第6章 第4話 樹上の楽園

 うろの中には不思議な雰囲気を感じる空間が広がっていた。

 ほぼ円形を形どるその直径はジークとシアルヴィが片手を繋ぎ、各々が両手を広げたほどの広さがある。暗い空間ははるか天まで繋がるがごとく、真っ直ぐに世界樹の中を貫いている。


 現在は下にある神殿から注ぎ込む光で周囲を窺うことはできるが、このまま登りゆけば、すぐに闇のみが感じられる空間となることだろう。

 見上げれば辺り一帯は闇に包まれ、はるか上方には星のように輝く小さな光が見える。おそらくはそこが世界樹の頂。しかし一目見てわかるとおり、その距離はあまりにも遠い。

 だがジークは口を真一文字に結ぶと、フィアナから受け取った短剣を壁へとつきたて、うろの内側へと足をかけた。


 その短剣は大いに役立つものであることを、ジークは登り始めてすぐに悟った。

 うろ、すなわち樹齢を重ねた大樹の内側にできるその空間において、彼の触れる壁面は朽ち、またしっとりと湿り気を帯びていた。

 壁面をつかもうとすれば、たちまち朽ちた壁は板状に剥がれ、ジークを落下させようとする。


 右手でその壁面へと突き立て、我が身を維持する短剣がなければ、彼の身体は幾度、神殿の祭壇へとたたきつけられていたかわからない。

 しかし肉体とは慣れていくもので、次第に彼の左手は、そして両足は、つかんだとして剥がれ落ちない、安定した壁の一部を探りながら、うろの壁を登る手段を身につけていくのだった。


 だがどれほど登ろうと、上方の光は一向に大きくなったようには感じられない。上を見れば到達するにはまだ、気が遠くなるような距離があった。

 さらに短剣を壁に突き立てたまま下を見れば、遙かに小さく、豆粒のようになった神殿の明かりがその目に映る。

 そのまま背後へと視線をやれば、広がるのはただ、闇に支配される世界。


 ジークは右手の短剣で我が身をぶら下げたまま、その右肩へと左手をやり、自身の肩甲骨のあたりへ触れる。

「あれは……何だったのだろう……」


 彼が思考に思い描くもの。それはあの日、帝都の監獄棟で兵士二人を打ち倒し、自身を中庭へと降下させた不思議な力。

 その力を再度自身の内から出すことができたならば、この空洞を駆け上ることなどたやすいのだろう。

 だが自分の背には今、その力の片鱗すら感じられない。力の出し方すらわからないなら、利用することなどできるはずもない。


 諦めたようにジークは肩から手を離し、再度目の前の壁をつかむと、右手の短剣を今刺さっている位置から引き抜くとともに上へと伸ばし、突き立て、まだ見ぬうろのはるか上方へと、我が身を引き上げていくのだった。



