第2章 第6話 世界樹ユグドラシル
――紅顔の少年よ。なぜ今、我の眠りを覚まさんとする――
声は重厚に、かつ荘厳に響いてきた。
聞こえると言うより、直接頭に響いてくると言った方が近い。
同時に手の先にあった木の幹の感覚が、足下にあった水の感覚がその周囲から失われていく。
閉じていた瞳を静かに開く。
目の前にあるのは闇、そして遙かに見えるこちらを照らしているような白い光。
――無垢なる少年よ。お前がここへ来た理由はなんだ。
声は再度、直接頭へと響いてくる。
「お願いがあります。あなたの力を、少しだけでいい。ぼくに貸していただきたいのです。」
――力を、貸すだと?
光は怒りを表すように、その輝きと大きさを増す。
――我が力はあまりにも強大。一介の人間などに使えようはずがなどない。
無知なる少年よ。ここへ来たのはお前自身の意志によるものではあるまい。
誰がお前を焚きつけたというのだ――
ジークの思考に、シアルヴィの、そして森の番人の姿が浮かぶ。
だが、そうではない。自分は誰かの意志でここへ来たのではない。
自分が今ここにいるのは、間違いなく自分自身の意志だ。
「誰に焚きつけられた訳でもありません。ぼくは今、ぼく自身の意志でここにいます。あなたに会うために……あなたの力が必要だから!」
きっぱりと言い放つジークに、目の前の光がわずかにゆらめく。
――少年、名を名乗るがいい
「ジーク……ジークフリード!」
自身の名前を覚えているわけではない。
だが森の番人にそう呼ばれたとき、自分はそれを自身の名前として受け入れていた。
遙か記憶の先の過去が、それを自身のものとして自然にその名を認めていた。
――ジークフリード、だと――?
光は先ほどよりも明らかに大きくゆらめき、そしてその輝きを増す。
「あなたは……、ぼくを知っているというんですか? ぼくは、ぼくは一体誰なんですか!」
その揺らぎの意味に気づいたようにジークが問いかけるが、光はおもむろに元の輝きへと戻ると静かに告げる。
――残念だが、その答えを告げる者は我ではない。
その答えを出すのが誰であるのか、お前にはすでにわかっているのだろう。
「……!」
――そして先の願いだが――お前の中にはすでに我が力の種子が宿っている。
お前自身がその事実を受け入れ、身を委ねることを選ぶのなら、その力はいつでもお前に力を貸すことだろう。
「そんな、それはいつになるというのですか!」
光は、答えない。
「ぼくには、すぐにその力が必要なんです。ぼくの大切な人が今、その力を必要としているんです。
……ぼくは……自分が何者なのかさえわかりません。けれどここには、そんなぼくでも、受け入れてくれる人たちがいました。
だから、その人たちのことだけは、ぼくは絶対に守りたいんです。」
ジークの嘆願に、光はわずかにその大きさと強さを増す。
――若い少年よ。目を開いてよく見るがいい。
この世界は今、お前が全てをかけて守りたいと思えるほど価値のあるものか?
お前が守りたいと思う者は、お前の全てを捨てても、守るべき価値のあるものなのか?
「そんなことはわかりません。ぼくだってまだ、この世界の全てを目にしたわけじゃない。
……けれど、約束はします。ぼくにその力が宿っているというのなら、ぼくは決してその力を、誤った方向へ使ったりはしないと。」
声は、答えなかった。目の前の光が大きく輝きを増していく。
――ならば示せ! 我が前に、お前の心を――
前方から吐き出される、強烈な光の波がジークを包む。
全身を貫くような衝撃の中で、彼は固く目を閉じたまま、ただひとつのことを考えていた。
意識が次第に遠ざかっていく。 光の波は徐々に弱まる。
だがそのころには彼の身体はすべての力を使い果たしたように、ゆっくり後方へと倒れ始めていた。
「っ……!」
不意に上がった水音と、腰から下をぬらす水の感覚に、ジークは一瞬にして我に返った。
すでに暗闇も、彼を襲った光も見えない。
ゆっくりと見上げる。目の前には巨大な樹木がそびえていた。
泉に囲まれた巨大樹。
その周囲を潤す、立てば膝の深さぐらいはありそうな泉の中に、彼は座り込んでいた。
「世界樹……ユグドラシル……」
ゆっくりとその名を呼ぶ。
「あなたは、ぼくを認めてくれたのですか?」
フォルセティは言っていた。
ユグドラシルはこの森の一番奥に位置し、その頂は天にまでそびえる巨大樹だと。
だがそれは決して、それ自身で何かを癒す力を持っているわけではない。
それは、人間たちの伝承でよじれて伝わった事実。
真実はただひとつ。
ユグドラシルは自身と対話し、認められた者にのみ、その大いなる知識を、力の使い方を伝える、ひとつの神聖なる生命。
ジークはゆっくりと立ち上がった。
見上げるユグドラシルはどこまでも巨大で、その先ははるか遠く、空へと飲まれているようにさえ見えた。
「ジークフリード。」
背後からフォルセティの声がかかる。
振り向いたジークの視線の先に、衣服のすそをたくし上げるようにして泉に入る、森の番人の姿が見えた。
「……ユグドラシルと、話しました。」
ジークがゆっくりと語り始める。
フォルセティは何もきかない。ただ無言で、彼の次の言葉を待っている。
「……世界樹は言いました。 その力はあまりにも強大で、使い方を誤れば恐ろしい力となることもできると。でも、ぼくがその全てを理解した上でその力を使おうというのなら、ぼくがそのための知識を使うことを許してくれると。」
「ユグドラシルは生命の樹です。それ自身が何かの力を持っているような存在ではなく、この世界のすべてを知り、世界のすべてにつながる大いなる知識の存在です。 その知識はときには人を守る力となり、あるいはそれを知る者に、望めばすべてを破壊するほどの力を与えることも可能なのです。」
「……」
「あなたは、認められたのでしょうね。 彼のもつ知識を、その力を、決して誤って使ったりする者ではないのだと。」
「……ぼくは、ユグドラシルを人を癒せる力だと思っていました。 その力があれば、大切な人を守ることもできると思っていました。けれどそうじゃなかった。
……ユグドラシルの大きな力には、破壊と守りの両方があったんです。それはまるで人の心みたいで……、ぼくはユグドラシルの力に触れて、やっと、そのことに気づくことができたんです。」
ジークの言葉に、フォルセティはやさしく笑みを浮かべた。
「……ユグドラシルは、知識の後継者を見つけたようですね。それだけ理解できているのなら、あなたはもう充分です」
そしてジークの目を見据え、言葉を続ける。
「さあ、お行きなさい。あなたには、それだけの力があるのだから。」
「ありがとうございます!」
大きく頭を下げ、フォルセティに礼を言うと、ジークは森を駆け出していた。
その背中を振り向き見たフォルセティの表情にはそれまで見せていた笑顔ではなく、かすかな憂いが浮かんでいた。
「……約束でしたね……果たすときは、来ましたよ。」
吹き抜ける風が彼の髪を周囲へ乱す。
やがて、一陣の突風が吹きぬけたとき、彼の姿は木の葉とともに風の中へとかき消えていた。
精霊の森を抜け、孤児院の見える丘へ。
喜びと責任感に突き動かされていたジークは、しかしその瞬間、思考を完全に絶望と混乱に支配されていた。
――炎上する孤児院――
ジークの両脚は絶望に震え、目に映るものを否定しようとするかのように、彼は首を左右に振った。
やがて、
「シアルヴィさん!」
その名を口にすると、彼は猛然と駆け出していた。
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