその下手人げしゅにんだと見なされたところで、あの時点において、彼らの判断は妥当だろう。


「しかし、それからすぐに、我が国は先ほどのような、いえ、先ほどのように強くはありませんでしたが――異形の、魔物ともいうべきもの達によって、攻め込まれる事態となってしまったのです。」

 そしてユミルは一呼吸おき、話を続ける。

「その原因はすぐに解明することはできませんでした。繰り返し襲う魔物たちに、我々はそれをさばくので手一杯だったのです。ですが、ようやく対処できるようになってきた頃に、今度は先ほどのような――数人では対処しきれないほどのものまでが現れるようになってしまったのです。」

「そこで、私達がそれを引き起こしたという『確信』に、疑いが生じたというわけか。」

ユミルの言葉を受け、シアルヴィが言う。ユミルは少しの間を置き、彼の言葉を肯定する。


「――そのとおりです。そして犠牲を払いつつ魔物を倒したとして、その後、力尽きた同胞が異形の者へと変わっていく姿さえ、私達は目にしました。そして、私達の疑惑は確信へと変わりました。あなた方はあの一件の犯人ではなかったのだと。」


 シアルヴィが目を閉じたまま眉を寄せる。

 彼の脳裏には孤児院が失われたあの日、熊のような魔物に変えられた少女の姿と、その後現れた、不死者の群れが思い起こされていた。


「そして、私達は再び草原を訪れました。あの時、我が兵たちを魔物に変えてしまった何かがあの場所であったのだとすれば、再び調査をすれば、それの痕跡が見つけられるかと考えたのです。ですが――」

「現れた魔物にはかなわずに、逃げてしまったというわけですね。」

フィアナの言葉にユミルが横目でそちらを見やり、フィアナが慌てて口を覆う。


「いや、おっしゃるとおりです。あの場にあなた方が居合わせてくださったのは幸いでした。でなければ――」

 ユミルが言いかけたとき、ジークとシアルヴィがほとんど同時に上を仰ぐ。

 直後、シアルヴィがフィアナへ被さり、ジークがユミルの腕を引いて倒すとともに、馬車の床へと身を低くする。

 直後、馬車の屋根へと打ち付ける、ひょうにも似た音。同時に、屋根を貫いた炎の矢が馬車の座席や背中へ突き立ってくる。


 だが発した火を払うよりも早く、身体を起こしたジークとシアルヴィは一瞬互いに視線を合わせ、ジークは馬車の扉を蹴り開けるとともに翼を開き、馬車の外へと飛び出すと、わずかに飛翔し屋根へと上る。

 シアルヴィは車内と御者台を隔てる窓へと向かい、手にした短剣の柄で硝子を打つ。


 フィアナらがその背や馬車の内部に起こる小さな火を、両手で叩いて消火に当たり、それとともに前方を見る。先の火の矢に貫かれたのか、屋根もない御者台の上では哀れな兵士が、その身をぐらぐらと揺らせている。さらに、驚いた馬の速度は大きく上がっており、このままではどう走り続けるさえ見当がつかない。


 シアルヴィは生じた亀裂から硝子を御者台の方へと押しやって割り、がらんどうになった窓から兵を馬車の中へと引き込むと、そのまま馬車内の二人へ預け、代わって自分が御者台に乗る。

 魔法兵を受け取ったフィアナが回復魔法を唱え始める。御者台のシアルヴィが手綱を取る。馬車の速度が次第に落ち着いていく。



<――聞け!>

 馬車の上ではジークが叫ぶ。

 だがそれは、この世界で使われている言葉ではない。この世界で今まで、ジークが発したことのない言葉だった。

 相手は馬車の上を飛行する、爬虫類にも似た生き物の群れ。体長はジークの身長と同じぐらい。大きなコウモリのような翼で飛行するそれは、まぎれもなく彼の知る竜の姿であり、先の炎の矢を放ったのも間違いなくこの存在だった。


 ジークの言葉に、竜たちの数頭が顔を見合わせるようにお互い向き合う。ジークの表情が一瞬緩む。

 だが彼はすぐに元の険しい表情に戻ると、竜たちに向かい言葉を続ける。

<お前達竜族ははるかな昔より、我々と共にニヴルヘルを統治してきた、同士だったはずだろう! そのお前達がなぜ、人間界の戦いなどにその身をやつしているというのだ!>


 竜たちの答えはない。歯ぎしりにも似た音がわずかに聞こえ、直後、その口の端に小さな炎の欠片が灯る。

 そして再び、竜の口から馬車へと吐かれる炎の雨。


<――聞けと言っているんだ!>

ジークが剣を振るう。あの日帝都で、降りかかる魔法を払ったように。


 だが竜たちの矢は払えなかった。

 打ち払う前に、炎は剣へと吸い込まれた。その剣の、薙がれた軌跡を追うようにして。

「これは!?」

ジークは思わず剣へと目をやる。刃の色は何も変化していない。

 だが、柄にはめられていた黒緑色に輝く宝石。その色が今、竜たちの放った火の矢の色を映したような、鮮やかな赤に変化している。


「わかる――」

 剣から、意志が伝わってくる。

 ジークは剣を右手でその左側へと構え、剣の意志のままに叫ぶ。

「――解放せよ!」

 言葉と共に薙がれた剣から放たれる、衝撃波となった赤い光。

 そのまま竜の群れへと向かい、群れは蜘蛛の子を散らすように逃げ惑い、そのまま一様に、彼方へ向かって飛び去っていく。

 そして、その姿を目で追ったジークが視線を剣へと戻したとき、その宝石はまた、元の黒緑色へと変化していた。


「――今のは――」

ジークが呟きかけるが直後、馬車の中から声が上がる。

「まずい! あちらは王宮の方角だ!」

ユミルの声には焦りと恐怖が含まれていた。


「馬車を、急がせてください!」

馬車の上からジークが叫ぶ。

 シアルヴィが手綱で合図を送り、馬車の駆ける速度が上がる。だが竜たちの姿はすでに小さく、馬車よりも先に王宮に着くのは明白だった。

「先に行きます!」

ジークが翼を開き、そして馬車の屋根から空へと飛び立つ。


 ――魔族――人間――そんなことなど、今の彼にはどうでもよかった。

 ただ、自身の本能に従うように彼は竜を追い、そして、右手で印を描いた。

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