第5章 第6話 二人の脱走者

――シアルヴィさん、ぼくは――


 黒髪の青年の投げかけた問いに、すぐには答えは出せなかった。

 ただ、シアルヴィはもういない。聞かされたその言葉だけが、彼の思考を支配していた。


 赤い宝石のような右目を持つ黒髪の青年は、無言のまま、ジークのことを見下ろしている。

 その手を取れば、自身の生は保障されるのだろう。しかし――


 そのまま、誰も言葉を発しないまま時は流れ、そして、

「脱走だ――!」

彼らの静寂を破ったのは、彼方より聞こえた一人の男の叫びだった。その声を追うように数人の兵士たちが扉の先に見える廊下を、音を立てて駆け抜けていく。


「何事だ!」

ジークから視線を外し廊下に向かって叫ぶ黒髪の青年に、兵士の一人が足を止め、敬礼を送ると、息を弾ませた声で答える。

「――脱走です! 『紅い死神』が、脱走しました!」


――脱走。

――つまり、生きている。


――まだ、生きている!


 ジークの思考にわずかながら光が差し込む。

 だが、それをかき消すように、黒髪の青年の言葉が冷たく響く。


「うろたえるな!」

ジークがあわてて青年を見上げる。

「城の上階に魔法兵を配しろ! 奴は魔法を行使することができない! とうを出たところを狙い打てばいい!」

「――!」

わずかに振り向いた青年が、微笑んでいるように見える。ジークの思考が激しく逆立つ。


「奴を――」

「やめろ――」


「――――」

「――やめろ――っ!」

 ジークの言葉がすべてをかき消す。


 兵士二人が真上からの衝撃を受けその場に倒れる。

 とっさに身をかがめた黒髪のそばを風が抜ける。

 同時にその背の鞘から剣を抜き取り、目の前の壁へとそれを一閃。

 崩れ落ちる壁とともに白い影が、光の中へと飛び出していく。


「……てん、し……?」

廊下にいた兵士が腰を抜かしたように座り込んだまま、つぶやくように言葉を発する。

 だが、答える言葉はない。その場にいた誰しもが、その一瞬に起こったことを説明することができずにいた。

 ただ、壁に開いた大穴と空になった鞘。そして牢内から消えた銀髪の青年の存在が、その一瞬が事実であると教えていた。



――シアルヴィは追われていた。

 いや、追われているのだと感じていた。もはやこの感覚こそが、彼に残された最大の能力であると言ってもよかった。


――シアルヴィが目を覚ましたのはジークよりはるかに前のことだった。

 すでに見知った場所に、彼はすぐにそこが帝都の監獄棟、その懲罰房であると気づいた。そして悟った。ヨツンヘイムはやはり帝国と繋がっていたのだと。

 だが逃げようとは感じなかったし、それが不可能であるとはすぐに気づいた。

 処刑命令を下されながら者が再度とらえられればどうなるかなど、彼には十分すぎるほどわかっていた。

 事実、その手足にはそれぞれに鎖に繋がれた枷がめられ、床へと転がされた彼の目の前には棒を手にした看守が彼を見下ろしながらほくそ笑んでいた。


 その責苦は筆舌に尽くしがたいものがあった。

 しかし、ヨツンヘイムの街道でジークの身柄と引き換えに差し出したこの身ならば、それすらもシアルヴィは耐えうることができたのだった。


 だが、そのためなら死すら覚悟していた彼を、脱走という断頭台への最短経路へ突き動かしたのは、看守の放った何気ない一言だった。

「お前がきかないってんなら、お前と一緒にいた銀色の奴にきいたっていいんだぜ?」


――ジークも、ここへ来ている。

それはシアルヴィにとって信じられない裏切りだった。


 だが、枷に制限される手足と、度重なる責苦によりかすむ視界では、かつて過ごした城内とはいえ、その行動は困難を極めた。

 友を探すなど、夢の夢といってもさしつかえなく、自分が今どこにいるのか、追われているのかすらはっきりとしない。ただおぼろげな輪郭と光だけを捉える目で、彼は光さす方を目指していた。


 やがてシアルヴィの目の前に一つの光の塊が映る。

 出口だと感じ飛び出していく、普段なら考えられないほど軽率な、それでいて無防備な彼の頭上からは直後、無数の炎が降り注いだ。


「あ……」

太陽ではないその光に、彼は死を覚悟する。その腕で顔をかばうようにし、まぶたを閉じて瞬間を待つ。


――痛覚は、ない。

 シアルヴィはまぶたを開き、顔の前に出していた腕を静かに下げる。目の前には翼をもった人のような、不思議な姿の影が見えた。

 それは、不自由な視界が見せた幻覚か、炸裂した魔法が見せた錯覚か。

 だが一度目を閉じ、再び開いたときにはその影は消え、代わって目に映るのは銀の髪を持ち、右手に剣を握った一人の剣士の後ろ姿。


「ジーク……?」

背後のシアルヴィから名前を呼ばれ、ジークはしっかりとうなずいてみせる。

 上階より落下したジークはシアルヴィに迫る魔法よりも一瞬早く降下し、彼へと向かう無数の魔法を、先ほど奪った剣一本で打ち払っていた。


 そして背中越しにシアルヴィの様子をうかがい、しかし目を背けるように、すぐに正面へと視線を戻す。

――なぜここまで逃げてこられたのか。

 逃げ出すことができたことすら不思議に思えるその状態では、目ははたして見えているのか、耳はちゃんと聞こえているのか、それさえジークには想像もつかない。


 許せないという怒りがジークの心を支配していく。だが、ここで戦うことは得策ではない。

 ジークは怒りを剣を握る右手へと込め、友の両足をつなぐ鎖を断ち切ると、もう片方の手でしっかりとその手を握りしめるのだった。


「シアルヴィさん、道案内を!」

「――東の門だ!  太陽を背に、中庭を右へ!」

「はい!」

ジークの言葉をすぐに理解し、シアルヴィが返す。



 剣は、不思議と手になじんだ。つかどころか、その刀身までもが黒く輝く一本の長剣。

 大振りだが振るうことが苦にならず、魔法すら打ち払うその剣に、自らの意志を伝えきるその剣に、ジークは自分たちの運命を一任していた。

 降り注ぐのは魔法ばかりとは限らなかった。

 だが降り注ぐ矢の雨も、白兵の槍さえもその剣一本で振り払い、シアルヴィの手をつかんだまま、ジークは中庭を駆け抜けていく。


――守る。

――必ず守る!

今までの恩義、奇妙な既知感。それらを含めた感情のすべてが、銀髪の剣士に今までにない力を与えていた。


 やがて彼らの目の前に、背の高い、砦のような城門が映る。それは城門というには大きく、開かれた扉の先には広間のような空間も見える。

 彼らはそのままためらいも見せず、開かれた門へと飛び込んでいく。


 シアルヴィの選んだ東の門は、先ほどまで彼らのいた監獄棟から城庭を走る距離は短くはない。だが距離があるゆえに置かれている兵は少なく、兵舎もないため、逃げるには適した場所であるといえた。


 だが、そこにも追っ手は隠されていた。

 自分の前を走りゆく二人を見送ったのち、柱の陰から一人の魔術師が、彼らを追うように姿を見せる。

 その手の先には、すでに完成した炎の魔法が浮かんでいた。

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