第5章 第4話 漆黒の鏡

 ざわり、と大きく風が動いた。

窓を叩く風の音が大きく響き、部屋の中にいた青年が近くの窓へと視線を移す。

「突風か。嫌な風だ……」

部屋の中にいるにもかかわらず、妙な寒気が感じられる。


 彼がいるのは帝都の城内。

 一般兵では立ち入ることの許されない、隠すようにあつらえられた一室だった。

 高い位置にある窓は開かれることはない。

 だが、その窓を揺らした一陣の風に、彼は胸の内を掻き乱されるような、奇妙な感覚を感じていた。

「……風、何かを教えようとしているのか?」


 だが、風は何も語らず、彼は諦めたように正面へと視線を戻すのだった。


 彼の目の前には今、巨大な鏡がそびえていた。

 いや、鏡というにはそれはあまりにも大きく、そして黒い。

 本来なら目の前のものをそのまま映す、銀の食器のように磨かれたものを鏡と呼ぶのが普通だろう。

 だが目の前にあるそれは、一般的な姿見と比べてもその数倍は大きく、その鏡面は磨かれた黒曜石のように漆黒である。

 彼の姿は映されてはいるが、それは夜間に硝子に映る姿のようだ。

「『漆黒の鏡』、か……」

青年はそう口にするが、目の前のそれは、鏡というにはあまりにもかけ離れていた。


 彼の将は告げていた。これは大事なものだと。

 その将の、そして兵たちの魔力の粋を結集してつくられたこの鏡と必要な力が揃ったとき、この鏡はニヴルヘル――魔界とこの世界をつなぐ扉となると。


「こんな――ものなど――!」

青年がその手で炎の印を描き出す。

 唱える韻に応えるように、右手に灯る印が輝きを増す。

 彼はそのまま掌を黒い鏡面と押し付けるが――

「――そこで、何をしている。」


 突如、背後から声がかかる。

 青年は慌てるように魔法を中断すると、鏡に背中をつけて振り返った。


「ロシェ、将軍――」

 視線の先にいたのは、黒い髪に赤い右目を持つ青年。

 赤と琥珀、左右で色が異なる瞳がまっすぐに、鏡に背を付けたままの青年を射抜いている。

 まとっているのは闇を思わせるほどの黒い軍服。

 先の青年とそっくり同じものではあるものの、先の青年の刺繍が銀糸であるのに対し、ロシェと呼ばれた青年のそれは金の糸で彩られている。


「それは大事なものだといっただろう。勝手に触れないでいてほしいね。」

言うが早いか、

「ッ――!」

先の青年――魔術師の青年が喉の前を両手でつかむようにし、苦痛の声を小さく上げる。


 触れられてはいない。

 だが大きな手の、その親指とほかの指で挟みこむようにして、首をつかまれる感覚が青年の喉元を襲っていた。

 その『手』を引きはがすように両手に力を込めるが、魔法により放たれたその力は彼の力ではどうしようもなかった。

 やがてかかとが宙に浮き、足全体が床を離れる。

 部屋の入口、扉の前に立つロシェの、伸ばした手から放たれた魔法がその力の正体だった。


「魔界での君の地位を尊重はしている。でも君が今、誰のおかげで生きていられるか。誰のおかげでその地位にいられるか。

 そして君の勝手な行動が、ここにいる君の臣民に対してのどのような扱いを意味するか。

 それでも反抗するつもりなら、次は、僕も手加減はしない。」

言い終わるとロシェは手を下げ、青年の首を吊っていた魔法の『手』への、魔力の供給を停止する。


 拘束から解放され、床へと落下した青年が膝をついたまま激しく咳き込む。

 ほほを伝う涙は息苦しさによるものか、あるいは――


 そして青年が顔をぬぐい、扉へと視線を向けたとき、そこに黒髪の将の姿はなかった。

 いまだ整わない呼吸を荒く弾ませながら、彼はただその感情を拳に込め、床へと叩きつけることしかできなかった。



「ジーク……」

やがて青年は、ぽつりとつぶやく。


 それはかつて故郷を飛び出した時、自身のそばにいた青年の名。

 だが自分は、自らその手を振りほどいた。

 そうすることで、彼だけは逃がすことができればと思った。

――結果、自分はこの国にいる。


――だが、このていたらくはなんだ。

 冥軍副将の地位に甘んじているわけではない。

 しかし、同胞が犠牲になるのを止めることすらできぬのなら、何のための権力だ。

 何が、魔界の王子だ――


 やり切れぬ感情の中、彼は心に旧友を思う。

 彼ならば、現在の自分をどう見るだろう。叱り飛ばすのか、それとも――


「ジーク……」

再び彼はその名を呼んだ。

「お前は今、どこにいるんだ? ジーク――お前に、会いたい――」

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