第3章 第1話 離別

 闇の中、赤毛の青年が一人歩いていた。

 首元に、髪先のあたる感覚がある。

 温かみのある『水』が頬を伝い、肩口にしみを広げるのが感覚として伝わってくる。


 やがて視線を落としたまま一人歩く彼の前に、ふと二本の脚が映る。

 ゆっくりと顔を上げる。目の前には一人の男がいた。

 黒い髪に黒紫の軍服をまとい、わが子を見つめる父のような目をしたその男に、青年はゆっくりとその手を伸ばす。


 だが、青年の手が相手に届く寸前、その顔は瞬く間に、優しい父の顔から、醜い死神のような表情へと変貌を遂げる。

 息を呑み、表情を凍りつかせ、青年は身を引こうとする。

 だが両足は動かず、足元にはまとわりついてくる重たい感覚があった。

 それは、いくつものむくろの群れだった。


 深い沼より湧き上がるように現れた骸たちは、青年の脚へと手に手を伸ばす。

 それはさながら小舟に群がる難破者のようで、そうしてすがりつかれた彼の身体もまた、暗き沼へと引きずり込まれていった。


――ウトガルド――!


 振り払いきれぬ骸にその身を沈められながら、彼は自分の知るその男の名を懸命に叫ぼうとした。だが、声が出せない。

 見下すような視線とともに男が微笑んでいるのが見えた。


――沈む――!

 すでに肩までを『沼』へと飲まれ、頭部までまとわり付く骸の重さに死を覚悟した青年の視界は、しかし直後、炸裂した閃光によって奪われていた。

 光の中へ相手の男が、骸の群れが飲み込まれるのが一瞬見えたが、それを確認する間もなく、純白の世界は光が失われるそのときまで、彼に視界を許そうとはしなかった。


 やがて光は静かに収束し、青年は目を守るべく眼前に出していたその腕を静かに下げる。

 彼の前に、ひとつの人影があった。


 すでにかの男も、骸の姿も見えない。

 沼ではなく、大地としての感覚を取り戻したその場所に、青年はひとり座り込んでいた。

 そして相変わらずの漆黒の世界の中、ただその人影だけが、周囲を包む光の中に浮かんで見えた。


――天使――

 こちらへと背をむけた、その背に翼を持つ人影に青年はそう感じ取った。

 人影はゆっくりと振り返る。

 翼越しにその表情が見え、驚愕とともに彼は叫んだ。

 同じ目をした、ひとりの若者の名を――



「―――!」

その声は、言葉になったのだろうか。

 彼が眠りに落ちてからどれぐらいの時が流れたのだろう。

 引き裂かれた眠りに赤毛の男――シアルヴィはそのままその場から動くことはできなかった。

 ここは夢ではない――現実。

「私は……まだ生きているのか……?」

彼には、自分の存命が信じられなかった。


 身を起こそうとして走る鈍痛に、わずかに苦痛のうめきを漏らす。

 腹部へと手をかけ直後、疑問をその目に浮かべる。

 腹部に負ったはずの傷には医療的処置が施されている。それだけではない。

 内側に痛みは感じるものの、その傷のほとんどはすでにふさがれているようだった。


――回復魔法。

対象の生命力そのものを回復させることはできないが、その傷を癒し、痛みを和らげることのできる魔法。

 その魔法がかけられているからこそ自分は今もこうして生きているのだろう。

 そうでもない限り、こうして自分が生きていること自体が本来はありえないことなのだから。


――だが、いったい誰が……?

そう考えかけたとき、部屋の外より響いてきたのは、数人の男たちの怒鳴り声だった。


「さあ! 奥の部屋のあいつを出して来い!」

「あんな傷を負ってくるなんてな! 絶対何かあると思ってたんだ!」

「孤児院なんかに住みつきやがって!」

「あの保父は前々から怪しいと思ってたんだ!」


「――待ってください! 傷がまだ直りきっていないんです!  せめて傷が治るまでの間だけでも!」


「関係ない! どけといっているんだ!」

「やつがいる限り必ずこの町は不幸になる! 孤児院がそうだったようにな!」

「『死神』などこの町においておけるか!」

「さあ、そこをどけ!」


「やっ……やめてください!」

怒気をはらむ数人の男たちを一人の青年が必死に抑えようとしているのが、声からも、そして物音からも伝わってくる。

「ジーク……」

部屋の中、シアルヴィは小さく呟いていた。

 再び腕の力を借りて上体を起こし、視線を床へと落とす。

 意識を失う前まで、彼にとってはつい先ほどまで振るわれていた漆黒の剣は、友に預けたその片割れとともに自身の傍らへと置かれていた。



「やつがいたから、孤児院は襲われた! 殺されたんだ!」

「数日前から帝国はやつをつけてたんだ! 『あかい死神』だってな!」

「やつが子どもたちを死なせた! 殺させたんだ!」

「『死神』こそ死ぬべきだ! 殺されるべきだ!」


「さあどけ!」

罵声に身をこわばらせるジークを、一人の男が強引に突き飛ばす。

「――だめだっ!」

床へと倒され、それでも止めようとするジークの前で、扉は強引に開け放たれた。



「――おい、いないぞ!」

先頭の男が声を上げる。

 薄汚れた部屋にはただ積み上げられたわらくずと毛布が見えるだけで、かの男性はその傍らにあった双剣ごと、跡形もなく消えうせていた。

 壁の一部が部屋の内から外へ向かい、木切れとなって散らばっている。


「あの野郎、逃げやがった!」

「あの傷だ! そう遠くには行ってない!」

「探せ! 探し出して帝国に突き出してやる!」


 怒り心頭の男たちを尻目に、ジークは一瞬わずかな安堵感を感じていた。

 しかしそれはすぐに、悲しみと困惑の感情に塗りつぶされていく。

 なぜ、シアルヴィはいなくなってしまったのか。

 そして、『紅い死神』というのは……


「シアルヴィさん……。」

壁の穴から吹き込む風が、孤独をいっそう感じさせる。


「……ぼくでは……あなたの力になれませんか……?」

男たちはすでにあばら家を後にし、残された青年は一人、静かにつぶやいていた。

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