第4章 第6話 紅の刃

 夜が深くなってくる。満月の夜。

 本来なら月の明かりに照らされるこの夜も、薄雲に覆われたその姿では、満足に明るさを感じとることはできない。

 階下にはいまだ明かりがともってはいるが、二階部分は闇に閉ざされ、すでに数人の兵士たちは眠りの床へとついている。


 寝室の扉が音もなく開く。

 一つの影が部屋へと入る。

 手にされた刃が階下よりの光を反射し、その存在を示す。


 部屋の奥には一つの寝床。

 布団の膨らみが、その場に存在があることを教える。


 影が寝床の間近へと近づく。

 視線を落とし、ある一点を見つめたまま、数呼吸の間その場を動こうとはしない。

 やがて身を震わせ、唇にわずかに言葉を乗せ、手にした剣を刃を下に、最上段へと振りかざし――


「――寝室を間違えたというには、いただけない姿だな――」

背後から声がかかったのはその瞬間だった。


 慌てるように来訪者が剣を下げ、声の方へと向かいなおる。

 その動揺を示すように一瞬さまよった視線の先。

 開かれた部屋の扉の陰、入り口からは完全に死角になるその場所に、彼の標的はいた。


 薄雲がゆっくりとその存在を散らせ始める。

 青白い光が差し込む部屋の中、動きを失った来訪者へと向かい、標的はゆっくりと歩みを進める。

 月明かりに照らされ、その姿がはっきりと映し出された。


「先生……」

その手に剣を提げたまま、かすかにふるえる声で来訪者がもらす。

 部屋に住民は二人。リーヴ、そしてシアルヴィだった。


「一体……なぜ……」

「――生命を狙われたのは一度や二度ではない。 それゆえに、この鼻はどんなものも嗅ぎ分ける。この目はどんな毒も見分ける。」

「――!」

問いかけるリーヴにシアルヴィは答え、それがさらにリーヴの驚愕を大きくする。


「食事に毒を盛ったな。睡眠――いや、神経性の毒草か。」

「……」

「だが、量が少なかっただろう。 あれぐらいの量では、私の動きを制することなどできない。」

「……気付いて……気付いた上で、それを摂ったというのですか……」


 シアルヴィは真っ直ぐにリーヴを見据える。 嘘のないその目に、リーヴは次の言葉を発することができないでいる。

 むろんシアルヴィとてそれを摂った以上、身体に影響が出ないはずはなかった。

 動けなくなるというほどではないが、体の自由は思うようにきかず、手足の感覚は、それが自分以外の誰かのものであるようにさえ感じる。

 それを目にしたときから、こうなることは分かっていた。

 だが、それを拒もうという感情は彼の中には生じなかった。


 彼は全てを知った上で、あえて自らその手の内へと飛び込むことを選んでいた。

 毒と知りつつ、それを相手に気付かせぬまま受け入れることを選んだのも、布団を身代りとして身を隠していたのも、すべては彼の、彼なりのリーヴに対する思いにそのわけを由来していた。