 そしてさらに、どれほどの時が流れただろう。ジークはいまだ、世界樹のうろの内側にいた。

 闇色の壁へ短剣を突き立てる右手も、支える左手も、蹴り上げる足も、もはや全てが自分のものでないようにさえ感じる。

 すでに自分がどれほど登り続けたのかさえはっきりとしない。

 もはやジークに思考や意志といったものはなく、ただ上を目指すことを命令づけられた獣のように、彼はその短剣とともにその身を持ち上げるのみだった。


 だが突如、不意に彼の思考は取り戻される。

 すでに幾度目かわからない短剣の振りは壁をとらえず、突き立てようとした右手は空を切り、ジークはそのまま柔らかな『大地』へとその上体を倒れ込ませた。


「ここは……?」

 朦朧もうろうとする意識の中でそう口にし、うろからつま先を含む全身を『大地』の上へと引き上げると、膝をついたまま周囲を見回す。

 瞳に映る緑の世界。周囲を満たす湿潤な大気からはわずかな芳香が感じられる。

 だが、そこが何であるのか、もはや彼には確かめるだけの力はなく、疲れ果てた身体はそのまま倒れ、そして意識は眠りの中へと落ちていった。



――やがて、ジークは静かに両目を開く。

 数刻にも満たないわずかなまどろみ。


 だがその短さに反して彼は今、自身の体内にあふれるほどの力が取り戻されていることを実感していた。

「これは、一体……?」


 彼は起き上がり『大地』の上へと真っ直ぐに立つ。

 周囲に広がるのは先ほど、おぼろにとらえた緑の景色。天井も壁面も、そして彼が今立つ『大地』も。その全てが常緑樹の葉のような緑の色で占められている。

 さらに、緑に囲まれたこの空間を満たす白いもやが、この場に幻想的な雰囲気を感じさせていた。

 広さでいうのならば先ほど案内された礼拝堂と同じぐらい。時が時ならここへ誰かを案内し、丸一日でも戯れていられる。そのような空間が大樹の上には広がっていた。


「ここが、世界樹の頂なのか?」

 呟くようにジークは口にする。だが、どうやらそうではないようだ。

 わずかに視線を振った彼の目に映るのは、それが地上であるのなら大樹と言ってもいい大きさの一本の樹。


 緑の世界の中で、それもまた緑の葉に覆われた大樹は、ここはまだ頂ではない、というように真っ直ぐに天を目指している。

「まだ、終わりじゃないみたいだな……」

言ってジークは大樹へと向かい一歩を踏み出す。


 両足で踏みしめる緑の『大地』。そこは確かに世界樹の上に広がる世界なのだろう。

 緑ともやに包まれる幻想的な木の上の地盤は、足下に葉の柔らかさは感じるものの、その下には確かに、大地に似た感覚を感じられる。


 おそらく、かつて世界樹はその上部を何らかの理由により失い、その中心をうろと化した。

 だが梢はこの場ではびこり、さらにその上を落ち葉が覆うことによりこの空間は形成されたのだろう。


 ジークは若い大樹の前へと歩み寄り、両手で触れる。

 目の前の大樹は上方より流れ落ちる液体にその表面を潤わせ、樹皮の一部に小さな流れを作っていた。


 ジークは流れを片手で受け、掌に留まる水をその目の前へと引き寄せる。

 温かみのある柔らかな水。指の間を流れ落ちるそれは乳白色で、わずかな粘度を感じられる。

 おそらくはこれこそが、『奇跡の泉』の流れなのだろう。そして、この空間を満たすもやもまた、この温かな流れによって生み出されている。


 だからこそ、わずかな休息で自身の力は取り戻されている。

そうでなければ、あれほど疲労困憊であった我が身の力が、この短時間で取り戻されるとは考えられない。

 大導師の行っていたとおり、たしかに『奇跡の泉』には、触れた者の傷や疲労を癒やす力が宿っているのだ。


 だが、その流れはあまりにも弱々しく、この水量では下にある神殿までその流れを届けることはできそうになかった。

 だからこそ、『奇跡の泉』は涸れたと思われていた。


 しかしおそらく、この大樹の上に『奇跡の泉』の源流は存在する。

 もしもこの若い大樹を登り切り、そこへとたどり着くことができれば、今、世界樹に起こっている異常の原因を探ることもできるのだろう。だが――


 ジークは頬を大樹へと近づけ、その長い耳を樹の表面へと押し当てる。

「……生きている。」

樹の内側からは確かな生命の音が、水を吸い上げる音が聞こえてくる。


 すでに朽ちたうろにならば短剣を突き立て、登ってくることはできた。だが、生きている樹の表面に短剣を突き立て、登ることなど――


「ぼくは、どうすれば……?」

耳を樹皮に押しつけたまま、ジークは静かに瞳を閉じる。


――その時だった。

 背後より聞こえる落ち葉を踏む音。そして感じる何者かの気配。


 ジークは慌てて大樹から離れると共に右手の短剣を強く握り、もやにかすむ視界の向こうへと、視線を投げかけるのだった。

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