「君になら、そうされても仕方ないのかもしれない。 私は、それだけのことをしてしまっているのだからな。」

「……近づかないで下さい!」

無言の対峙の後。

 リーヴへ向かい歩みを進めるシアルヴィに、彼は数歩引き下がり、抜き身のままの剣を再び両手でその中段へと構えなおす。


「私が憎いのだろう。なら、その剣で私を突けばいい。」

「い……」

 リーヴの間合いへとシアルヴィが踏み込む。

 剣を握る身体は大きく震え、その剣先は全く位置を定めないでいた。


「私は逃げない。その剣で私を突いてみろ!」

シアルヴィが声を荒げる。

「それとも、眠っている相手は突けても、起きている相手は突けないとでも言うのか!」

「――!」

「――来い!」

彼の叫びを受け、一度だけ雄叫びが響き――そして、重たい衝撃が残されていた。



「あっ……あ……うぁ……!」

言葉にならない声が口を突いて出る。

 剣をつたった赤い液体がリーヴの両手を真紅に染め、力を失った手から剣が床へと滑り落ちる。

 そのまま数歩引き下がり、事態の理解を拒絶するように頭を振るが、両腕に伝わった重たい衝撃は、いまなお鮮明な記憶として、彼にさらなる自責の念を抱かせてくる。


 一瞬の感情に任せて行ったその行為が、自身の行動でなかったように感じる。

 できることなら夢であれと心のどこかで願うリーヴに対し、目の前にある現実は、それが事実であると、いやおうなく彼を攻め立ててくる。

 その両脚はわなわなと震え、顔からは急速に血の気が失われていった。


 彼から戦意が失われたことに気付いたのか、シアルヴィが一度だけ大きく息を吐き、そして足元から崩れ落ちた。

 脇腹へとあてがわれた指の間から流れ出す赤い液体が、彼の衣服を血の色へと染めていった。


「先生!」

慌て、シアルヴィの元へと駆け寄るリーヴ。

 視線を合わせるようにかがみこんだその目に、先程の一瞬見せた殺意などはかけらも感じられなかった。


「どうだ、人を斬る気分というのは――」

諭すように、シアルヴィは彼へと語りかける。

「君はまだ、人を斬ったこともないのだろう。そして、人を斬れる目もしていない。」

「……」

「――たとえ憎い相手であっても、その生命を奪う感情というものは決して気分のいいものではないだろう。 そして、一度でも人をあやめた者の生命の枷は、生ある限りずっとその身に残り続ける――人を殺めるとはそういうことだ。

 ――人の生を奪うという意味も分からぬまま誰かの生を、自身の生を投げ出そうとはするな――!」

「……!」

ようやくリーヴは全てを理解した。

 師の真意を知り、同時にその事実は彼に更なる錯乱をもたらせ、彼は自身の中で何かが音を立てて崩れていくのを感じていた。


「先生……僕は、僕はどうしたらいいんですか……!」

あふれる感情を抑えようともせぬまま、リーヴはシアルヴィへと、懇願するような声で語りかける。

「……ヒミンビョルグに帰って初めて知ったんです。先生が『紅い死神』と呼ばれた、その人かもしれないってこと……!

 でも、確信はなくて、でも、それでも『紅い死神』がいなかったら、アールヴヘイムがこんなになってることはなくて、そして、ヒミンミョルグが襲われなかったら、弟が死ぬこともなかったんじゃないかって……!」

「……」

「でも、一度でもそうかもしれないって思ったら、もうそればかり考えてしまって……! バルドル先生もあなたが手にかけていたんだって気付いて、そしたら僕はなんて人を助けてしまったんだろうって……!」


 リーヴの言葉はほとんどがその脈絡を失っていた。

 興奮状態なのもあり、気持ちの整理がつかないのもあったのだろう。

 だが、シアルヴィには分かっていた。その全てが、自身にかかわることであったのだから。


 リーヴはシアルヴィが孤児院へとたどり着くその前から、あの場所にいた。

 先代の師であるバルドルの教え子でもあり、また浜辺へとたどり着いたシアルヴィを介抱したのも、ほかならぬ彼自身だった。

 そして、彼が嬉しそうに語るバルドルとの思い出は、シアルヴィに更なる自身の罪を感じ抱かせ、彼の孤児院へと寄せる深い愛情を知らされることとなっていた。


 そんな彼にとって、孤児院の喪失という事実はあまりにも重く悲しいものであることに間違いなく、そしてそれを守りきれなかった、いや、失わせる理由を作った自分は、殺めようとするまでに責められるべき存在であったとしても無理はなかったのだと、シアルヴィには思えていたのだった。


「確信は……アルスター襲撃のときか……」

「アルスターに『紅い死神』が生きていて……帝国兵はそのために侵攻したと聞きました。 僕は最後まで先生を信じていたかったけど、でも……」

「……」

「でも、あなたを目の前にしたら、斬れなくなってしまった!  憎いと思っていたはずなのに! 殺したいと思っていたはずなのに!」

「……リーヴ。」


 リーヴの身体が、ふっとシアルヴィの腕の中へと抱きかかえられる。

「……それで、かまわない。……君は、君のままでいればいい……」

「……」

「ヨツンヘイムの件は、私に任せて欲しい。血塗られた生を歩むのは私一人で十分だ。君たちが……血にぬれる必要はない。」

「……」


「君たちに出会えなければ……私はずっと、『死神』のままだっただろう。

 ……本当に感謝している……ありがとう……」

「……」

「……」

「……先生!?」

異常に気付き、リーヴがあわてて身体を起こす。

 シアルヴィの身体が、力なく床へと倒れこむ。

 顔色が悪い。先ほどまで自分を抱きとめていた指先は体温を失い、あまりにも冷たい。


「――だれか!」

転がるようにして廊下へ飛び出し、リーヴがその場で声を張り上げる。

「だれか!人を呼んでくれ!」

夜もふけた宿屋に人を求め願う、彼の叫びが響き渡っていた。

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